S.Boy blog

いかに生きるか いかに撮るか

自然とかいて「じねん」

2011-06-17 | 仏教
結局、人間は自然に沿ってしか生きられないらしい。
人間が自然をコントロールするという発想は我欲であり、
我欲は自滅に至る。
森羅万象を自由に操ることに疑いを持たないことは
かなり恐ろしいことだ。


エネルギー問題

2011-05-24 | 仏教
月並みだが、エネルギー問題について調べている。といっても、ほとんどネットか本を読んでいる程度だが。
それにしても、倫理観と経済的な問題とが交錯して、自分として納得いく結論に至らない。たぶん、そうやってごまかしながら現実と摺り合わせながら、まあうまい具合にやりこなしてきたのだろう。しかし震災・原発事故で価値観は大きく揺れている。
こんな場合、親鸞聖人ならどんな答えを導かれるのだろう。


因果応報

2011-05-20 | 仏教
「こんな世の中になればいいのにな」という願望が、
そういう世の中を作ると、いまだに信じている。
頭の中で理屈により考えた「よい社会」とは、
少し違っていると自分では思っている。


あきらめる

2011-04-27 | 仏教
民主党内の菅下ろしに、呆れて言葉も出ない。
確かに、個人的には「何とかならんのか」と毎日腹立たしいが、
かといって今の大切な時期に反乱してる場合か。
被災地のことは政争の具としか思っていないのだろう。

この国の政治家、口ばっかりの人種。
この国の政治は、もうあきらめた方がいいのかもしれない。
変えられないし変わらない。仕方ない。こんなもん。
そう思って割り切った方が、幸せに生きていけるのかもしれないな。

はるか昔から仏教において伝えられた「あきらめる」
すなわち、
「明らかにして、認める」
精神的に安定して生き残るための術なのだろう。


道徳

2010-03-12 | 仏教
ある学者は、いまの日本には道徳の教育が必要だという。
またある仏教家は、道徳教育などやることが間違っているという。
なぜなら、道徳は人間が善悪を決めているから。人間は不完全なものだから、善悪など決めることはできない。
だから道徳などやるべきでないのだという。

私は、この後者の考えが正しいと思っています。人間は、自分たちが定めた「ものさし」が絶対と思っているところに、深い過ちがあるような気がする。
そこにはもっと深い意味があるのだと思います。

善意について

2010-03-09 | 仏教
田坂広志氏のメルマガ、「風の便り」に書かれていたことは、とても深いものだった。この内容と親鸞聖人の教えを重ねて考えてみると、人間の考える善意なんてつまらないことなのかもしれないと思う。
為政者が社会のためにと行うこと、大人が子供のためによかれと思ってやることなどは、実は迷惑千万なことなのかもしれない。
親鸞聖人は、人間は愚かな生き物であり、それゆえ愚かな人間がものごとの善悪をつけることなどできないのだという。「悪人正機説」はこういった考えが基になっているのだろう。地球のため人のためという美辞麗句がこれほど上滑りしている時代があっただろうか。そんなことをあらためて考えてみる。
おそらく、ギリギリのところまでほうっておくのがいちばんいいのだろう。

歪み

2010-03-01 | 仏教
子供は大人の鏡。
その子供たちが、なにかおかしいように思える。
いや、自分の子供のことでなく、子供の社会があきらかにおかしい。
すなわち、日本がおかしいのだろう。残念ながら、歪んでいる。私には歪んで見える。
でも、わかっている。解決策などないことを。
政権が変わろうが、識者が正論を叫ぼうが、春が来ようが、
なにも解決しない。
ただ、祈るのみ。それしかない。

仏教観と資本主義

2009-12-03 | 仏教
田坂広志氏の「目に見えない資本主義」を読む。行きすぎた貨幣中心の資本主義を批判しているが、大きな政府が資本を分配する社会主義を推奨しているわけでもない。氏は、仏教観と資本主義を融合させた新しい価値観を「予測」している。青臭い書生主義でもなく、たんなる理想社会の絵空事でもなく、研究者として理論をもって将来を描いている。「このままでは日本は潰れる」といった打算的な話ではなく、かくあるべきと創造的な話が綴られているところが巷の本と違うところではないか。

氏の理論のベースには仏教観があると思う。この先の社会、仏教観のような思想と科学が結びついていく必要があるのだろう。決して友愛社会と題して金をばらまくだけでは乗り越えられないのではないかと思うからこそ、ここに書かれていることが理想論で終わることはないと思う。

新型インフルエンザにかんする考察

2009-11-09 | 仏教
小2の娘のクラスが学級閉鎖になった。新型インフルエンザがかなり流行している。
周りを見ていると、どうも大人や幼児はかかりにくいような気がする。子供が感染したという話は職場でも近所でもよく聞くのだけれど、その家族に移ったという話をあまり聞かない。
これは、もっと子供に目を向けなさいという声なのかもしれない。自分のことばかり考えないで、子供たちをもっと見なさい。仕事や美容に没頭のお母さんは、もうちょっと子供のことを見てあげてと、そんなことではないかなと仏教的に考えてみる。

清濁併せのむ

2009-09-24 | 仏教
世の中、きれいごとだけでは生きていけない。
だからといって、良識を捨てて割り切る姿勢もどんなものか。
仮に背徳が避けられなかったとしても、
それでもなお望みをひっそり抱いて祈念する日々を過ごしたい。

空蝉

2009-09-18 | 仏教
写真も好きだが、文章を書くことに喜びを感じたりもする。
自分で撮った写真と文章で、ささやかでも暮らしていけたらと、
この不況下でも考えたりする。
いや、組織に忠誠を誓って救われることはないと迷うからかもしれないが。
空蝉(うつせみ)の仏教的意味を自分のものにできたなら、
少し楽に生きていけるだろう。

PHOTO:枚方・くずは RICOH GR DIGITALII

臓器移植について、再び

2009-07-01 | 仏教
偶然出会ったときにたまたま聞いたからだけど、
思いのほか身近なところで
心臓移植を待つ子供さんがいることを知る。
離れたところの話ではなかったのだと知る。
それがきっかけで、しばらく考え続けたのだが、
やはり結論は同じだった。
臓器移植には、すんなりと同意できない。
脳死を死と決めつけて、
機械の部品のように、臓器を移すという行為は、
助けられる側の論理に偏りがあるように思われてならない。
ある仏教者が言っていた、
「短い命であるならば、それはほとけ様がそうやって授けられたのだから、
しっかり受け止めてお預かりするのが親の務めである。」
という言葉を、できれば素直に受け入れたい。
「他人の命を奪って我が子の寿命を延ばすなんてことは、絶対考えてはいけない」
という言葉が、奥の方まで突き刺さる。

世間虚仮

2009-06-24 | 仏教
セケンコケ。いい言葉だなあ。響きもいい。
ブログの名前、これにしようかなとも思う。
(検索してみたら、すでにけっこうあるのでヤメ)
聖徳太子が亡くなる前に言ったことばで、
このあと「唯仏是真」と続く。
世の中なんてものは仮のもので、
それにこだわるのはつまらないものだ。
世間での評価とか地位とか、
そんなものは気にしないで
自由に生きようという、
すがすがしい気持ちになれる。

photo:大阪市大正区