わが購読紙に連載の『ふる里の風景』、前回は「貸本店」だった。(原文通り)
僕らの町に書店はなかったが、貸本店は2軒あった。1軒は「ぼくら」「少年クラブ」「少年」などど、女子向けの「少女」「なかよし」など、月間漫画雑誌中心の店だった。
新刊発売日には、誰かに先を越されないよう店まで疾走したものだ。確か1泊2日で10円の借り料だったと思う。
もう1軒は、貸本漫画と呼ばれた貸本専用単行本が主体の古びた店だった。水木しげる「墓場鬼太郎」や白土三平「忍者武芸館」などが並んでいたが、借り手はさほど多くない様子だった。漫画の好みはすでに月刊誌のほうに移っていたのかもしれない。
さらに、高度経済成長期の昭和30年代後半ごろには、月刊誌も僕らの小遣いで買えるようになる。そうして町の貸本店は、僕らの前から姿を消したのだった。
この『ふる里の風景』の作者は1950年生まれ、私より9歳若いから多少の時代の差はあろう。私の記憶にあるのは貸本店でなく「貸本屋」である。それだけで古臭いイメージになってしまうが、昔と変わらぬ風景に懐かしさを覚えた。
私は小さいころから本が好きだった。が、戦後まもない貧しい時代に、新しい本を買って読むなんてありえないことで、年に一度、クリスマスの朝、枕もとに本があるのを見て大喜びしたのを今でもよく覚えている。
本が読みたければ「貸本屋」で借りて読むしかない。が、当時、子ども向けの本は種類が少なく、ほとんどがマンガだったように思う。私は歴史ものが好きで、日本の歴史はマンガで勉強したようなものである。当時、借り料は5円だったと記憶しているが、それでもめったに読むことは叶わなかったなあ。
中学高学年になると「平凡」や「明星」などの芸能誌を、これは10円だったかな? また高校生になると洋画に夢中になって、「スクリーン」とか「映画の友」などの洋画専門の月刊誌を、入荷する日を待ちかねて貸本屋に走ったものである。
高校生になるといっぱしの文学少女気取りで、学校の図書館で洋の東西を問わずさまざまな文学作品を借りて、片っ端から読み漁ったものである。また、一方貸本屋では瀬戸内寂聴、林芙美子、山崎豊子などの女性作家の小説や、三島由紀夫、五木寛之、川端康成などなど、多種多様な小説を借りて読んだ。
30歳代になってやっと余裕ができて、初めて自分で大枚をはたいて買ったのが「世界文学全集」と山岡宗八著「徳川家康愛蔵18巻」である。これらを並べた本箱は今でも姉の家に置いたままである。
思い返してみると、子どものころ、お金のかからない娯楽はというと、ラジオを聴くか、本を読むことくらいだった。わが家は貧乏だったが亡母が本好きだったから、本を借りて読むことに文句は言わなかった。宮仕えもせず、自分の好きな仕事をして生きてこれたのも、子どものころから活字に慣れ親しんでいたおかげだろう。貸本屋さま、さまである。
最近は「コミックレンタル」というのがあって、パソコンやスマートフォン、携帯から、借りたい本を探して申し込むだけで、自宅まで届けてくれ、返却も電話1本で自宅まで引き取りに来てくれるという手軽さが人気だという。
昨今は集中力が衰えて高尚な本は敬遠しがち、もっぱらミステリー一辺倒だ。ミステリーは一度読んで犯人が分かったらもうおもしろくない。読んだ本は置き場所に困るので、何冊か溜まったら姉のところへ送っている。
そのミステリーも、最近は睡眠導入剤の代わりになりつつある。昨晩読んだページにしおりを挟んでいるが、内容を忘れてしまって、また前に戻って読み返したり…。というわけでなかなか前に進まない。こういう時は、より“老い”を痛感する。
貸本屋さん迄急いでい25分
小学館の月刊誌を届けてくれる雑貨店!
までやっぱり20分以上
自転車など考えたことも無い山道坂道よくまあ徒歩で走り回ったことか!
それでも読みたい本のためなら全然苦にならなかった往復の距離
高橋健二や米山正夫訳の世界文学に目覚めるまで貸本屋さんの時代小説が我が愛読書
小学三年生で野村胡堂や山手樹一郎に嵌まっていた少々嫌味なおませさんでしたよ。
あの貸本屋さん独特の臭いまで懐かしくおもいだされます。
子どものころは町中に住んでいたので、貸本屋はすぐ近くにあり、よく通いました。
本好きのおかげで、タイプ、ワープロ、パソコンを使って、好きな出版関係の仕事につけて本当に幸せでした。
なんでもいい、死ぬまで本を読めたらいいですが…。