繰り返しになるが・・機能不全家族というものは、子の誕生や成長、進学・就職・自立・結婚といったいわゆる「人生の節目」をスムーズに越えられない事が多い。家族成員の力関係や位置の安定が失われることに恐怖を感じ、まるで世界が終わってしまうかのようなパニックに陥る。
よそから見れば「何でそんな事?」と思うような簡単なハードルもうまく越えられず、命がけとも思える集中力でことにあたらないといけないため多大なエネルギーを必要とし疲弊する。過剰とも思える対価を支払って、ようやく次の成長段階に進むことになる。
でも実際に起きている事象はやはり「過ぎてしまえば何だこんな事」程度の事。世間の皆が通るアタリマエの道。だから喉元を過ぎれば、あんな大騒ぎしたこと自体を忘れる。
私が大学に進学する時もそうだった。
まるで私が人生を棒にふろうとしているかのような大騒ぎをして、受験を邪魔したくせに、今その時のことを言うと「お母さんは反対なんかしなかった」とケロッとしている。
マジすか。忘れたんすか、あのバトルな日々を。
・・今回の、私の結婚にまつわる一連の騒動もきっと同じ。あと5年10年もすれば「無かったこと」になってるはず。
「お母さん、あまり気が進まなかったけど、そんなに反対なんかしなかったわ」って言うに決まってる。「結婚するまではいろいろあったねぇ」的思い出話にすらならない。本当に無かったことになる、それはそれは見事に。
だって彼らは現実を生きていないから。生きている相手と向き合っていないから。
そうなってしまった背景には、過ごしてきたそれぞれの人生の、いくつかの岐路が関わっている。
その中でもとりわけ大きいのが、兄の死だ。
風野家(←仮名ですよ、念のため ^^;)では未だに、兄の死を受容できていない。もう10年になるのに。
だからその不幸を含めた自分の人生そのものを、両親は受け入れられない。父が言う「オレの人生は何だったんだ」という愚痴も、そういう事だ。
そういう彼らの人生に今、唯一残されている「一発逆転のチャンス」が、私の結婚。
ここで娘が人もうらやむような立派な相手とのセレブ婚をし、幸せになれば、今までの全ての涙が報われる・・どうも両親はそう信じているふしがある。
人生一発逆転ってアナタ・・(--;)
いや、それを目論むのはご自由ですが、それぞれご自分の人生でやって頂けませんかね・・。
しかも正直に告白すれば、その「一発逆転」を望む射幸心は、私の中にもある。だからこそ親にそういう言動をされると、自分の恥ずかしい姿を見せつけられているようで、ますます冷静さを失い、ゲキドしてしまうのだ。
兄というかけがえのない存在の喪失に対する、充分な慰藉としての慶事。それを望む想いは、私だって同じ。
でも、誰も「誰かの代わり」にはなれない。
失われたものは、とり戻せない。時は巻き戻らない。
その厳然たる事実を突きつけられたくなくて、両親は今、目をそらし逃げ回っている。
ダーリンがどんな人物で、私が今どんなふうに幸せを感じているかを、知ってしまうのが怖い。
なぜならそれは巡り巡って、兄を本当の意味で葬ることにつながるから。
闘病、孤独、そして思いがけない事故。何年にも亘るそれらの記憶は、整理されずに両親と私の中に、まだ生々しい傷を晒している。取り出して向き合い「喪失の痛みを共有する」治療をしなければいけないのだが、あまりに痛くて、上手く触れないのだ。
こういう作業は当事者だけでは無理。専門家の助けが要る。
しかし両親は他者を信頼する力量が無く、心を閉ざすタイプ。
しかも悪い事に、かつて私は心理職だった。専門職の狭い世界で知人も多く、「私は構わない」と言っても両親は体面を気にして「よそ様に家庭内の傷を晒すなんて耐え難い」と言う。それよりも娘の私に頼って治療っぽい対応を受け、その場しのぎをしていた方が気楽だし、お金もかからない。
そうこうしている内にも時間は容赦なく流れる。
年金世代の両親と違って私は、実社会で一個人として生活していかなければならない。いくら「親のため」と言っても「過去に心に傷を負っているから」と言っても、そんなの世間では通らない。私は単なる「自立できない娘」「ちゃんと働かない女」としか評価されない。
・・やってらんない。
最近はニュース等で「PTSD」だの「心のケア」だのという語句によく出会うが、その度「そういう恩恵に浴したいもんだよ」と鼻笑いしてしまう。
・・負けない。ここでふんばって、私だけでもきちんと生きて、幸せにならねば。それがせめて私に出来る、兄への供養だと信じて。そしてそれが、本当の意味での親孝行だと信じて。
よそから見れば「何でそんな事?」と思うような簡単なハードルもうまく越えられず、命がけとも思える集中力でことにあたらないといけないため多大なエネルギーを必要とし疲弊する。過剰とも思える対価を支払って、ようやく次の成長段階に進むことになる。
でも実際に起きている事象はやはり「過ぎてしまえば何だこんな事」程度の事。世間の皆が通るアタリマエの道。だから喉元を過ぎれば、あんな大騒ぎしたこと自体を忘れる。
私が大学に進学する時もそうだった。
まるで私が人生を棒にふろうとしているかのような大騒ぎをして、受験を邪魔したくせに、今その時のことを言うと「お母さんは反対なんかしなかった」とケロッとしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
