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越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

カプランオール『蜜蜂』(2)

2011年06月25日 | 映画
本作は、ユスフをめぐる三部作の完結編にあたるが、全編を通して父親から受け継いだと思える病いへの言及が見られる。

第一作『卵』(二〇〇七年)では、中年ユスフが亡き母の遺産手続きのため事務所を訪れたさいに、中庭で綱作りの職人の歯車の音に反応して地面に倒れる。

彼は助けた職人に「弔いの朗誦が聞こえた」と述べる。

第二作『ミルク』(二〇〇八年)では、青年ユスフが母の生活に「再婚」の兆しが見えたとき、バイクの運転中てんかんの発作をおこす。

そうした父譲りの発作は、神に選ばれた者の「聖痕」に他ならない。

母は青年ユスフに対して、「朝起きてくれば、本を抱えている。

外に出れば、空や地面を眺めて、花や虫ばかり見ている」と不満を述べるが、そうした母の愚痴は、ユスフの詩人としての才能を逆に暗示している。


映画の中での満月のイメージも鮮烈だ。

少年は、父の不在のなか、真夜中に水たまりの前に座り、満月を両手でそれをつかもうとする。

月の形が崩れ、やがて元通りになる。すると、少年は月の中に顔を突っ込む。

満月は、カプランオールの好きなモチーフだ。

『卵』でも、晩秋の湖面から立ち上る月がでてくるし、『ミルク』では、夜中に青年が街中を彷徨するその向こうに満月が浮かぶ。

月の動きは、時間の経緯をあらわす。

主人公ユスフをはじめとする人間の世界に次々と歓迎すべからざる出来事が起こり、人間たちが「運命」にもてあそばれても、月は変わらず満ち欠けを繰り返す。

本作は、そうした運命論や自然への畏怖心を育む文化土壌を丁寧にすくい取っている。

イスラム文化圏のトルコが舞台であるだけに、イスラムの信仰生活のシーンも重要な意味を持つ。

たとえば、父が「黒壁」と呼ばれる遠くの森へ養蜂の道具を仕掛けに出て行ったきり戻らないので、母は少年を祖のもとに預ける。

祖母は丘の上に建てられた女子修道院に少年を連れて行く。

そこでは、白い布で頭を覆った女性たちが、昇天するムハンマドのエピソードをつづった一節をみなで朗読している。

そこで、少年は自分の嫌いなミルクをめぐるある啓示を得る。

三部作の中で、特に象徴的な意味を持つのは、『ミルク』の冒頭で、ユスフが大木の枝につるされて口から小さな蛇をはき出す場面であり、また同作の結末で、ユスフが泥だらけの池で大ナマズを抱きしめる場面である。

どちらも野生児の魂を宿した詩人の誕生の瞬間を告げていて、本作は、そうした詩人の魂を育んだ、生命あふれる森の暮らしを、寡黙なタッチで繊細に撮った傑作だ。

(『すばる』2011年7月号、274-275頁)
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