先週末、県北に住む親友から「今日夕方5時ごろに行って、一晩泊まるね」との電話。日帰りではちょこちょこやって来るのだがお泊りは久しぶりだ。早速、お布団を陽に当て、彼女の「お泊りグッズ」を取り出してみる。お泊りグッズは、6年前に私がここへ越してきたときに彼女が持ってきたもので、それ以来、度々使っている。
彼女との付き合いは古く、この9月で39年目である。38年前、私が県北のあるギフト店で土・日・祝祭日だけ熨斗書きや品物の名入れなどのアルバイトをしていたとき、彼女が入社してきたのである。
当時、私は37歳、彼女は私より3歳若い34歳。2人ともまだ若く、「女盛り」? だった。彼女は夫と息子と娘の4人家族で、気のいいご主人とも仲良くなって、いつの間にか家族ぐるみの付き合いになっていた。
「遠い親戚より近くの他人」とはよく言ったもので、何かあるたびに彼女を頼りにしてきた。夜中にぜん息の発作を起こしたときは電話1本で駆けつけてくれて救急病院へ連れて行ってくれたことは一度や二度ではない。どんな頼みごとでも彼女がイヤと言った事はなく、いつも気持ちよく引き受けてくれるので、本当に有難かった。親や姉妹には言えないことでも彼女には話せるし、私のことを全て知っているのは彼女だけ、彼女は身内以上の大切な存在なのである。
その彼女が「私、大腸がんだって…」と電話してきたのは2005年4月上旬だった。それを聞いたとき、当の本人は冷静なのに私の方が動揺して、体の力が抜けていくような気持ちになった。すぐに入院、手術となったが、「彼女がいなくなったらどうしよう」と、そればかり考えてすっかり落ち込んでいた。
手術は忘れもしない2005年4月23日。手術後に家族とともに医師から説明を聞いたときはステージ4に近いステージ3、リンパにも転移していて、5年生存率は50%を切っていた。だが、彼女はあるがままを受け入れ、いつもと変わらぬ態度で明るく振舞っていたが、見ている私はたまらなかった。
彼女が手術した日は絶対に忘れない。というのは、あの多くの犠牲者を出したJR福知山線脱線事故は彼女の手術の2日後のことで、私は25日には病院にいて事故のことを知ったのは夕方遅くに家に帰ってからだった。毎年、あの事故のことが報じられると彼女のことを思い出すのだが、不謹慎にも私には彼女の無事を喜ぶ日となっているのである。
あれから11年、神さまは彼女を見捨てなかった。今ではがんの手術をしたなんて嘘みたいな元気印のババ。いいかげん仕事を辞めてのんびりしようと言ってもきかず、ギフト店勤務も38年、よく頑張った。だが、8月31日で会社が倒産、仕方なく退職することになったらしい。しばらく休んだら、また週に3日くらい働けるところを探すという。そんな彼女のバイタリティーに圧倒されつつも、がんが再発することのないようにと神様に祈るのである。
素晴らしいお友達、これからのご活躍を祈っています。
人生いろいろ有りとは理解していても、潔い見事な生き方にその方の達意を感じます。
オールドレディさんとの底に流れる「人間性」きっと共通した思いやりが存在しているのでしょう
道理にあわないことや人のミスを簡単には許せない狭量な私と違い、彼女は度量が広く、めったに腹を立てたことがありません。私の前で愚痴をいうことはありますが、それを表に出さないので誰からも信頼され、慕われています。私には到底真似のできないことで、よくストレスがたまらないものだと感心します。
「病は気から」といいますが、彼女は自分の病気に対しても「なるようになる」という心境なのでしょうか、すべて医者まかせでした。おかげで今は病院との縁も切れて、とても元気です。
いくらあがいてもどうにもならない、そう達観できるのはなかなかできません。彼女の生き方すべてが私のお手本です。願わくば、私より1日でも長生きしてほしいと…。勝手ですけどね。