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本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

TANITA ブレスチェッカー グリーン HC-205-GR

2009年03月04日 | エッセイ・日記・意見
TANITA ブレスチェッカー グリーン HC-205-GR

タニタ

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広末涼子・イン・トライアングル

2009年03月04日 | 写真・カメラ
広末涼子・イン・トライアングル
丸谷 嘉長
扶桑社

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内容紹介
関西テレビ・フジテレビ系で毎週火曜日22時から絶賛放送中のドラマ「トライアングル」広末涼子メイキング写真集。
「空が広くて、とても好きな街」と広末自身が語るパリを舞台に、カメラマン丸谷嘉長により撮り下ろされたオリジナルフォトで構成。
ドラマ撮影現場でのオフショットやシーンカットも満載。

さらにこの本のために書き下ろされたドラマ「トライアングル」のサイドストーリー「Sachi in Paris.」特別掲載。
<彼女はなぜパリへと発ったのか?>
ドラマ本編では描かれることのなかった広末演じる葛城サチの心の軌跡が明らかに。

また、広末涼子ロングインタビューでは、「ほとんど経験がない」というサスペンスに挑戦した心境や「誰かの人生を生きることができるのか?」というこの作品のテーマ、
さらには豪華なキャストが揃う現場の舞台裏まで余すところなく語っています。
ドラマ「トライアングル」創作の裏側や女優・広末涼子の魅力がもりだくさんの番組プロデューサー、監督、原作者のインタビューも収録され、
「広末涼子」と「トライアングル」の魅力がいっぱい詰まった一冊に。



映画『おくりびと』の広末涼子は、「佇まい」がとっても良かった。

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アミューズソフトエンタテインメント

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おくりびと (小学館文庫)
百瀬 しのぶ
小学館

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川上慶子さんは・・・

2009年03月04日 | 家族
JAL123 interview


日本航空123便墜落事故 - 1985


日航ジャンボ機墜落事故

 85年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故の生存者の1人、川上慶子さんが入院した国立高崎病院(当時)=群馬県高崎市=の副院長だった故浦野悦郎さん(事故当時58歳)が、慶子さんが転院するまでの2週間を記録した手記を残していた。入院時の様子などが克明に記され、事故から20年たつ今年、初めて明らかになった。
 浦野さんは、慶子さんの医師団の一人として治療に当たった。手記は今年7月、浦野さんの遺品を整理していた妻千代子さん(66)が書斎の本棚から見つけた。市販のリポート用紙に約80ページにわたってつづられていた。
 「患者(慶子さん)が搬入されたのは8月13日午後3時45分頃(ごろ)であった。(中略)14日。お水が飲みたい又(また)うわ言のように痛いと言う。(中略)事故により目の前で父、母、妹を失ったショックからかほとんど自語を発しない。(中略)事故のこと、家族の死については(慶子さんに)話さない方がよい」
 医師たちは慶子さんの心のケアに腐心する。ようやく口を開き、家族の生死を尋ねる慶子さんに、医師たちは事実を伝えることを決めた。
 「(8月15日)午前10時半頃から家人(親族)より両親と妹の死を告げさす。(中略)『お父ちゃん、お母ちゃん、咲子(妹)は駄目だったんよ』。彼女はポロポロと涙をこぼしていたが声を上げて嗚咽(おえつ)する様なことはなかった」
 転院が決まった日、慶子さんは「島根に帰りたくない。家には思い出すものがいっぱいありすぎるから」とこぼし、浦野さんは「返す言葉もなかった」と記している。
 同27日、慶子さんは島根県内の病院に転院。3カ月後、入院中の慶子さんから手紙が届いた。後遺症が残る右手で書かれた字は震え、「早く学校に行って友達にあいたいです」と記されていた。
 以後、慶子さんとの交流は途絶えた。浦野さんは94年6月に白血病で死去。亡くなる2カ月前、慶子さんが看護師になったことを週刊誌で知った。浦野さんは「良かった」と喜び、週刊誌をしばらく枕元に置いていたという。千代子さんは「退院後もずっと気にしていた。医者人生で最も忘れられない患者だったんでしょう」と振り返った。【杉本修作、伊澤拓也】
 ◇94年、看護師に…川上さん
 事故は85年8月12日夕、羽田から大阪へ向かっていた日航123便ボーイング747ジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。乗客・乗員524人のうち520人が死亡した。
 4人の生存者の一人となった川上慶子さんは事故当時12歳。島根県大社町(現出雲市)から北海道への家族旅行の帰途、事故に遭い、会社員の父と母、妹の3人を失った。慶子さんは看護師だった母和子さん(当時39歳)と同じ医療の道を選び、94年春に看護師として兵庫県内の病院に就職した。
(Yahooニュースより引用)

