六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

映画「ナイロビの蜂」

2006年06月01日 | 映画
 テレビで江原さんがおススメとCMしていた映画「ナイロビの蜂」を観ました。

 この作品、ジャンルは「恋愛映画」ということになっているけど、内容は濃くて重く、社会派作品としても深く心に残ります。観て損はありません。おすすめします。

 これを観ると、途上国ではいかに命というものが軽いのかを痛感する。愛や、心や、笑顔や夢は同じなのに・・同じ「人間」なのに、あるいは同じ人物でさえも、「立っている場所がアフリカだ」というだけで、まるで虫けらか何かのように命が軽く扱われてしまう。そういう状況が今この地球上にあるのだという事実を改めて突きつけられ、言葉を失います。
 白人や先進国がアフリカを搾取し続ける構造、その贖罪意識と正義感・人道主義の絶望的なドロ沼。西欧列強の植民地主義が産み落とした果実が、未だに悪臭を放ってそこにある、目をそらすな・・!というメッセージが感じられました。

 地域によって多少の違いはあるにしろ、こういう途上国の犠牲のうえに我々先進国の幸せは成り立っている。それを認識したところで、日常生活で何ができるというわけではないけれど。何もできないなら、知らんふりを決め込む方が、利口で幸せな生き方なのかもしれないけど。

 それから、愛と、人の在りかたについて。
 愛のためには、生きるためには、お互い少しくらい愚かで卑怯であってもよかったのではないか? ・・でもそうなら、その人はその人らしさを失い、きっとこの愛は成立しなかった。ならば悲しいけれどこの結末は必然で、それが宿命ってものなのかな・・とかね。
 江原さんがおすすめしたのは(もちろん商業的な目的もあったのだろうけど)このあたりなのかなーと思いました。

 作品紹介に「圧倒的な映像美」とかありましたが、私は「美しい」とは思わなかった。迫力ある映像に感嘆はしたけれど「美しい」と心がふるえることはなかった。

 私が知っている「美しいアフリカ」は、この映画の中には無かった。

 それがまた、真実なんだろうと思う。私が見慣れた映像の中のアフリカは、いわばサファリ物というか。虚構ではないけれど、それが全てでもない。「人の目」から「人の生きる土地」として見たアフリカは「何もなく、醜悪でさえある未開地」に映るのだろう。

 でも、逆に言いたい。それが全てでもないでしょう、と。
 私が見慣れている「美しいアフリカ」。美しい人々が生きる、過酷だけれど豊潤さも秘めた大地。その視点を自分のものにできた時、白人社会はこういう「アフリカ絡みのコンプレックス」に解決の糸口を見い出せるはず。

 やっぱポイントは民族の誇りと自主自律、そして他者と独自性への尊敬の念、でしょうかね。

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映画「いぬのえいが」

2006年01月30日 | 映画
 レンタルで、ビデオ借りて観ました。

 いやぁ~・・泣けますね。感想は、以上(笑)

 だぁってぇ、この作品を犬嫌いの人が観るとはあんま思えないしぃ、犬好きなら&犬好きを身近に知っている人なら「うんうん、あるある」と思うエピソード(笑いと泣きのツボ)満載だしぃ・・

 犬好きで、まだ観てない方、一度はご覧下さい。おススメです。必ず泣けます

 ちなみに私は「バウリンガル」開発のエピソードが一番好き! 駆け去ってゆくトイプードル君、君は彼に何を伝えたのだぁぁ!?

