平成28年11月16日 13:30
津山城と石垣「石の声を聴く」
穴太衆石垣石積継承者 栗田家14代当主 栗田純司先生
津山国際ホテルでの講演の後、鶴山城の石垣を観ながらの解説もありました。
粟田先生の話の中で、印象に残った事
・石の山の中から、石のほうから声が聞こえてくるようになった。
・新名神高速道路の石積で、現代工法と野面積工法による土圧試験を行った結果、現代工法による石積みより1.5倍から2倍の強度が確認された。
・
津山城石垣と穴太衆との関わり
江戸時代、森忠政によって廃城であった鶴山城を津山城と改名し、本格的に津山城築城に着手した。
その際、森藩時代に穴太村(現、大津市穴太)出身の戸波平衛門が責任者で石垣普請の指揮をとったと津山市史の文献に記載されています。
穴太村の戸波平衛門
坂本には四家穴太頭が居たうちの穴太駿河は戸波駿河と言った。
戸波平衛門の先代と思われる。
実際 坂本には戸波家の墓も最近になって見つかっております。
穴太衆は、
近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太。
延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。
寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。
それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。
彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。
現代でも、坂本の町に多数立ち並ぶ「里坊(さとぼう)」と呼ばれる延暦寺の末端の寺院群は、彼らの組んだ石垣で囲まれ、町並みに特徴を与えている。
津山城と石垣「石の声を聴く」
穴太衆石垣石積継承者 栗田家14代当主 栗田純司先生
津山国際ホテルでの講演の後、鶴山城の石垣を観ながらの解説もありました。
粟田先生の話の中で、印象に残った事
・石の山の中から、石のほうから声が聞こえてくるようになった。
・新名神高速道路の石積で、現代工法と野面積工法による土圧試験を行った結果、現代工法による石積みより1.5倍から2倍の強度が確認された。
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津山城石垣と穴太衆との関わり
江戸時代、森忠政によって廃城であった鶴山城を津山城と改名し、本格的に津山城築城に着手した。
その際、森藩時代に穴太村(現、大津市穴太)出身の戸波平衛門が責任者で石垣普請の指揮をとったと津山市史の文献に記載されています。
穴太村の戸波平衛門
坂本には四家穴太頭が居たうちの穴太駿河は戸波駿河と言った。
戸波平衛門の先代と思われる。
実際 坂本には戸波家の墓も最近になって見つかっております。
穴太衆は、
近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太。
延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。
寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。
それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。
彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。
現代でも、坂本の町に多数立ち並ぶ「里坊(さとぼう)」と呼ばれる延暦寺の末端の寺院群は、彼らの組んだ石垣で囲まれ、町並みに特徴を与えている。