幸せを掴んだ川上慶子さん
2005年07月17日 | その他タイガースが21年ぶりの優勝を決めた1985年。その年の8月12日に、日本航空123便が群馬県の高天原山(たかまがはらやま)に墜落した。*1乗員&乗客併せて524人の内520人が死亡。助かったのは僅か4人という大惨事で在った。亡くなられた方の中には、歌手の坂本九氏やタイガースの中埜肇球団社長、女優の北原遥さん等著名人も居られた。(個人的には「新八犬伝」に見入って来た世代なので、坂本九氏の死は哀しみが‭一入だった。)

レスキュー隊が現場に到着出来たのは、墜落から一夜明けてからの事だった。現場の余りの惨状に、当初は全員死亡を誰もが疑わなかったと思う。それ程酷い状況で在った。*2しかし、4人の命が救い出される事となる。その中の一人が川上慶子ちゃん、当時12歳だった。救出された時の姿は今でもハッキリと脳裏に刻まれている。あれから、もうすぐ20年を迎える事になる・・・。

「週刊朝日(7月15日号)」に「育ての母が語った 川上慶子さん その後の人生」という記事が載っていた。慶子さんの父親の姉、つまり伯母に当たる小田悦子さんが記者のインタビューに応じられての内容だ。”あの日”、慶子さんは父親(当時41歳)と母親(同39歳)、そして妹(同7歳)と共に123便に乗り合わせていた。当時大阪に在住していた小田さんの家を訪ねる予定だった。待てど暮らせど来ない弟一家に気を揉んでいる中、日航機が行方不明になっている事を知ったという。翌日になって現地に駆け付ける途中のTV画面で、姪っ子の慶子さんが救出されるシーンを目にする事となった小田さん。慶子さんの逆立つ髪の毛にその恐怖心の凄まじさを感じ、又、近くに居た人から小声で「良かったですね。」と囁かれたものの、他の家族の安否を思うと手放しでは喜べなかったのだとか。

その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。”その時”の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。
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「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん(妹)も未だ生きてて、御話しててね。あっちでもこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。」

「(残骸から)抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。段々動かなく、物を言わない様になった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。『御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな。』と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。」
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事故から10年後に元米国軍人が証言した話に拠ると、なかなか現場を特定出来なかった自衛隊や警察を尻目に、在日米軍のヘリは逸早く現場を特定していたという。日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前には、在日米軍のヘリが既に現場に到着していたものの、「日本側が現場に向っているので帰還せよ。」という上官の指示で現場には降りなかったのだとか。(在日米軍による誤爆で、123便は撃墜されたという説も在る。)確かに、慶子さんもその事を語っている。
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「(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる。』と話したけど、それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。」
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「あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が救われたのに・・・。」と、慶子さんは何度も語っていたというが、本当にその通りだ。日米間のセクショナリズムか、はたまた何等かの”意図”が在ったのか不明だが、人命第一で動くべきであったろう。

事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と(飛行機には乗り合わせていなかった)兄の3人で生活し、小田さんも大阪から足繁く通って彼女等の面倒をみた。美少女と言っても良い慶子さんには、励ましの声と同時に好奇の目も集中したという。ストーカーまがいの行為に長く悩まされたり、自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いたのだとか。小田さんは、「今は色々な事故が在っても、被害者は精神的なケアをして貰えるけれど、当時は全部個人でせなあかんかった。」と語っているが、当時の慶子さんは「こんな事されるんなら、あの時御母さん等と一緒に自分も死んでたら良かった。」と漏らした事も在ったのだそうだ。被害者が、マスメディアの”煽り”で更なる心の傷を負わされる典型だろう。この構図は今になっても全く変わっていないのだから許せない話だ。