映画「男たちの大和」

2005年12月26日 | 映画
 映画「男たちの大和」を観ました。

 これから観る予定の方や、長くクドクドしい感想を知りたくない方は、どうぞ読まないで下さいね~。


   
   
   


 さて。

 私は映画を観る時、前評判も含め、なるべく情報を入れたくないタイプです。
 でもこの映画に関しては正直、「事前情報を入れておいて良かったぁ」と思いました。
 情報元は、ダーリンがあらかじめチェックしていたネットやメルマガ類。それらから推して、あまり期待せずに行ったので、まぁまぁ不快にならずに映画館を出てくることはできました。
 しかし、まだエンドロールが出ない前から「私だったらあの場面はこう撮るなぁ、あのエピソードは削ってこっちを膨らまして・・」とアレコレ考えちゃう映画って・・ ある意味、インパクトのある作品・・だったのかな? 全く取るに足らない作品だったら、脱力感と金返せ的腹立ちしか残らないものね。
 「私(←注:どシロウト)に脚本か監督させたら、もちっとはマシな作品に出来る!(←注2:原作読んだことないけど)」って感想を抱かせる、ツッコミどころ満載の《惜しいっ!》映画でした。
 
 まずは誉めておきましょう。
 見所は、やっぱクライマックスの戦闘シーン。体験記などを読んで想像したとおりの光景。実際の大和でも、きっとこうだったんだろうなぁと胸が痛みます。日本映画ではあまりないかな?と思う、欧米の戦争物みたいな迫力ある映像でした。
 よって私にはだいぶキツかったです~。スプラッタ苦手の方は、薄目で観ることおススメ。

 さて、批判ですが。
 事前情報では「相変わらずの自虐史観」みたいな評でしたが。私には、もっと始末におえない、『「戦争=天災」史観』とでも名付けたいような、敵不在・主体性皆無の設定に思えました。

 命をかけているのに・・故郷が焼かれ大切な人が次々に死んでいくのに、どの登場人物からも《敵への憎しみ》と《郷土愛》はリアリティをもって語られない。登場人物たちは、ただただ「近親者」か「自分」の「死」への嫌悪感・忌避感と、「身近な権力者(年長者)の愚かさ」への反感、そして自らの在り方への迷いをリフレインするばかり。
 《戦争とは、死とは、小さな自分がわけもわからず、避けようもなく巻き込まれてしまう悲劇》って捉え方。
 この映画の受け入れにくさは、その一点に集約されると思う。

 当時、大衆レベルまで浸透していた「鬼畜米英」という感覚・・白人の残虐性への恐怖感と植民地支配への危機感。それと「一億火の玉」的な、戦争への主体的コミットメント。それに対する肯定・否定の意思表明を、この映画は避けているみたいだ。自虐史観ならそれを「戦争遂行のための煽り」と扱ってもいいけど(良くないけど )とにかく現実に存在したその背景を充分に盛りこまないのでは、なぜ男たちが、何のために大和で特攻出撃したのか、そもそも分かんないじゃん。

 たしかに、現実にはそういう半端な思いのまま流されて死に向きあうしかなかった男たちも多かったろう。でも、当時のひとりひとりの中には、本当に、自分という個人の生と死しかなかったか? 生と死は「自分と家族・友人・近親者のみのイベント」だったか?そういう捉え方って「当時の社会に生きていた」男たちを、あまりに過小評価してないか?
 こういう描き方では、大和はとても浮かばれまい(実際、沈んでるけど

 終戦時をハッキリ覚えているくらいの年齢で、しかもせいぜい十代の前半くらいだった、いわゆる黒塗り世代。彼らは主体的に社会と関われない年頃に戦時下の暗さを肌で呼吸し、敗戦という価値観の大転換を体験した。その無力感とトラウマ、価値の世代断絶の彷徨が作らせた映画なのかもしれない。

 根底にこういう《戦争観》を抱いていたら、どこぞの国の「特定の戦争指導者だけが悪くて、無垢な皆さん大衆には罪は無かったんですよー、だからA級戦犯合祀の靖国に首相が参拝するのはとんでもないことですよー、自国の指導者たちを疑い、私たちを信じて受け入れなさーい」的な言説にまんまと乗って、友好至上・内政干渉許容主義になってしまうかもなぁ。
 ・・と思ったら、スポンサーは朝日新聞社なんですってね。あらまぁ。

 誤解をおそれずに言えば。こういう《戦争観》は平和絶対主義と死のタブー視につながり、社会からの乖離と主体性の放棄から生きる気力そのものまで萎えさせてしまうのではないかしら。ヒトの本能に組み込まれた、社会性動物ゆえの喜び中枢は刺激されないまま、ぼんやりと漂う個としての孤立のなかで溺死するような絶望感。いま、男の子のひきこもりやニートが多い背景には、こういう黒塗り世代のトラウマが影を落としている気がしてならない。

