風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

貴女と蒼穹を翔びたかった 第1話

2013年03月20日 06時57分11秒 | 文学小説『貴女と蒼穹を翔びたかった』

 北緯五十五度の海


 昭和十七年六月四日払暁《ふつぎょう》のことです。
 日華事変や南方作戦に従事した歴戦の小型空母『龍驤《りゅうじょう》』、建造中の欧州航路用客船を改造してついひと月前に竣工したばかりの特設中型空母『隼鷹《じゅんよう》』、高雄型重巡洋艦『高雄《たかお》』『摩耶《まや》』、それに駆逐艦三隻を加えた合計七隻の小部隊が、アラスカからカムチャッカ半島へ延びるアリューシャン列島のダッチハーバーへひそかに近づいていました。
 その日は、ミッドウェー海戦の一日前でした。
 私たちの小部隊の役割は、日本の主力空母部隊が太平洋の真ん中に位置するミッドウェー島を攻略するにあたり、彼らに先立って北の最果ての島を攻撃。囮《おとり》となって米海軍の艦隊をおびき寄せるというものでした。
 私は、いつものように重巡洋艦『摩耶』の甲板で愛機の調整に勤《いそ》しんでいました。貴女《あなた》に何度か話したことのある九五式水上偵察機です。真珠湾攻撃の直前に『摩耶』水上機隊へ着任した私は、日米開戦以来、パイロットとして『摩耶』とともに各地を転戦していました。
 北緯五十五度の海は、もう六月初めだというのに真冬の日本海のようにしばれる寒さでした。もしこんな海へ転げ墜ちでもしたら、十分と持たずに凍死してしまうでしょう。海は荒れ、艦は右へ左へとローリングを繰り返します。整備用の工具を手にした私の体も、それにあわせてか傾《かし》ぎます。喪服のように黒々とした波間には死神が潜んでいるようで、何度か死線を乗り越えてきた私でも、思わず身震いしてしまうような不気味さが漂っていました。
 あたりは一面、霧でした。
 夏至に近い白夜の頃ですから、日の出前にはとっくに明るくなっていなければおかしいのですが、『摩耶』後部の水上機甲板から見上げる煙突や艦橋の後ろ姿はぼんやりと白くかすみ、約千メートルほどの間隔をおいて隣を走る空母『龍驤』はわずかにその灰色の輪郭がわかる程度です。細長い船体に重箱を載せたような頭でっかちの形をした『龍驤』は、自分の位置を教えるために探照灯《サーチライト》を照射しています。それが暈のかかった月のようにおぼろに見え、『摩耶』の甲板では、警笛の替わりに鳴らす鐘が誰かを弔うようにひっそり響いていました。すべてが、頼りなげに物憂げにつつまれています。どこか別の世界にでも紛れこんでしまったみたいで、夢幻《ゆめまぼろし》のなかにいるようでした。
 空母『龍驤』『隼鷹』の飛行甲板にはダッチハーバー攻撃隊が待機しているはずですが、一向に飛び立つ気配がありません。霧が深いために発進できないでいるのです。零下七度の寒気に艦載機をさらしていれば、部品が凍りついて不具合が発生し、動けなくなってしまうものがでるかもしれません。私は、作戦開始予定時刻をとうに過ぎているのに、このぶんではいつ発進できるのだろうかとやきもきしてしまい、時々手を休めては霧に煙る『龍驤』の艦影へ目を走らせました。
 陽が高くなったおかげか、霧が薄らいだからかはわかりませんが、ようやく僚艦の姿がはっきり見えるようになりました。ほっとしたのも束の間、別の不安が脳裡をよぎります。空には雲底高度一五〇メートルから三〇〇メートルほどのぶ厚い雲が垂れこめていて、頭のてっぺんを抑えつけられるような圧迫感がありました。今にもみぞれ混じりの雨か雪が降り出しそうで、果たしてこんな空模様で航空作戦を実施できるものかどうか、危ぶまれるところです。
 ダッチハーバーは、文字通りオランダ人が開いた港でした。彼らの入植以来、捕鯨船の基地やラッコなどの毛皮の貿易地として栄えています。アリューシャン列島の重要な拠点ですから、港を爆撃して港湾機能を麻痺させること、そして、アメリカ陸軍の基地も設置されているらしいという噂でしたので、その基地を発見して襲撃することも大事な任務でした。ただし、大正年間に作成された古い地図と当時の写真しかありませんでしたので、ダッチハーバーのはっきりした様子はわかりません。現状がどのようなものなのか、誰も知る術もありませんでした。