慶子さんが保健士だった母親の遺志を継いで、看護士となったニュースは聞き及んでいた。兵庫県の病院で働き始めた彼女は、1995年の阪神淡路大震災では、怪我人の手当てに奔走したという。嘗て自らが大惨事の中に居た彼女が、同じ様な大惨事に直面し、その中でどの様な気持ちで職務を全うしたのかと思うと辛さが募る。

やがて、趣味のスキューバダイビングの為に訪れたアメリカの地で、夫となる男性と知り合った慶子さん。中学生の頃から間寛平さんの大ファンで、常々「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモの様な人が良い。」と言い続けていた彼女が、その男性と結婚式を挙げたのは2002年の秋だった。今は、会社員の夫と息子の3人で、西日本の地方都市で幸せな生活を送っている。

事故後3年程は飛行機に乗れなかった彼女も、今では飛行機に乗る事は出来る様になったというが、事故の話をするとPTSDの様な症状が出るという。当然の事ながら、今でも心の傷は癒えていないのだろう。

事故の取材は一切受けたくないとしている慶子さん。廻り近所に”あの川上慶子さん”と知られる事も無く、愛する家族と共に送る”普通の生活”に幸せを感じている様だと小田さんは語っている。

最愛の父母と妹を一瞬の内に失ってしまった慶子さん。そして、その後に彼女が歩んで来た苦難の道程。やっと幸せな生活を掴んだ事を知り、思わず頬が緩んだ。これからも、亡くなった3人の分も幸せな日々を享受して貰いたいと切に願う。

*1 当時の報道が余りにも強烈に脳裏に焼き付いていた為、自分自身もつい最近迄誤解していたのだが、実際の墜落現場は御巣鷹山ではなく、その直ぐ南に位置している高天原山の尾根という事で在る。

*2 この事故をモデルにしたと思われる山崎豊子女史の「沈まぬ太陽」には、如何に現場が”地獄絵図”の有様で在ったかが記述されている。「白い巨塔」や「大地の子」、「華麗なる一族」、「不毛地帯」等々、多くの名作を世に送り出している彼女だが、この「沈まぬ太陽」も心に残る作品の一つで在る。
(「ば○こう○ちの納得いかないコーナー」より引用)

手を合わせ、前を向き 第10回 あす20年
父を失い警察歯科医に 父となり「幸せ」気づく
 上野村の日航機墜落事故はあす12日、20年を迎える。遺族は今年も、御巣鷹の尾根の墓標の前で、自宅の遺影の前で亡き人と会話を交わす。

 兵庫県豊岡市の歯科医河原忍さん(56)は自宅で、写真の中の父、歯科医だった道夫さん(当時64歳)に手を合わせる。

 「少しでも早く」。出張帰りに乗っていた道夫さんを探すため、事故翌日の1985年8月13日、藤岡市に駆け付け、地元歯科医の勧めで身元確認に加わった。2週間通い、見つかったのは左腕と頭皮。遺品は焼け焦げた革靴、壊れた時計だけ。「おやじ、ごめん」。宿泊所の風呂で泣いた。

 しかし、医師や歯科医でつくる「群馬県警察医会」の活動を目の当たりにし、歯科医の弟、悟さん(51)と兵庫県での結成を働きかけた。86年に設立されると、2人は警察歯科医に名を連ねた。阪神大震災では約1か月で同僚と68人の身元を確認。今年4月のJR福知山線事故でも遺体安置所に駆け付けた。

 「息子を生きたまま返せ」。JR職員に詰め寄る父親に身の上を打ち明け、「一刻も早く(遺体を)お返しするように頑張っています」と声をかけた。父親は「わかりました」と一筋の涙を流した。日航機のトラブルが続く。河原さんは言う。「安全が忘れ去られていないか。命の重さを立ち止まって考える時だ」

 奇跡的に助かった4人のうちの1人、川上慶子さん(32)の兄、千春さん(34)は島根県出雲市に住む。5年前に結婚し、長男の創也君(3)も生まれた。

 事故当時は中学2年生。野球部の練習のため、留守番をしていた。父の英治さん(当時41歳)、母の和子さん(同39歳)、もう一人の妹の咲子さん(同7歳)を奪われ、祖母のキミエさん、慶子さんと3人の生活が始まった。

