六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

起立、しないんですか?

2005年03月29日 | 文化・社会
 世の中は春、三月。旅立ちの時、卒業式シーズン。
 卒業式といえば、式典での国旗掲揚、国歌斉唱。

 ・・昨夜は珍しくダーリンが早い時間に帰宅し、私も珍しく夕飯の支度が出来ていて(いつもは、予想外に早く帰宅されると慌てる・・ ^^;)「すぐ食べられるよ~」なんてイイ雰囲気だったのに~。
 ブチ壊してくれたよ、NHKのクローズアップ現代。

 腹立つ。なにアレ。
 NHKもとうとう「インテリコドモな左がわでーす」と公然と宣言することにしたのか。
 せめて最後に「自分の国の旗に向かい合い、国歌と定められた歌を歌うという行為に、私たちはなぜ抵抗を感じてしまうのでしょうか」くらい問いかけなさいよ!

 この問題はそもそも教員たち自身が、自分の国は劣っていて、過去の人々や自分につながる先祖は誤った恥ずかしい者と教えられ、歌ったり国を愛したりすることが戦争賛美につながると信じているから、結果、めぐりめぐって「強制」される破目にまで至ったんでしょう?

 インタビューされていた教員の一人が「子どもは国のために卒業するんじゃない。一人一人がこの学校を巣立っていくのが卒業式だから、式典には校歌だけで良い」と答えていて、唖然とした。

 自分の目の前しか見えていない。

 その、アナタの可愛い子どもたちが卒業して入ってゆく先は、他でもない日本という「国」なのよ?子どもたちに、はなむけに希望でなく厭世を、自律でなく放縦を手渡すなんて。
 学校に留まる教員自身は自分の信念を貫いて気持ちイイかもしらんが、それって「子どもを預かり社会へ送り出す職」としてどうなのか?

 そもそも、アナタが歩く道路は「日本という国」に生きる人々が快適な暮らしのためにお金を出し合って整備した場所なのよ?アナタが食べたご飯は、名も知らぬ先祖が命がけで開墾した田んぼに実ったお米なのよ?アナタの飲む水は、孫の代までと考えて木を植えた山から流れてきてるのよ?

 こういう浅学で視野の狭い厭世主義・個人主義が、どれだけ子どもたちの魂を傷つけ「社会の中で生きていく力」を削いでいるか。
 だから礼儀も知らないコドモ丸出しのバーチャル守銭奴がちやほやされる軽薄な世の中になっちゃうんだ。

 第一、お行儀が悪くてみっともないさー、国旗国歌で起立しないなんて。

 行儀というのは「他者への配慮」から生まれる。
 自分には抵抗があろうとも「他者が大切にしているもの」には公的な場で一定の配慮を態度で示す。それが「おとなとしての、格好イイふるまい」ってもんでしょう。それを体現してみせるのが教師の役目じゃないのか。

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25 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
よくわかりませんでした (十条)
2005-04-02 01:12:09
文章読ませていただきました。



>子どもたちに、はなむけに希望でなく厭世を、自律でなく放縦を手渡すなんて。



そう述べられる根拠がわかりません。「厭世を手渡す」という根拠は何でしょうか。「放縦を手渡す」という根拠は何でしょうか。
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そうですか・・ (風野)
2005-04-02 20:24:04
コメントありがとうございます。



勢いで書いたため言葉が足りないのですが・・うーん。



私は「国のためじゃない、ひとりひとりのためだ」と仰る教師の気持ち、分からないではないですが、そのひとりひとりが集まって「国」になってるのに「国のためじゃない」というのは?逆に、よくわからない論理です。

かけがえのないひとりひとりの集まりのシンボルとして旗と歌がある、それを大切にしない態度の根拠は「厭世」では?

それに「他者のためじゃない、自分のためだ」・・そればっかりな世の中って、イヤじゃないですか?