 ふと爆音が響き、『龍驤』と『隼鷹』の飛行甲板から小さな黒い点が次々と空へ飛び出します。空母艦載機だけで編成した二十七機の攻撃隊が悪天候をついていよいよ出発したのです。私は帽子を取り、低い雲へ突っこんで行く攻撃隊へ向かって精一杯振りました。攻撃を成功させて欲しい。無事に帰還して欲しい。ただそれだけを祈りました。
 今から振り返れば無謀としか思えないあの戦争がどうして始まったのか、一介の飛行機乗りにすぎない私にはよくわかりません。
 アメリカが世界の超大国として我が物顔に振る舞って世界中の国々を痛めつけるので、我々がアメリカに対抗して立ち上がらざるを得なかったのだという人もいれば、日本の軍部が己の力量も省《かえり》みずに暴走したのだという人もいます。どちらの理由も正しいようで、それだけではないような気もします。いずれにせよ、私にははっきりとわかりません。もどかしいことですが、国家の大事は私の理解の範囲を超えています。頭のいい人たちは自信満々な面持ちでいろんな意見を主張しますが、誰がどんな見解を述べようと、歴史の評価というものはしょせん人間のすることですから、あてにならないものなのかもしれません。
 私に言えることは、へぼなパイロットだったかもしれませんが、私なりに精一杯任務に励んだということだけです。私は軍人でしたから、飛べと言われれば飛びますし、待機していろと言われたら、いつまでも待機します。ひたすら命令に従う――それが軍人の仕事です。そして、与えられた任務に最善を尽くすのが軍人です。
 とはいうものの、貴女《あなた》を守りたいという気持ちはいつも心の底に流れていました。
 アメリカとの戦争が始まったために、婚約まで交わしていた貴女と別れることになってしまいましたが、どうしても忘れることができなくて、ずっと貴女のことを想っていました。この戦争に勝てば貴女は無事でいられる。いつも、そう思いながら任務についていました。お国のためにではなく、貴女のために戦うというのは、自分勝手な非国民だと批難されるかもしれませんが、なんにも知らない人にどう言われようとかまいません。これが私の心の真実です。あなたを慕う気持ちは誰にも譲れません。私にとっては、宝箱にしまった子供の頃の宝物のようにかえがえのない想いなのです。
 厳しい任務の最中に、あるいは戦いが終わってふと我へ返った時、心が折れそうになったことが何度もありましたが、そんな時は、すぐにまぶたを閉じて貴女の姿を思い浮かべたものです。
 上質の碁石のようにつややかに光る黒い瞳。くりっとした愛らしい目が大好きでした。心配性の貴女は、いつも困ったように目を伏せたり、眉をひっそりさせたりしていましたね。そんな貴女を見るにつけ、ずっとそばにいて守ってあげたいと思ったものでした。可憐《かれん》な貴女が、私のすべてでした。谷間にひっそりと咲く白百合のような貴女の姿だけが、私の心の支えでした。
 すみません。
 自分の気持ちをはしたなくしゃべってしまいました。
 身勝手な言い分ですよね。誰よりも大切に思っていた貴女につらい思いをさせてしまったことは、今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです。後悔してもしきれません。
 私は、九五式水偵の整備作業に戻りました。
 こんな寒い海域での作戦は初めてなので、エンジンがきちんと回ってくれるか気がかりです。
 航空母艦の艦載機は格納庫に収容すれば寒風を遮ることができますが、巡洋艦に搭載する水上偵察機はそうはいきません。格納庫なんてありませんから、九五式水偵は『摩耶』の甲板上で雨ざらしのまま凍てついてしまっています。もちろん、整備は毎日行ないますが、氷点下の寒さにはどうしてもかないません。一晩経てば調子が狂ってしまいます。潤滑油が凍結していないかどうか、エンジンの各機構がきちんと作動するかどうか、何度もアイドリングをしてみては点検を繰り返し、整備士といっしょに念入りに調整しました。最初はプスンプスンとなにかがつまったような嫌な音を立てていたエンジンも、整備を繰り返すうちになんとか正常に動いてくれるようになりました。
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貴女と蒼穹を翔びたかった はじめに

2013年03月20日 06時55分05秒 | 文学小説『貴女と蒼穹を翔びたかった』

 本作は『小説家になろう』サイトで投稿した小説です。
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