 「生きている実感が持てなかった」。心臓の病気でキミエさんが入退院を繰り返すようになると、一家の大黒柱として重圧がのしかかった。高校2年の秋、不登校になり、中退。慶子さんは地元の高校から大阪の看護系短大に進んだ。

 「失敗や挫折を事故のせいにしていた。慶子に比べ、自分に弱さがあったかもしれない」

 町議として医療費貸し付け制度の創設に奔走した父、朝から晩まで患者さんのもとを駆け回った看護師の母。その姿を忘れることはなかった。親類の励ましもあって、通信制高校から大学に進学。福祉関連の会社に勤め、お年寄りの車いすを修理し、住宅の段差をなくす工事をする。

 慶子さんは2002年に結婚し、昨年夏に男の子を出産した。四国に移り住み、看護師を辞めて子育てに専念する。今年の大型連休には帰省し、墓前に長男の誕生を報告した。

 2人を見守ってきた伯母の池田富士子さん(65)は「平凡だが、地に足の付いた幸せをつかんでくれた」と語る。

 夫婦で支え合う生活や子供が生まれる喜び。「父も母もきっと経験していた。決して不幸ではなかった。両親と妹の命は次の世代につながっていくんだ」。千春さんはおもちゃで遊ぶ創也君をいとおしそうに見つめた。(おわり)
 (「風化させない」の題字は、遺族で沼田市在住の木内かつ子さん。連載は広中正則、松田陽介、加地永治が担当しました)
(読売新聞より引用)
御巣鷹の謎を追う -日航123便事故20年-<DVD>
米田 憲司,米田 憲司
宝島社

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出版社 / 著者からの内容紹介
真相解明と「安全」の意味を問う!

乗客・乗員524人を乗せた日航123便が群馬県御巣鷹の尾根に墜落、520人が犠牲となった事故から、この8月12日で20年。垂直尾翼の突然の損壊・消失という、関係者が首をひねる前代未聞の事故原因。墜落現場を特定できず、救出を遅らせた自衛隊の謎。10年後に明らかになった、米軍の救助が寸前で中止された事実。相模湾から尾翼の破片をすべて回収することなく、早々と出された事故調の結論…。未曾有の事故を発生の日から追い続けた著者が執念でまとめた「123便事故20年」の集大成。事故機のボイスレコーダーとCG映像で、事故発生から墜落までの123便の迷走と懸命なコックピットの様子を追体験できる、胸を打つDVD付き。

沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)
山崎 豊子
新潮社

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メタローグ
日本を代表する航空会社の凄まじいまでの腐敗。85年の御巣鷹山事故の衝撃を出発点に、その内実を描いたノンフィクション・ノベル。全5巻の大作ながらベストセラーになった。労組活動を「アカ」呼ばわりされ、海外の僻地勤務を命じられた主人公・恩地に、リストラ社会を生きる人々の共感が寄せられたのが一因だろう。だが、もっと重要なのは、だれもが知るあの会社をモデルに実在人物をも特定できる形で汚点を紡いだ「蛮勇」ではないか。たとえ事実と創作の混線ぶりが気になるにしても。「白い巨塔」の財前や「不毛地帯」の壹岐でなく、企業内で黙々と働く恩地が英雄という閉塞時代に、私たちはいる。(藤谷浩二)

墜落の夏―日航123便事故全記録 (新潮文庫)
吉岡 忍
新潮社

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内容(「BOOK」データベースより)
1985年8月12日、日航123便ジャンボ機が32分間の迷走の果てに墜落し、急峻な山中に520名の生命が失われた。いったい何が、なぜ、と問う暇もなく、遺族をはじめとする人々は空前のできごとに否応無く翻弄されていく…。国内最大の航空機事故を細密に追い、ジャンボに象徴される現代の巨大システムの本質にまで迫る、渾身のノンフィクション。講談社ノンフィクション賞受賞。

蒸し暑い夕方だった。大阪の天神橋筋商店街の飲み屋に向かう直前、JAL123便の機影がレーダーから消えたというテロップがテレビ画面に出た。飲み屋でテレビを見上げながら、ビールを飲んでいた。入社三年目。忘れられない夏だ。