「放縦」という言葉で言いたかったのは本文ラスト4行のことです。
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「希望ではなく厭世」発言について (十条)
2005-04-03 20:06:11
返答有り難うございます。

まず、「希望ではなく厭世」という発言のうち、「厭世」については言及されていますが、「希望ではなく」と発言された根拠は述べられていないと思います。

それはさておき、



>私は「国のためじゃない、ひとりひとりのためだ」と仰る教師の気持ち、分からないではないですが



そうですね。



>そのひとりひとりが集まって「国」になってるのに「国のためじゃない」というのは?逆に、よくわからない論理です。



元の発言はこうですね。

「子どもは国のために卒業するんじゃない。一人一人がこの学校を巣立っていくのが卒業式だから、式典には校歌だけで良い」



学校と子どもの関係の節目が卒業なのですから、この発言には何ら問題はないと思いますが。

卒業した後「国のため」に尽力するかどうかは、卒業したあとの話で、卒業そのものとは別個の事柄です。



風野さんの論理では、そのひとりひとりが集まって「市(町村)」を形成し、「県」を形成し、「国」を形成し、「アジア」を形成し、「地球社会」を形成しているわけです。

ですから風野さんの論理によると、教師は「子どもは市のため、県のため、国のため、アジアのため、地球社会のために卒業するんだ」、というべきで、そう言わないのは「よくわからない論理」だということになりますね。



もう少し進めると「子どもは市のため、県のため、国のため、アジアのため、地球社会のために卒業する」と言わないのはおかしい、そういわない教師は「希望ではなく厭世を手渡す」輩、ということになるはずです、風野さんの論理では。

ただその論理に基づくと、日本の近代教育が始まって以来、戦前も戦後も「希望ではなく厭世を手渡す」ということになるでしょう。ひとりひとりが集まって地球社会を形成しているのに、卒業式に世界地図を張らないわけですから。



話を戻します。学校と子どもの関係の節目が卒業なのです。卒業後市や県や国やアジアや地球社会で貢献しなさい、というのもとりあえず大事でしょうが、それは正課の授業でやっていること。

卒業式そのものは、基本的には子どもの成長を祝う式典であり、子どもと学校の別れの式である。市や県や国やアジアや地球社会を持ち込まなくてもいいのでは?

どうしても持ち込むというなら、市も県も国もアジアも地球社会も全部持ち込むべきです。



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自律でなく放縦 (Unknown)
2005-04-03 20:10:17
>行儀というのは「他者への配慮」から生まれる。



そうですね。



>自分には抵抗があろうとも「他者が大切にしているもの」には公的な場で一定の配慮を態度で示す。



そうですね。

自分にはあのような歌が歌われることに抵抗があろうとも、歌う人間の妨害をしない。

これは、「自分には抵抗があろうとも「他者が大切にしているもの」には公的な場で一定の配慮を態度で示す」行為そのものだと解釈できるのではないでしょうか。



>それが「おとなとしての、格好イイふるまい」ってもんでしょう。

>それを体現してみせるのが教師の役目じゃないのか。



まさに、歌唱を妨害しないことによって「おとなとしての、格好イイふるまい」を体現しており、あなたのいう「教師の役目」を体現していることになるのではないでしょうか。



にもかかわらずあなたが、「自律でなく放縦を手渡す」と述べられる根拠がわかりません。
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「自律でなく放縦」発言について (十条)
2005-04-03 20:14:09
↑上は誤作動です。すみません。



>行儀というのは「他者への配慮」から生まれる。



そうですね。



>自分には抵抗があろうとも「他者が大切にしているもの」には公的な場で一定の配慮を態度で示す。



そうですね。

自分にはあのような歌が歌われることに抵抗があろうとも、歌う人間の妨害をしない。

これは、「自分には抵抗があろうとも「他者が大切にしているもの」には公的な場で一定の配慮を態度で示す」行為そのものだと解釈できるのではないでしょうか。



>それが「おとなとしての、格好イイふるまい」ってもんでしょう。

>それを体現してみせるのが教師の役目じゃないのか。



まさに、歌唱を妨害しないことによって「おとなとしての、格好イイふるまい」を体現しており、あなたのいう「教師の役目」を体現していることになるのではないでしょうか。まさに自律ではないでしょうか。



