昨日の行き帰り電車の中で読んだ。養老孟司氏が今年の5月18日毎日新聞で書評していた。その時図書館蔵書を検索したがなかったのでアマゾンでポチョッとした。日頃から、自己啓発本の類は手に取らないのだが、養老氏のおすすめで読んでみようとなった。それから読まずに積まれていたが、新書版で都合が良いと今回の旅に連れて行った。
著者は禅僧、恐山菩提寺院代の肩書を持つ。私より10年後に生まれている。大学を出て会社勤めもしたが永平寺で出家した。内容は「著者の考える仏の教えを間接的に説いたものである。欧米風の思想書とは違い、体系的に大所高所から、つまり神様目線で人生を説くのではなく、具体的な著者の体験をつないで語る半自伝でもある。」と書評にある。
ブラタモリでの取材の時案内役を務めたそうだ。残念ながら私には記憶がない。
著者が初めて死を意識したのは幼児の時喘息で窒息しかかり、目の前が真っ赤になった時からだという。その時からいつか死ぬ。死とはどういうことかと考えるようになったという。しかし、それからいくら考えても「死とは何か」も「自分とは何か」も、まったくわからないという。そして、「死は原理的かつ絶対にわからない。死ぬときは、それを体験する人がいなくなるからである。とすれば、絶対わからないことの先の話など、なおのこと分からないはずだ。」「すると、意識は逆に、生まれる方に飛ぶ。『なぜ生まれてきたのだろう』と、これも絶対わからない。すると、誕生と死という、始まりと終わりに理由も意味も不明なのだから、その真ん中にある、生きている自分の存在理由もわかるわけはない。切ない話である。」と。自分の葬式はこうしてとか、埋葬の仕方だとか希望する人がいるが、それらは残された人がその都合で行えばよい。葬式とは「○○さんは死んだ。」と確定すること。また、「是非とも生きているうちにハッキリさせておくべきことがある。それは、最終的に自分の息の根を止める決断を、誰にさせるか、ということである。」このことは私も常に思っていることだ。川端康成、江藤淳、最近ではジャンリュック・ゴダールなど気にかかっている。
死に近くなった人がやれることで、「遺された者に感謝されそうなのは、持ち物を極力減らしておくことである。」と。
キリスト教やイスラム教の聖職者たちが絶対言わないことを言っている。ご本人は他人に「お坊さんらしくない」と言われているそうだが、仏教者らしいと言える。
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