西松建設裏金:小沢氏総支部長の政党支部にも…地検捜索

2009年03月04日 | エッセイ・日記・意見
 準大手ゼネコン「西松建設」(東京都港区)による違法献金事件で、小沢一郎民主党代表が総支部長を務める民主党岩手県第4区総支部(同県奥州市)が、同社OBによって設立された2政治団体から総額1400万円の献金を受けていたことが分かった。東京地検特捜部は2団体を西松建設のダミーとみており、4日午前、同支部や党県連事務所(盛岡市)の家宅捜索に乗り出した。

 政治資金規正法は企業から政治家の資金管理団体への寄付を禁じているが、政党支部への献金は禁止されていない。だが、政党支部の担当者が西松建設からの寄付と知りながら、政治資金収支報告書にダミー団体の名を記載した場合、同法違反(虚偽記載)に当たる可能性がある。

 03~06年の政治資金収支報告書によると、民主党岩手県第4区総支部には「新政治問題研究会」から1000万円、「未来産業研究会」から400万円が献金されていた。また、小沢氏が過去に党首を務めた自由党(解散)の政治資金団体も2団体から99~02年に総額3900万円の寄付を受けていた。

 民主党岩手県第4区総支部や小沢氏の資金管理団体「陸山会」(港区)に対する2団体の献金は、自由党が解散した直後の03年から始まっており、特捜部は献金先が変遷した経緯についても、西松建設側から事情を聴いている模様だ。

 西松建設側の政治献金を巡っては、小沢氏の公設第1秘書、大久保隆規容疑者(47)が同社からの献金と知りながら、03~06年の計2100万円について2団体からの献金と虚偽内容を収支報告書に記載したとして3日逮捕された。西松建設側からの献金について民主党岩手県第4区総支部は4日、「事務所に分かる者がおらず、お答えできない」と答えた。
(毎日新聞より引用)

小沢一郎記者会見「自民党と社会と秘書が悪い」part3


「政治家」で信じられる人・・・っています?????

この世でいちばん大事な「カネ」の話

2009年03月04日 | 本・雑誌・漫画
この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ) (よりみちパン!セ)
西原理恵子
理論社

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内容紹介
西原理恵子が「カネ」を通して自らの生き様と理念を語る初の自伝的エッセイ登場!
故郷での貧しさゆえの八方ふさがりの生活。東京に出てきて学校に通いながら自分の絵を出版社に持ち込み次第に認められて行く。そしてギャンブル、アジアへの旅で出会った貧しい子ども達、大切な家族の事。
「お金」について考える事は人間関係・仕事関係、つまり自分と世界との関わりにつながっていくのです。
漫画で描かれた西原ワールドがより深く・よりリアルに迫って来る1冊。
西原ファンならずとも納得・感動の1冊です!

内容(「BOOK」データベースより)
どん底だった、あのころのこと。「貧乏」は、札束ほどにリアルだった。「働く」はもっと、「しあわせ」につながっていい。だから、歩いていこう。自分の根っこを忘れないために。大切な人が、心から笑ってくれるように。切れば血が出る、読めば肉となるサイバラの物語へ、ようこそ。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
西原 理恵子
1964年、高知県生まれ。武蔵野美術大学卒業。大学在学中の88年に「週刊ヤングサンデー」にて『ちくろ幼稚園』を連載、漫画家としてデビュー。あるときはドライブ感あふれる筆致で体をはった強烈なギャグを豪快に展開する無頼派として、またあるときは、世の中の底辺でかろうじて息をしながら、それでも生きることの切なさと喜びを手放さずにいる人たちを静かに、ていねいに描いては深い感動を繊細に紡ぎ出す抒情派として活躍。戦場カメラマンであった亡き元夫とともに、世界のさまざまな場所を訪れては軽やかに、深遠に、ギャグを飛ばしつつ、人を深い内省へと誘う作品を生み出し続け、今もなお、さらなる漫画道を驀進する日々を送っている。97年に『ぼくんち』(小学館)で文藝春秋漫画賞、2004年に『毎日かあさん カニ母編』(毎日新聞社)で文化庁メディア芸術祭漫画部門優秀賞、05年に『上京ものがたり』(小学館)『毎日かあさん』(毎日新聞社)で手塚治虫文化賞短編賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



「お金」の大切さ、「命」の大切さ・・・それは連携している。