風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

貴女と蒼穹を翔びたかった 第4話

2013年03月24日 20時46分40秒 | 文学小説『貴女と蒼穹を翔びたかった』

 交戦


 一時間もたたないうちに厚い雲におおわれたダッチーハーバーの上空付近へ到達しました。下が見えないのにどうしてわかるのと貴女は訊くかもしれませんが、日頃からなんの目印もない大海原ばかり飛んでいますから、計器飛行はお手のものです。間違えることはそんなにありません。ただ、やはり多少の誤差は出てしまうので、目視で地上を確認する必要があります。
 どこかに雲の切れ目はないかと目を皿のようにして周囲を見渡しました。当時は電探《レーダー》などという便利な機械はありませんから、自分の目だけが頼りです。
 編隊を組んだままあたりを探し回っているうちに、突然、雲のなかからエンジンカバーに鮫の歯模様を描いたカーチスP40が飛び出してきました。手ぐすねを引いて、我々を待ち構えていたようです。私たちは即座に散開し、回避行動へ移りました。
 カーチスP40は、第二次世界大戦の間に一万三千機以上も生産されたアメリカ陸軍の汎用陸上戦闘機です。
 機体が頑丈で使い勝手のよさに定評がありますが、それ以外にこれといった長所はなく、特徴がないのが特徴と呼びたくなるような凡庸な航空機でした。ボディラインも翼の形もあまり洗練されておらず、全体的にやぼったい印象です。
 ゼロ戦なら赤子の手をひねるようにやっつけてしまうところですが、時代遅れの九五式水偵ではそうもいきません。いくら平凡な戦闘機とはいえ、速度、武装といった運動性以外の性能はすべてこちらを上回っています。格闘戦に持ちこみさえすれば勝負の目はありますが、あいにく爆装していますから、もともと遅いスピードがさらに落ち、九五式水偵の取り柄であるサーカスのような身軽さも発揮しにくい状態です。とにかく、逃げるしかありません。私は、隠れやすそうな雲を探しました。
 カーチスP40の一二・七ミリ機銃の銃弾がアイスキャンディのように光りながら愛機をかすめて前方へ流れます。後部座席では掌飛行長が七・七ミリ旋回機銃を放って反撃します。とうとう追いつかれてしまいました。私は右へ左へと機体を旋回させて相手の追撃を振り切ろうと試みましたが、いったんかわしたかなと思っても、相手は持ち前の速力を活かしてすぐに食らいついてきます。これではきりがありません。
「今だ!」
 伝声管から川島掌飛行長の怒鳴り声が響きます。
 私は、操縦桿を目一杯引きました。
 ――反応が遅い。
 焦った瞬間、いつもより一拍遅れて、身重の機体が急上昇します。機首がほぼ垂直に上を向き、そのままくるりと宙返りしました。巴《ともえ》戦法です。
 勢いあまったカーチスP40は我々を追い越し、前へ出ました。敵は目の前にいます。撃墜するには格好の位置です。照準器の真ん中に相手の姿をとらえました。
「いただきっ」
 私は七・七ミリ固定機銃の引き金を引きました。ダダダッと機銃が火を噴き、銃弾がカーチスP40を目がけてほとばしります。と同時に、相手は右へ急旋回をして、照準器の枠から出てしまいました。あと少しだったのですが、惜しくも弾は当たりませんでした。
 こちらも回れ右して相手を追いかけようとしましたが、フル加速した敵機は小さな点になって遠くへ去ってしまいます。私は思わず計器パネルを叩きました。息を継ぐ暇もなく、
「右後方敵一機、逃げろ」
 と、掌飛行長の声が響きます。
 私はとっさに操縦桿を左へ横倒しにして、左のペダルを思いっきり踏みこみました。左急旋回です。掌飛行長はやはり旋回機銃を放ちます。
「命中」
 川島さんの声が聞こえたので、一瞬だけ振り返って相手の姿を確認しました。カーチスP40は左翼から白い糸を引くようにして細長い煙を吐き出しています。ただ、なにしろこちらの武器は口径の小さい七・七ミリ機銃ですから、翼に小さな穴を開けただけで致命傷を負わせることはできなかったようです。ともあれ、これで二機追い払いました。
 不意に、太陽が妙な具合に光ります。
「いけない」
 私はすぐに 機体をダイブさせ、きり揉み飛行に入りました。案の定、太陽を背にして隠れていた敵機が私たちを目がけて急降下してきます。敵ながら、教科書どおりの見事な攻撃です。
 機体を回転させながら螺旋《らせん》状に降下しているので、下に広がる雲の絨毯《じゅうたん》がくるくる回ります。敵機は同じようにきり揉みしながら、我々を追いかけているのでしょう。獣臭い匂いのする背後の気配が消えてくれません。頰のすぐそばをアイスキャンディが流れます。じゅっと頰が焼けるようです。加速のついた敵機は我々を追い越して、そのまま雲海へ飛びこみしました。一瞬、雲に穴が開き、水面に波紋が広がるようにさざめきます。
