
少し古すぎるかもしれないが、銭形平次が投げた銭は一文銭。日本では奈良時代に和同開珎などの貨幣が発行されたが、一般庶民の使用するところまでは至っていなかった。一般の経済活動に銭が使われるようになったのは鎌倉時代。当時の中国から輸入した渡来銭が使われた。形状は円形の中に方形の穴が開いている。材質は多くが銅だ。これに時代によって錫や鉛、鉄などが混ぜられている。この貨幣は銭と呼ばれたが、時代、地方によって幾種類もの銭が存在した。これらを識別するのに貨幣上に記された文字なり文様を読み取る必要があった。それで文とも呼ばれるようになったそうだ。しかし輸入された銭は必ずしも貨幣としてばかり使われたのではない。奈良の大仏を建立する際は多くの渡来銭がその原料とされた。中国の歴代王朝でも銭を発行しない王朝もある。したがって市中に出回っている銭は古くからのものが混在している。当時銀行などはないので、集まってきた大量の銭は地中に踏められて保管されることが多かった。それが忘れられて後代に発見されることが多い。その場合その銭の種類の比率で大方の埋められた時代がわかると言う。時代ごと発行された量にちがいがあるのだ。
この銭が日本だけでなくベトナムなどでも流通していた。将に中華圏に属していたわけだ。日本でもその流通量が拡大してくると、同じ形状で国内で作られるようになった。ただし、錫が取れないときはほぼ銅だけの銭になった。この場合文字が鮮明な形で鋳抜くことが難しい。それで文字の不鮮明なものができる。文字を鮮明に形や周囲の縁もしっかりと鋳抜くには錫を混ぜなくてはならない。これらが混ざった銭の中から鮮明なものと不鮮明なものが選別される。粗悪なものを鐚線(びたせん)または悪銭と呼んだ。こうして銭を区別してその価値に差をつけることを撰銭(えりぜに)と言う。大きい場合は三分の一や五分の一、さらに大きく差をつけることもあった。しかしこれはエンドユーザーにとってはつかいにくい。そこで時の政府府は度々撰銭禁止令を出したと言う。
中国でも日本でもこの一文を原子単価とする貨幣だけでは、庶民の日常の買物では問題はないが、長い旅に出るとき、または軍隊の遠征などではこの銭を携帯するためだけに荷車を出さなければならなかったそうだ。日本の使節が訪中するときも日本から金などを持ち込んで、現地での銭に両替するとその運送だけで数両の荷車が必要になり、長安に着くまでに運搬費用としてその何割かを費やさなければならなかったそうだ。それで五文の銭が現れたりしたそうだが、結局それも一文としてしか扱われなくなったそうだ。紙幣も発行されたがすぐに消えてしまったと言う。
日本で貨幣経済が広がった12世紀ごろから18世紀まで、この中国貨幣をベースにした銭が流通していたことになる。最後の頃は銀貨や金貨が用いられるようになるが、当時の一文銭の中には中国由来も混じっていたようだ。数百年の間異国の通貨を取引の基本単位として使用していたことは世界史的に見ても珍しいと言う。