図書館の新刊コーナーで見つけた。邪馬台国論争の一つだ。「卑弥呼の鏡」とは?と気になって手に取った。「魏の皇帝が卑弥呼に与えたという100面の銅鏡。丹後地方の古社に伝世している鏡こそ、そのうちの2面ではないか。新興の科学・データサイエンスが照らし出す、新邪馬台国像。」に釣られた。この古社とは尾張氏の先祖、天の火の明かりの命を祭る京都府宮津市にある元伊勢駕籠神社.。ここの宮司家に代々伝えられている。
著者の邪馬台国の所在地についての意見は、東大の教授であった白鳥庫吉や和辻哲郎、井上光貞などに支持されてきた邪馬台国東遷説である。この鏡を手掛かりに論が展開される。まず鏡の銅同位体比の分析がされる。中国で多く見つかった銅鏡の分析に照らすと、多く北中国系同原料を使っている3世紀後半までの製造だとわかる。それ以後は南中国系の原料が使われている。
238年卑弥呼が魏に使を派遣し銅鏡100枚を贈られる。卑弥呼の存在は2世紀末から3世紀末ごろまでらしい。そうすると時代は適合する。
次に卑弥呼について考察。魏志などの大陸の歴史書と古事記・日本書紀などと読み比べる。中国の皇帝や王の在位年数を調べると日本の天皇のそれと類似する。時代によって平均在位数も変化しているがそれも類似している。その傾向で日本の天皇の在位期間を当てはめてゆくと、古事記などに登場する天照大御神だろうと。
高天が原がどこかも考察されるが、これは北部九州。神武東征などにみられる天孫降臨に係る征服戦争の記録は南九州、出雲地方、大和盆地などあるが、これらは数度にわたり何らかの邪馬台国勢力の一部が各地に広がっていったのではないかという。和辻哲郎が言うように、「国家を統一する力が九州から来た。」のだと。
北部九州にあった卑弥呼の邪馬台国が東に勢力を伸ばし、大和に定着したころに東日本までの国家統一がなったという意見である。
研究者は面白いことに熱中しながら楽しく生涯を送っているのだなとうらやましくなった。
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