 私は操縦桿を引いて雲海のすぐ上で水平飛行へ移りました。海を走るように、雲の上を飛びます。ほっと息をつきました。間一髪でしたが、なんとか相手の攻撃をしのぎました。
 肩がじんと痺れます。操縦桿がやけにぬめるなと思ったら、血まみれになっていました。左肩が真紅に染まり、その血が腕を伝って流れていたのです。
「掌飛行長殿、肩をやられました」
 私は伝声管へ叫びました。
「操縦はできるか」
「大丈夫です。今のところ問題ありません」
「止血はしたのか」
「まだです」
「ばか、早くしろ」
 川島さんの声ではっとした私は首に巻いていた白いマフラーをほどき、足のペダルの操作だけで機体を水平に保ちながら、左肩を縛りました。痛くはありません。火がついたように熱いだけです。
 怪我を負ったのに、すぐに手当てをしないとは不思議に思われるでしょうが、こんなものなのです。高い空を飛んでいますから、空気が薄くて体に酸素が行き渡ってくれません。飛行機頭といって、飛行中は平地の七割くらいしか頭が働いてくれないものなのです。そんな状態で空中戦ともなれば、神経が興奮してしまって、なにがなんだかわけのわからなくなってしまうこともしばしばです。
「止血、終わりました」
「機体を確認せよ」
 私は愛機を見渡し、被害を受けていないか確かめました。翼の支柱に弾丸のこすった痕がありますが、それ以外に異常はありません。翼も破れていませんし、エンジンもきちんと回ってくれています。
「異常ありません」
「よし。早いところ爆弾を落として帰ろうぜ」
「僚機はどうしましょうか」
 私は掌飛行長に訊きました。編隊を組んで爆撃したほうが、当然、大きな戦果をあげられます。ですが、残念なことに周囲を見回しても九五式水偵の姿は見えませんでした。
「しょうがないな。ばらばらになっちまったようだ。単独でやろう。安田、高度三〇〇《こうどさんふたまる》へ下りろ」
「危険です」
「ここにいるほうがもっと危ないぜ。鮫口野郎のカーチスさんがうようよしてるんだからよ。鱶《ふか》の海を泳ぐようなもんだ」
「了解。高度三〇〇まで下降します」
 私は操縦桿を倒しました。乱れた気流に飲みこまれないよう気をつけながら、雲のなかをゆっくり降下します。
 きっかり高度三百メートルで雲の底を抜けました。
 眼下にはタールを流したような黒い海が広がり、水平線のあたりにぼんやりとかすんだ陸地が見えました。いつの間に合流したのでしょうか。『摩耶』水上機隊の僚機が私たちの後ろをついてきていました。カーチスP40に執拗に追い回されましたから、『摩耶』の水上機隊がいっしょになれただけでも幸いというべきです。『高雄』隊の無事を祈るばかりでした。敵機の餌食になっていなければよいのですが。
 陸地まで行き、海岸線沿いを飛びました。掌飛行長は海図と眼下の地形を照合します。どうやら西へ二十キロほどずれてしまったようでした。
 さらに地表すれすれまで降りて、岩ばかりの海岸を飛びます。
 趣のある繊細な日本の海岸や彩り豊かな熱帯の海岸を見慣れた私の目には、もの悲しささえ感じる風景です。短い夏を謳歌する最果ての森こそ深い緑につつまれていましたが、荒涼とした渚には、人の姿も見当たらなければ漁船の影もありません。掘っ立て小屋すら見かけませんでした。
 二匹の子供熊を連れた母親熊を岩浜に見つけました。彼らの後を大きな熊が追いかけています。大きな熊はなにかに焦り、いきり立っているようです。母親熊は後ろを振り返っては、子供熊をせかしすような仕草をします。後から追いかける熊は、きっと雄熊なのでしょう。
 こんな話を聞いたことがあります。
 母親熊は子育てをしている間、母性本能が強く働いて雄熊に交尾させないのだとか。子育てが最優先というわけです。そうとはいえ、発情期の雄熊は相手の事情などかまっていられません。盛りがついていますから、とにかく交尾をして自分の子孫を残したがります。その方法はただ一つ。母親熊が連れている子供熊を殺して食べてしまうのです。残酷ですが、事実です。自分の子供がいなくなってしまえば、母親熊はまた雌熊へ戻り、雄熊を受け容れて子供を作ろうとします。それを狙って雄熊は親子熊を必死になって追いかけます。自分の子供を殺した相手と子作りに励むとは、人間から見れば不可解なことですが、それが野生熊の本能なのだそうです。海岸線を小走りに駆ける熊たちは、どうやらそんな差し迫った状況のようでした。
 いくら子孫を残すためとはいえ愚かなことをするものだと、人間は熊を嘲笑《あざわら》うかもしれません。ですが、ひるがってみれば、私たち人間も愚かな本能にあやつられているのでしょう。たとえば、戦争がそうです。人と人が殺し合う道理など、なにもありません。いちばん苦しむのは最前線の兵士ですし、いちばん悲しむのは銃後の人たちです。