 だから、ラスト近くの仲代達矢のキメ台詞 「あんたのおかげで、わかった」 が何を指して、何をどう理解したのか、アタマ悪い私には全く分かりませんでした・・
 たぶん、ものすごく個人的な理解なんだろうけど、それに共鳴し感動するには、仲代演じる主人公の主観(特に終戦後の)が描かれなさすぎ。そしてそれは「大和」というタイトルからはだいぶ離れた内容だろうから、この映画、要は「盛り込みすぎ」ってことですかね。

 ダーリンは「鈴木京香がかわいそう」ってしきりに言っていた。ホントそのとおりで、彼女のシーンは無駄が多く、彼女の良さや演技力も全く生かされていないし、この映画のマズさを象徴するような台詞と場面のオンパレード。暗い顔で、他に誰も乗っていない観光バス(ロケバス??)で移動した次のカットで、なぜかタクシーで漁協に乗りつける。緯度と経度で乗船交渉する見慣れない美女がいたら、海の男たちの中にはふつう「まずはワケを聞かせろや」ってやさしく言ってあげる親切な人がいるもんだよねぇ。投薬や心臓マッサージが上手な理由は「私、仕事は看護婦なんです」とかでも良かったと思われ・・等など。

 各シーンも細切れで、感情がうまくつながらない。
 一番涙を誘われたのが、高畑敦子の「ぼたもち」の場面。長男の遺品をそそくさと懐に押し込み、気丈に笑顔をつくろって、次男にぼたもちを食べさせようとする。これでもう母の哀しみは充分だぁ、もうヤメテ~涙ボロボロ~ ・・なのに、次に戸外で抱き合って泣く場面を付け加えるから、涙が引っ込んでしまった。
 甲板での「死二方 用意」の場面も良かったのに、その後に船室内での殴りあいと長島一茂の意味づけ台詞の場面を挿入するって、感情の時系列的にヘンじゃないか?(あの意味づけ内容で全員が納得できるのか?は別としても)
 また、最後の厨房で、あんなにいっぱい《にぎりめし》が並んで、配置についた男たちが食べるシーンもあるのに、すごくさらっと流してて。「ここで泣きたいのになぁ・・」と残念に思っちゃった(笑) だってアータ、私が「千と千尋の神隠し」でも「壬生義士伝」でも、一番泣いた小道具は《白いにぎりめし》ですよ! 日本人の泣きのポイントとして、これはハズせないでしょう!って思うのに。あー勿体無い。

 主要な男優については・・感想はパス。で、だいたい察して下さーい。

 以上です。ここまで読んでくださった方、お付き合いありがとうございました

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映画「蝉しぐれ」

2005年10月12日 | 映画
 「蝉しぐれ」を観ました。
 藤沢周平、泣かせてくれます。
 ・・と言っても、この人の本、読んだことは無いんですが 剣にまつわるある種のファンタジーが、この作家の持ち味なんでしょうね。そゆとこ、嫌いじゃないです。

 映像は、自然や農村の風景がとにかく美しく撮られていて、アングルとかも監督のこだわりが随所に感じられ、なかなか見ごたえがあったと思います。美しい日本の景色が堪能できます。
 でも少し凝りすぎかな?みたいなショットも。雷におびえる娘さんは、雨戸をすぐに閉めると思うぞ!みたいな(笑)映像的にはオイシイけどね。

