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越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

マイケル・ムーアの映画『シッコ』

2007年09月06日 | 小説
米国の医療制度を一方的に叩く
映画評 マイケル・ムーア『シッコ』
越川芳明

 マイケル・ムーアのドキュメンタリーは、いつ見ても面白い。その面白さは、監督自身による大物有名人への突撃インタビューや傍若無人な振舞いにもあるだろうが、むしろ、あざといまでに巧みに計算された編集にこそあるのではないか。面白さを引きだす編集の基本は、ハリウッドの「西部劇」のフォーマットだ。

 どのような素材であっても、「正義」対「悪」の対決に仕立て、監督みずから銃ではなくキャメラを武器に諸悪に立ち向かう。

 十七世紀に北米のニューイングランドにやってきたピューリタンは、自分たちの宗教を信じない者を「魔女」とみなした。アングロ白人の作る西部劇の背後には、「他者」を一方的に排除する「魔女狩り」の記憶が宿っている。そういう意味では、ドキュメンタリーというジャンルに入るとはいえ、ムーアの作品も、西部劇と同じで、とてもアメリカ的なのだ。

 『ボウリング・フォア・コロンバイン』では、銃社会を「悪」に仕立てて、銃規制に反対する全米ライフル協会の会長チャールトン・ヘストンを叩く。『華氏911』では、イラク戦争を素材にして、戦争に突入させたブッシュ大統領を悪の権化として吊るしあげる。

 本作が標的にあげるのは米国の医療制度であり、ムーア保安官にやっつけられるのは、保険会社や医師会、医薬品会社、政治家だ。

 米国には国民皆保険制度がなく、特殊な公的医療保険の対象になる低所得者や高齢者や障害者をのぞくと、国民の約七五パーセントが民間の保険会社と契約を結ばねばならない。だが、保険に加入できない無保険の人が四千七百万人(国民の六人に一人)もいるという現実が冒頭でしめされる。一人の男が自宅の居間で、足の傷口を自分で縫っている姿が映し出されたり、旋盤で切り落としてしまった二本の指のうち、一本の指の縫合手術を高すぎる手術費のために、あきらめねばならなかったという男の証言が挟まれたりする。

 しかしながら、この映画が訴えるのは、二億三千万人の保険加入者たちのトラブルのほうだ。加入者でありながら、医療を受けられなかったり、保険金が支払われなかったりという不条理な事態について、ムーアがインターネットを通じて募ったというトラブルの数々がつぎつぎと出てくる。 

 五十代の夫婦は、夫が心臓病、妻が癌の治療で保険の限度額を超えて破産し、自宅を売り遠くに住む娘夫婦の家に居候するはめに。七十代の老人は、高すぎる薬代を保険でカヴァーできるので、スーパーの清掃の仕事を死ぬまでやらざるを得ないと語る。交通事故にあった若い女性は救急車を使ったが、契約にある「事前許可」を取っていないという理由で、救急車利用代の支払いを保険会社に拒まれたと嘆く。

 そうした犠牲者の苦情や証言だけでなく、保険会社からインサイダー情報も寄せられる。保険会社のコールセンター(電話窓口)で働いたことがある女性は、保険加入を拒否できる条件となる既往症の多さを語り、やっかいな人は加入させない保険会社の非情なやり口を涙ながらに吐露する。

 筆者が見つけたウェブ上の論文では、ハーバード大学の医学部助教授・李啓充は、そうしたやり口を「サクランボ摘み」と称している。

「これが一番問題ですが、保険会社がもうけようと思ったら健康な人を集めればいい。有病者を敬遠して、例えば大企業の大口契約を取り、その企業に働いている元気な人だけを集める。これをサクランボ摘みといいます」<http://www.medical-tribune.co.jp/fujitsu/session1.htm>

 一言でいえば、病気がちの人は民間の保険に入れなくなり、結局、世の中に無保険者の数が増大することになるというわけだ。

 映画では、さらに驚くべき証言が保険会社の雇った審査医からなされる。かれらは保険会社の門番として事前審査を行ない、過剰な医療サーヴィスが患者になされないようにチェックをするのだが、問題は、かれらが保険会社に操られているということだ。理由をつけて医療を拒めば(保険会社は利益を生むわけだから)、保険会社からよい医者とみなされ、会社からボーナスが支給されるという。

 ここまで見て、わたしは愕然とした。保険会社への不信に取り憑かれた。これまで海外に行くたびに、安心料と思って米国の高い旅行保険を買っていたが、もし万が一入院や手術などといった怪我や病気に見舞われていたら、果たして保険金は支払われたのだろうか、と疑心暗鬼に捉えられたのだ。

 映画の後半は、カナダ、イギリス、フランス、キューバへ飛び、アメリカの医療制度に比べて外国のそれがバラ色であるかのように描かれる。たとえば、イギリスでは、一九四八年に創設されたNHS(国民健康サーヴィス)により、出産を含む医療費はすべて無料であることがしめされる。国立病院で、医者や患者にインタビューして、いくらかかるのか、と質問するたびに職員に笑われるムーアのバカぶりが強調されるが、これは恐らくムーアの計算ずくの「やらせ」に違いない。イギリスの医療が無料であることはあらかじめわかっているが、その点を米国の観客につよく訴えるために、あえてバカな道化ぶりを発揮しているのだ。

 外国の医療制度に関して、治療までの順番待ちや、医療機関のストなど問題点があっても、それはいっさい指摘されない。一方的に米国の医療制度を「悪」に仕立て、国民の目をシステムに向けさせるのが目的だから。この映画が二元論的な発想に立つ「西部劇」であるゆえんだ。

 では、日本の制度はどうなのだろうか。高齢化社会での医療費の増大を危惧して、国民皆保険制度に、民間の保険を加味した「混合診察」の導入が検討されているという。慶応大学の池上直己教授は、混合治療が米国と同じ医療費高騰につながる可能性を示唆している。(医療制度研究会~21世紀の医療を考える会 講演要旨より <http;//www.iryoseido.com/kouenkai/001.html>)。

 日本が米国のまねをした制度改革の最大のパラドックスは、市場原理を取り入れた「福祉」の分野でコムソンのような会社が利益至上主義に走ったように、「医療」の分野においても、よほど慎重にならないと、儲けしか考えない株式会社の病院が出てきて、患者がないがしろにされてしまうということだ。

(『すばる』2007年10月号)
コメント (1)
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