・・今回の、私の結婚にまつわる一連の騒動もきっと同じ。あと5年10年もすれば「無かったこと」になってるはず。
「お母さん、あまり気が進まなかったけど、そんなに反対なんかしなかったわ」って言うに決まってる。「結婚するまではいろいろあったねぇ」的思い出話にすらならない。本当に無かったことになる、それはそれは見事に。
だって彼らは現実を生きていないから。生きている相手と向き合っていないから。
そうなってしまった背景には、過ごしてきたそれぞれの人生の、いくつかの岐路が関わっている。
その中でもとりわけ大きいのが、兄の死だ。
風野家(←仮名ですよ、念のため ^^;)では未だに、兄の死を受容できていない。もう10年になるのに。
だからその不幸を含めた自分の人生そのものを、両親は受け入れられない。父が言う「オレの人生は何だったんだ」という愚痴も、そういう事だ。
そういう彼らの人生に今、唯一残されている「一発逆転のチャンス」が、私の結婚。
ここで娘が人もうらやむような立派な相手とのセレブ婚をし、幸せになれば、今までの全ての涙が報われる・・どうも両親はそう信じているふしがある。
人生一発逆転ってアナタ・・(--;)
いや、それを目論むのはご自由ですが、それぞれご自分の人生でやって頂けませんかね・・。
しかも正直に告白すれば、その「一発逆転」を望む射幸心は、私の中にもある。だからこそ親にそういう言動をされると、自分の恥ずかしい姿を見せつけられているようで、ますます冷静さを失い、ゲキドしてしまうのだ。
兄というかけがえのない存在の喪失に対する、充分な慰藉としての慶事。それを望む想いは、私だって同じ。
でも、誰も「誰かの代わり」にはなれない。
失われたものは、とり戻せない。時は巻き戻らない。
その厳然たる事実を突きつけられたくなくて、両親は今、目をそらし逃げ回っている。
ダーリンがどんな人物で、私が今どんなふうに幸せを感じているかを、知ってしまうのが怖い。
なぜならそれは巡り巡って、兄を本当の意味で葬ることにつながるから。
闘病、孤独、そして思いがけない事故。何年にも亘るそれらの記憶は、整理されずに両親と私の中に、まだ生々しい傷を晒している。取り出して向き合い「喪失の痛みを共有する」治療をしなければいけないのだが、あまりに痛くて、上手く触れないのだ。
こういう作業は当事者だけでは無理。専門家の助けが要る。
しかし両親は他者を信頼する力量が無く、心を閉ざすタイプ。
しかも悪い事に、かつて私は心理職だった。専門職の狭い世界で知人も多く、「私は構わない」と言っても両親は体面を気にして「よそ様に家庭内の傷を晒すなんて耐え難い」と言う。それよりも娘の私に頼って治療っぽい対応を受け、その場しのぎをしていた方が気楽だし、お金もかからない。
そうこうしている内にも時間は容赦なく流れる。
年金世代の両親と違って私は、実社会で一個人として生活していかなければならない。いくら「親のため」と言っても「過去に心に傷を負っているから」と言っても、そんなの世間では通らない。私は単なる「自立できない娘」「ちゃんと働かない女」としか評価されない。
・・やってらんない。
最近はニュース等で「PTSD」だの「心のケア」だのという語句によく出会うが、その度「そういう恩恵に浴したいもんだよ」と鼻笑いしてしまう。
・・負けない。ここでふんばって、私だけでもきちんと生きて、幸せにならねば。それがせめて私に出来る、兄への供養だと信じて。そしてそれが、本当の意味での親孝行だと信じて。
あちらはコメント数が多いので、こちらにお邪魔してコメントさせて頂きます。
それにしても、興味深い内容満載ですね!ちらっとこのページ読ませて頂きました。ぜひまた来てコメントさせて下さいね!
またうちにも気軽にいらして下さい。心待ちにしております。有難うございました!
あんなに沢山のコメントだったので、カキコに気づかれるのに時間がかかるんじゃないかと思っておりましたが!すばやいリアクション、見習いたいです。(^^)
環境問題はホント、根深くて、価値観にザリザリ触れてしまうため感情論になりがちで、扱いが難しいです。
「知能指数の高い人たち」にこそもっと沢山の人数、環境問題に関わって欲しいものですが、そういう方々は「利口に立ち回る」事が得意だから表層にさらっと触るだけで深く関わるのを避ける。それへの苛立ちが、つい「綺麗事ばかり言って!」という表現になってしまったりするんだと思います・・。
とにかく根気が必要です。
それから、人を、明日を、信じること。
親として娘は大事です。「ダーリンがどんな人物で、今どんなふうに幸せを感じているか、将来どうするか。」
これを聞きたいと切望している。言えない。
よい決意が伝わらないことも多い。コミュニケーションの難しさを感じます。一方からだけではよく分かりませんが、お母様の本音は(誤解があるにせよ)愛かなとも思います。
コミュニケーションって難しいですよね。
特に親子だと「分かって欲しい気持ち」の方が先に立ってしまって、伝える中身より「相手が耳をふさいでいる態度」とか「コチラの言葉を信用してくれない事」の方に目が行ってつい感情的になってしまう。
私の側にも甘えがあるのかな、と思います、そういう意味では。「たとえ親子でも分かり合えない事はある」とサパッとあきらめてしまえは苦しまずに済むのに、ぐじぐじ悩んであきらめきれないのは、実は私の中の『親子観』の問題で、当の親自身には責任のない事なんですよね・・。