越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

死者のいる風景第三回(その1)

2011年04月18日 | 音楽、踊り、祭り
死者のいる風景(第三話)メキシコ・パッツクアロ
越川芳明

 ミチョアカン州パッツクアロに着いた日は、あいにくと雲行きが悪く、まるで雨神トラロックが機嫌を損(そこ)ねているみたいだった。

 いや、トラロックはメキシコの大地に恵みの雨をもたらす神様だから、むしろ僕を雨で歓迎しようとしていたのかもしれない。

 「死者の日」の祭りには、観光客がメキシコ国内だけでなく外国からもやってくる。

 ホテル探しが大変だ。

 あらかじめ宿を取っていない者は、まるでメキシコの牧童(チャロ)に追い立てられた馬みたいに、あちこち振りまわされることになる。

 僕は州都モレーリアで借りたレンタカーで、あらかじめ目星をつけておいたホテルをめざす。

 幸運なことに、とりあえず二泊分だけは確保できた。

 やはり雨神トラックは僕を歓迎してくれたのだ。

 翌日、僕がそう言うと、観光ガイドのロドリゴが応じた。

 「でも、『不信は安心の母(デ・ラ・デスコンフィアンサ・ナセ・ラ・セグリダー)』というメキシコの諺があるよ。

 いつも安心していたければ人を信用するな、という意味だ。

 でも、君はそういうタイプじゃなさそうだね」

 夕方、僕はロドリゴに連れられて、パッツクアロ湖の艀(はしけ)の近くまで行き、そこに設置された舞台で「老人の踊り(ダンサ・デ・ロス・ビエヒトス)」を見た。

 舞台に小学校の中学年ぐらいの男の子たちが五、六人登った。

 トウモロコシの穂先で作った頭髪や髭をつけて老人を装っている。

 一人だけ若い娘がいて、こちらは正真正銘のハイティーンの女の子だ。

 あでやかなビロードのロングスカートを両手でつまみ、まるですれっからしの娼婦が挑発するかのようにひらひらと揺らす。

 それを見た「老人たち」は、まるで奇種の蝶を追いかける老鱗翅(りんし)学者のように、その布の羽に誑(たぶら)かされて、身体をぎこちなく動かし娘を追いかける。

 そして、まるでメスの気を引こうと一気に羽を広げるオスのクジャクよろしく、虚勢を張って下駄で床を踏みならす。

 これ見よがしに「わしゃまだ若いぞ、どうだ」といわんばかりに、一種のタップダンスを踊る。

 老人を演じる少年たちはその身にはち切れんばかりのエネルギーを極力抑えている。

 それでも、女の子をナンパしようとして、空(から)元気の一つでも見せようとする。

 こういう芸能の中で、老いと死を意識せざるを得ない老人のエロティシズムを子供に演じさせるのは、なんとすぐれた先住民の知恵なのだろう。

 そういえば、『ゲゲゲの鬼太郎』の作者、水木しげるがメキシコの仮面の収集に凝っているという話を読んだことがある。(『幸福になるメキシコ』祥伝社、一九九九年)

 わざわざオアハカ、ゲレーロ、ミチョアカンなど先住民の多い州まで出向いて、大量の仮面を購入している。

 それらの仮面は、メキシコ特有の鮮やかな原色による色使いもさることながら、人間の顔にウジ虫やバッタや蛇などが巧みに配置されて意表をつく。

 どこか間抜けでコミカルな表情をたたえている悪魔(ディアブロ)の仮面もあれば、ジャガー、山羊、フクロウなどの動物の仮面もあるし、賢そうな老人の仮面もある。

 メキシコ人はどうして仮面が好きなのだろうか。

 ルチャ・リブレと呼ばれるプロレスでも、みな仮面(マスカラ)をつけている。

 そのことをロドリゴに訊いてみると――

 「仮面はメキシコ人にかぎらず、だれでも好きだろ」と、前置きをして。

 「仮面というのは、自分の素性を隠すためもあるけど、その一方、自分以外の何者かになるための道具でもある。

 たとえば、君の言う<悪魔>の仮面でもそう。

 <悪魔>っていっても、普段は目に見えないけど、お祭りの儀式で仮面をかぶった人に<悪魔>がとり憑(つ)いて、私たちはその目の前の<悪魔>を相手に、災いが起こらないように、厄払いをおこなうってわけさ」

(つづく)


 
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