 今になって思うのは、戦争というものは、武器を売って大儲けしたいだとか、大戦果を上げて出世したいだとか、権力を握りたいだとか、そんな不純な動機を抱く政府や軍部の高官や財閥の指導者といった特権階級の人々が始めるものではないのかということです。それは日本もアメリカも、他の国々も変わらないのではないでしょうか。私も軍人のはしくれでしたから、自分にも罪があります。私は飛行機乗りになりたくて、志願して海軍へ入隊しました。言い訳はできません。それを承知のうえであえて言いたいのですが、戦争のせいでとんでもない苦労を背負いこまされるのは、ごく真面目に働いて、ごく真面目に暮らす市井の人々だと思わずにはいられません。その意味では、水上偵察機の操縦士にすぎない私も一介の庶民です。私は、迂闊にもなにかに踊らされていたのです。ほんとうの正義の意味も知らずに、別のものと取り違えていたのです。
 見えない壁があります。
 愚かさの壁です。
 自覚していない本能にあやつられる人間の限界です。
 それを乗り越えることができたら、どんなにいいでしょうか。まだまだ未熟な私は、これからも学ばなければならないことがいろいろあるようです。私は闘うべき相手を間違えていました。大切な貴女を失ってから気づくだなんて、私はつくづく愚かだと慙愧《ざんき》に耐えません。
 自分の子孫を残したいという欲望に駆られ、罪のない親子熊を追いかけていた雄熊を思い出して、いまさらながらこんなことをふと思いました。
 細長く突き出た岬を越えました。
 河口近くにささやかな街が広がり、港に並んだ倉庫が見えます。第一次攻撃隊が爆撃した重油タンクが無残な姿をさらしていて、その向こうに滑走路のようなものが横たわっていました。
「飛行場らしきものを発見」
 私は叫びました。風がうなっています。岩場に砕ける波がひときわ高く吼《ほ》えます。
「間違いない。あれだ。――目標を確認。安田、雲へ入れ。目標付近で雲からおりるんだ」
 掌飛行長は、闘志満々に答えます。
「了解」
 私は軽くバンクして、僚機へついてくるようにと合図を送りました。町へ近づきすぎると敵に発見されるおそれがあるので、いったん逆戻りしてから高度を上げて雲へ入りました。
 心臓が波打ちます。久しぶりの爆撃ですから、頭のなかで手順をもう一度確認します。正確に目標まで飛び、爆撃態勢を維持しなくてはなりません。爆弾投下レバーの操作は後部座席に坐っている掌飛行長の役割です。二人の息を合わせる必要があります。
 頃合いを見計らって雲の下へ出ました。
 どんぴしゃり。
 ちょうど真下に目標が広がっています。短い滑走路が一本あるだけの小規模な飛行場でした。滑走路も格納庫もそのほかの施設もきれいなままで、空母艦載機隊が攻撃した形跡は見受けられません。水上機隊よりも足の速い彼らはとっくに到着していなければおかしいのですが、まだどこかで迷っているのでしょうか。
 アメリカ軍の飛行場は、まどろむようにひっそり閑《かん》と静まっていました。
 ふだんなら機体が並んでいるはずの滑走路の脇は空っぽで、敵機の姿は見えません。戦闘機はすべて迎撃に上がり、他の航空機は、おそらく、日本軍の攻撃を見越して上空へ退避してしまったのでしょう。燃料に余裕があれば、爆撃をあきらめたと見せかけていったん退き、相手の飛行機が戻ってくるまで待って攻撃を仕掛けたいところですが、残念ながらそんなゆとりはありませんでした。
「格納庫」
 掌飛行長の冷静な声が響きます。
 第一目標は滑走路脇に置かれた敵の飛行機。それがなければ格納庫もしくは航空燃料タンクとあらかじめ攻撃の優先順位を決めていました。
 格納庫へ向かって緩降下します。ここまでくれば慌てることはありません。じっくり腰を据えて命中させるだけです。
 目標が近づきます。はがれかけた屋根のトタンが一枚、風にあおられて、こちらへ向かって手を振るように揺れています。
「テッ」
 川島さんの声と同時に、二発の爆弾が翼から落下します。機体がふわっと持ち上がり、今まで重たかった操縦桿が軽くなります。三番爆弾は、格納庫に吸いこまれるようにして落下しました。命中です。爆音とともに屋根が吹っ飛びます。続いて、二番機も爆撃に成功しました。
 この頃になって、ようやく敵基地が対空砲火を打ち上げてきました。銃弾が宙に飛び交いますが、身軽になってしまえばもうこっちのもの。アクロバットをするように機体を躍《おど》らせ、あっという間に雲のなかへ遁《のが》れました。

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