 最後のエンドロールの文字の色が、なぜか目に沁みました。よく覚えていないけど、黒じゃなくて、濃紺みたいな濃緑灰みたいな不思議な色。洗いざらした墨染めの衣みたいな。すごく日本的な色だなぁ、凝ってるなぁ、と、流れていく文字にしみじみと見惚れておりました。
 ・・しかし、キャストの中に「蛭子能収」の文字を見つけたとき、客席のあちこちで、かすかなどよめき(?)が上がったのには笑ってしまった。
 え・蛭子さん、ドコに出ていたの・・? 何の役で・・?
 いろいろお仕事されてるのはいーけど、蛭子さんほどの有名人が、ドコの何役かも分からない形で出演するのって、あんまり意味ないんじゃ・・何か、事務所的なカンケーでもあるのかな?金銭のモンダイ? などなど、野次馬根性が湧いてくる・・

 作品中の小道具や装置、台詞などの細部に、ダーリン曰く《玄人ウケ》するものが折り込んであって、ニヤリとします。たとえば、緒形拳扮する父が、畑から収穫する茄子。あんな小さいのを採ってしまうなんて、と思いますけど、アレは庄内地方特産の茄子で、あのくらいの大きさで収穫する品種なんだそうです。ちゃんと考えてあるんだぁ。

 それにしても、映画の宣伝で、「一人の人を、20年間想い続ける」ってあたりが強調されていたので、そういう映画かと思ったら、ちょっと違いました。
 いや、違わないんだけども。何というか、作品を貫く一番のテーマは、果たしてそれ・・なのか?ってちょっと首をかしげました。
 これから観られる方もいらっしゃるとアレなんで、ハッキリは語りませんが、前回の藤沢周平モノ「隠し剣 鬼の爪」でも、同じ疑問をもちました。「隠し剣・・」では「身分違いの恋」ってところばかりが強調されてたけど、実際の作品は「剣」というひとつの象徴的なものに投影された男の目線、そこに絡みつく幻とも現ともわからない陶酔感としがらみとが、物語のメインテーマだった。「蝉しぐれ」も同じく、そんな「男の」物語なんだろうと感じた。
 でもそこを強調すると、女性客が呼べないとかゆー興行的な問題が? それとも映画関係者の目には、これはやはり「究極の恋愛映画」みたく感じられる作品であって、私の感じ方のほうが変なのかしら・・

 ともあれ、観て損はない作品だと思いました。

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道は続く・・

2005年09月01日 | 映画
 9月です。秋刀魚の話題もちらほら出てきました。

 8月が過ぎたからと言って「平和」について考えなくなるというわけではありませんが、ちょっと集中が切れてきました。
 この話題は、折に触れて冷静に、身の丈に合ったかたちで考え、これからも少しずつ表現していきたいと思います。

 そう思った背景に、ここ数日に観た、ふたつの映画があります。

 ひとつは、チェコ映画祭でたまたま観た「セカルを消せ」 もうひとつは、楽しみにしていた「容疑者 室井慎次」でした。

 「セカルを消せ」は、レンブラントを思わせる美しい画面に、濃厚な宗教色をたっぷり含ませつつも、世界のどこにも共通する《人間の醜悪さと切なさ》を描いており、チェコ映画の質の高さを感じました。
 でも(それだからこそ)観ていて辛かった~。
 人々がその存在を抹殺したがるセカルという人物。彼がいったいどうしてそこに居るのか。どうしてそうなってしまったのか。暗い時代背景、閉鎖的な村の狭い価値観、そこで生きることを定められた絶望感と無力感。保身、裏切り、偏見、他者不信、身贔屓、事大主義、そして宗教の衣を借りた自己正当化。
 これが「人間というもの」の姿なのか。
 ・・ならば、美しい田園風景の中、野ざらしの十字架の前にただひざまずき、懺悔の頭をたれるしかないじゃないか・・そんな気分にさせられる映画でした。

 そして「室井慎次」。
 これもまた、現実だな~と思わされました。特に灰島弁護士。いるんだよねー、現実にこういう人が。そういうタイプの人を敵に回した時の、何とも言えない絶望感と戦慄を、思い出しちった。