にもかかわらずあなたが、「自律でなく放縦を手渡す」と述べられる根拠がわかりません。
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Unknown (Unknown)
2005-04-03 22:35:35
>「子どもは市のため、県のため、国のため、アジアのため、地球社会のために卒業するんだ」、というべきで、そう言わないのは「よくわからない論理」だということになりますね。



なんでそこまで拡げるのか分かりません。日本人の子どもは日本で日本国の日本国民によって日本国民として育てられている、と風野さんもおっしゃっているじゃないですか。区切りも区別も大切です。そういう日本人として当たり前の感覚、風野さんのような感覚を、大事にしていきたいですね。

 私たちは日本人ですもの。せめて子供たちは、他国の国旗を踏みにじるのが平気なお行儀の悪い三流の人間にしたくないですねえ。

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ごめんなさい。上のものですが (かおりん)
2005-04-03 22:40:15
名前書くのを忘れていました。私が一番ダメ人間ですネ!
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そんな記述はありません (十条)
2005-04-04 01:10:22
>日本人の子どもは日本で日本国の日本国民によって日本国民として育てられている、と風野さんもおっしゃっているじゃないですか。



私が読む限り、このエントリーの中に「日本人の子どもは日本で日本国の日本国民によって日本国民として育てられている」という「記述」はありません。他の人にとっても同じでしょう。



かおりんさんには、普通の人に読めない文字が見えるのでしょうか。仮にそうだとしても、人に「おっしゃっているじゃないですか」と同意を求められても、私としては非常に困ります。



ましてや、かおりんさんの「解釈」に過ぎないものを「おっしゃっているじゃないですか」と同意を求められても困惑するばかりです。

解釈の次元としても、上のような解釈が自明であるような文章が風野さんの文の中にあるとは思えません。











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卒業式とは (十条)
2005-04-04 02:00:08
風野さんの記述にはないという前提で、この発言について。



>日本人の子どもは日本で日本国の日本国民によって日本国民として育てられている



論点は「子どもは国のために卒業するんじゃない。一人一人がこの学校を巣立っていくのが卒業式だから、式典には校歌だけで良い」という発言の妥当性ですね。



繰り返しますが卒業式は学校と子どもの関係の節目の式です。ですから上の発言は何ら不自然ではありません。



学校の外には社会があります。しかし、卒業式においてわざわざ社会を意識せよ、という主張にはあまり説得力を感じません。それは正課の授業が扱う事柄です。



どうしても意識させよ、というなら市も県も国もアジアも地球社会も同時に意識させるべきでしょう。愛市心も愛県心も愛国心も愛地球心も同時に卒業式で啓発すべきでしょう。



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考え方の違いですね (風野)
2005-04-04 22:45:28
 十条様が私の考えに同意できないというご意見は分かりました。

 これは根底に「学校」というものの在り方に対する考え方の相違があるためのようです。



>学校の外には社会があります。しかし、卒業式においてわざわざ社会を意識せよ、という主張にはあまり説得力を感じません。それは正課の授業が扱う事柄です。



私は、学校は地域社会の中に存在し、いずれ社会に出るために通過する場所、と考えます。正課の授業は科目別スキルを、式典や文化祭のような行事は身近な社会との接点から「お行儀」や「就業体験」のようなものを、それぞれ学ぶためのもの、と考えていました。

そして卒業式は仲間内のお祝いというより「もうこれで上の学校、あるいは社会に出して恥ずかしくない子に育ちましたよ」という、社会に対するお披露目の場、と思っていました。私自身がそう育てられ、社会に「ようこそ」と受け入れられてきた「誇らしい感覚」があったものですから。成長は自分や家庭の喜びだけでなく、社会の歓迎することでもあった。いずれ出て行く社会を意識しない「学校と子どもだけの世界」からのお別れ・・という感覚の卒業式、というのは知らなかったのです。今時はそういう学校もあるのですか?



そうならなぜ「国旗国歌で起立しない」という「対社会」性の強いパフォーマンスをわざわざ子どもの前で行う教員がいるんでしょう?学校と子どもの蜜月に「国」が割り込んで来るな、という無言のメッセージ?そういうものを教員の態度から受け取ってしまう子どもたちが、出て行く先の「国」にどんな先入観や偏見を抱くか、私は危惧を感じざるを得ません。
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