 そういった《見たくない現実》から目を逸らすことは、ある意味、思考停止ではないのか。
 つい、そう自問してしまって、げんなりする。

 こういう現実をまざまざと見せられてなお、人間を信じる勇気を、自分はもてるかどうか?を問われている気がするわけですよ。

 ・・まぁ、私がそゆことで一人ドンヨリ してようがいまいが、日常は動いていくわけで。
 であれば、よどんでるだけ損とゆー気もしますが。

 「容疑者 室井慎次」は、「地味だ」とか「つまんない」とか酷評されてるみたいですが、私は「交渉人 真下正義」より断然評価するなぁ。

 正しさは、時に人を追い詰める。力をもつ分、その意図がないのに、人を傷つけてしまう。
 小此木啓吾もかつて、そんな事を言っていたっけ・・何に書いてあったかは忘れたけど。その一言だけがすごく印象に残っている。

 「室井さんのような人は、必要だと思うか?」
 この問いかけって、けっこう重いなぁ。

スターウォーズ考

2005年07月07日 | 映画
 明日かな?エピソードⅡが地上波放映されます。
 最終話を待つまでもなく、Ⅱでアナキンの《暗黒面への転落》が始まったことが見て取れます。

 以下、過去の日記から抜粋。

 『2002年7月19日 : エピソードⅡを観た。泣けた。涙が出ないくらいに泣けた。この感じは「Uボート」のラストの衝撃と同じ。たっぷり48時間は落ち込んだ。

 ヘンな話だけれど、これ観てあたし、結婚しようと決心した。相手をみつけて結婚して(注:この時ダーリンとはまだ出会ってませんでした)子供を生んで、その子を思いっきり抱きしめて、いつか《外の世界へ》放してあげる。それでしかこの切なさは癒せないことが、とてもクリアに理解できた。この感覚(feeling)が私のリアル、私のForceの導き。それは真実にちがいない。

 私にアナキンは救えない。でもルークを産む可能性は許されている。女だから。そのことを無駄にするのはもったいないと、心から思ってしまった。ささやかだけど、そんなふうに戦うしかないんだ、暗黒面とは。一人ひとりが、世界中で。
 その痛みの中に、希望がある。

  ・・(中略)・・

 サンドピープルの村から戻ったアナキンが自分の所業を吐き出すように告白する時、私達は知る、彼が《負ける戦い》を始めたことを。
 彼は言う。「愛する人を、もう誰も死なせない」と。「そのくらい強いジェダイになる」と。
 せつない。たまらない。
 それは負けると決まっている戦いだ。生きとし生けるものはみな、死ぬのだから。

 アナキンは永遠に勝てない。生と死は戦いではなく、対立ですらない。アミダラの告白の言葉にもそれが語られている。なのにアナキンは戦いを挑むと誓うのだ、そして、勝つと。
 「そうじゃない、そうじゃないんだよ」と彼を思い切りHugしてあげたい。
 でも手は届かない。誰も、転がり落ちていく心を止められない。まるで切れているかのように、誰の手も短すぎて届かない。
 アナキン自身がこちらへ腕を伸ばしてくれなければ、それは届かない距離だ。永遠につめられない距離。でも表情ははっきりと見える距離。ささやき声さえ届く距離。人の心の、距離。

 私達が社会生活を営むうえで毎日つきつけられるこの《分かり合えなさ》と《分かり易さ》のはざまの絶望感を、こんなにあざやかに切り取ってみせるルーカスは、やっぱ凄い。アナキンの、アミダラの、オビ・ワンの、ヨーダの、絶望は私達のそれだ。日々のリアルな、それだ。

 そして、その絶望が、その痛みが、SWを通して世界を結ぶ。同じ人間として、同じ痛みを知る者として、私達は今この世に在る。

 9・11
 あの映像が世界中を駆け巡った直後、何の縁もゆかりもない私でさえ、ニューヨークに行きたかった。崩れ落ちるビルの前に呆然と立ち尽くす人を、誰でもいい、抱きしめたいと思った。きっとすぐ「報復を!!」の叫びがあがるにちがいない、その前に飛んで行って、手当たりしだいHugしてあげたかった。一緒に喪失を泣きたかった。「そうじゃない、そうじゃないんだ」と力の限りHugして、暗黒面を遠ざけたかった。
 でも、世界はあまりにも遠く、平和と秩序はついえ、暴力と悲しみの連鎖が拡大している、今。

 この痛みから、目をそらしてはいけない。
 痛い、という感覚(feeling)が、私達をつないでいる。Force(想い)をふるわせる great pain(大いなる痛み)が、そのつながりこそが、新しい希望(A NEW HOPE=エピソードⅣ)を生むのだから。米国人もまた、この痛みを共有しているのだと信じたい、それこそが平和と秩序の守護者ジェダイの帰還を約束する流れになるのだから。』

May the Force be with you・・always←1クリック☆お願いします。

そわそわそわ

2005年07月01日 | 映画
 10日くらい前からなんとなく気持ちがうわついて、町内会の持ち回りの仕事みたいなごく些末なことを、ウッカリ忘れる事が多くなっている(お隣さん方、済みませ~ん)。

 だって、もうすぐなんだもの。『スターウォーズ エピソード3』の公開。

 先週は先々行上映があり、明日は先行上映の日。
 ですが、幸か不幸か用事がすでに入っているので、行きません。正式な公開初日の7月9日を待って、観に参ります。

 現代の神話の完結。
 ・・それと同じく、私の中で、何かが完結するような気持ち。
 嬉しいような淋しいような、見てしまうのが恐いような。

 今現在のそういう気分を、早く観たいからと言って明日の先行上映、用事のついでに混みあう中をバタバタッと観に行って終わらせてしまうのが、すごーくもったいない気分なのです。

 それだけ SW世界を愛してるの。

 あと1週間、この《うわのそら》を浮遊していようと思います。

          


 全米で「スターウォーズ」エピソード3が公開された5月。
 初日が平日だったため、公開を心待ちにしていた多くのファンが仕事を休み、その経済損失を計算したら、全米で658億円に相当したとか。

 当然ですよ。

 なにせ「最終章」だもの。

 朝の民放ニュースを見ていたら、混雑の整理に出動したロス市警の騎馬警官も皆ライトセイバーを持ってるし、インタビューを受けているイギリスから来た若者はダコバ星での修行スタイルでヨーダを背負ってるし、ストームトルーパーなんかゾロゾロ、んも~~~、たまらん!! こういう時だけは「アメリカ人に生まれたかった~」と思うよぉー!!!!!

 誰か忘れたけど、かつて有名人が語っていた。
 「ひどく辛い事があっても、とりあえず次のスターウォーズのエピソードを観るまでは元気で生きていようって思うんです・・」

 けだし名言。

「交渉人 真下正義」

2005年06月29日 | 映画
 そーいえば今頃ですが、映画「交渉人 真下正義」を観ました~♪

 何か「イマイチ」みたいな評判だったので、あまり期待しないで観ましたが、けっこう面白かった。

 あの解決の仕方とゆーか犯人像はどーなのか・・という気がしないでもないけど、わたし的には、映画において最も重要だと思っている《作品全体から醸し出される方向性》や無言のメッセージみたいなのが、この作品ではきわめて明確で、作り手たちが《迷って》おらず、しかも共感できるものだったので、素直に楽しむことができ、満足しました。

 お気に入りキャラは、木島さん~。こういうタイプの人、身近にもし実在してたら、私、絶対絶対毛嫌いして近寄らないと思う・・でも意外と、ヨワイんです・・(泉谷しげるとかもそうなんだけど)。遠くから見てる分には、かわいくって、タマランー

 片岡指令長の國村はもちろんですが、広報・矢野役のアリキリの石井も、力量ありますね~、見ていて楽しかった。

 それにしても、どうしてこの時期に公開したんだろ。シーズンものなのだから、クリスマス近くにやったらもっと気分が出て、お客の入りも良くなったかもしれないのに。次に「容疑者 室井慎次」が控えているからかな。ちょっともったいない気がしました。
 ・・あと、電車モノってことで福知山線の事故が頭の片隅に浮かんだり、テーマソングを聴きながら先日のマイケル裁判がらみのことを考えてしまったり、映画の世界に没入しきれない気分になる瞬間があって、そこも少し残念な気がしました。