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パトリス・ルムンバ~国家英雄を讃える日(2)、コンゴ民主共和国

2014-01-17 07:30:04 | アフリカ情勢
コンゴ民主共和国では、昨日に続き、きょうも国家英雄をたたえる日。本日は本命、パトリス・ルムンバの没記念日である。

言わずと知れたコンゴ、そしてアフリカの英雄。このブログの中でも繰り返し触れてきた。



彼の生涯、そして死については、数多くの本や映画などでも取り上げられているが、詳細についてはいろいろ食い違う歴史の証言があり、定かではない。きょうは、このメモリアルデーに、私がこれまで目にした複数の資料をもとに、最大公約数のところを少し紹介してみたい。


◆幼少期~職業人へ
パトリス・エメリ・ルムンバ。1925年7月2日、ベルギー領コンゴのオナルア(現在のコンゴ民主共和国東カサイ州)生まれ。植民地時代、コンゴの社会制度をほとんど整えてこなかったベルギー。ルムンバもキリスト教会の支援する学校で教育を受ける。

その後、現在の東部州の州都、キサンガニにわたり郵便局員の職に就く。のちに組合のリーダーを務めた。また1950年代にはビールの販売員を務める(→「コンゴのビール事情(2)」参照)が、この中で弁が立ち、人心をつかむ彼の才覚が現れる。他方、1945年には南カタンガの鉱山会社で勤務、またその後レオポルトビル(現キンシャサ)でジャーナリストとしての経験。ルムンバはコンゴにはたくさんの資源があること、これが国際社会において大きな意味を持つものであるということ、そしてコンゴ人が資源の管理に携わり、またはその恩恵を受けていないことを知る。問題意識が覚醒した。


◆独立、そして首相就任
対岸のフランス植民地が独立へ向けた動きを進めて行く中、コンゴでもベルギーからの独立の要求が激しくなっていく。そして1960年1月、ブリュッセルでコンゴの独立に向けた円卓会議が開催される。この場に初代大統領となるジョセフ・カサブブ(アバコ党)、モイズ・チョンべ(コナカ党)とともに、コンゴ国民運動党(MNC)を結成したパトリス・ルムンバも参加した。

そもそもベルギーはコンゴの独立には賛成ではなかった。円卓会合ではコンゴ人側での意見調整があわないとタカをくくり、遠い将来の独立をちらつかせ、懐柔策にしようとしていた。しかし予想に反してコンゴ側は結束。要求通り、半年後の1960年6月30日に独立を果たすこととなる。

新しいコンゴの憲法では、大統領は統治権を発動するが、閣僚の連署がなければ権限が及ばないという制度、すなわち宗主国のベルギーにおける国王と首相の関係を模したものとなった。1960年、限定的ながらも行われた選挙により、初代大統領にジョセフ・カサブブが、首相にはパトリス・ルムンバが選出された。


◆コンゴの黎明~独立、そしてコンゴ動乱
そして1960年6月30日、ベルギー国王ボードワン二世を迎え、独立の日を迎える。来賓による祝辞でベルギーや国王への賛辞、謝辞が並ぶ中、ルムンバはプログラムに予定されていなかった演説を強行。植民地の屈辱と宗主国への憎悪、ベルギー国王の侮辱、真のアフリカの独立。コンゴ人のためのコンゴ、ベルギー人の排斥。彼が並べた過激な主張は、満場のアフリカ人みならず、コンゴ人、そしてアフリカ大陸かしこからの喝采を浴びた。

しかし独立当初から政府は機能不全に陥る。そもそもカサブブとルムンバの建国思想は異なっていた。カサブブは、コンゴ王国の時代から、自負と独立性の強いバコンゴ州出身。ベルギーの保護を受けながら、地域の自主性を重んじた連邦型国家を目指した。これに対しルムンバは統一コンゴ、真のコンゴ人のためのコンゴを目指し、中央集権的、非同盟路線での国家建設を目指した。さらに政敵チョンべはカタンガ州知事となり、表舞台に立つ機会を伺っていた。

独立ほどなく起きた軍の騒乱で、国は早くも危機を迎える。そして騒乱は拡大し、コンゴは無秩序となる。外国人は略奪、暴動の対象となり、国を逃れた。

機に乗じたベルギーは、自国民保護を理由に、資源あふれるカタンガ州にベルギー軍を投入。そして上記のモイズ・チョンべを立て、カタンガを独立。傀儡政権を打ち立てる。


◆ルムンバの失脚、惨殺、そして反乱
時折しも冷戦が進行する中、コンゴもこの構造に組み込まれて行く。ルムンバはベルギー支配からの脱却には大国との関係づくりが重要として、アメリカに期待を寄せるが、申し入れは不調に終わる。そして次第にソ連に傾倒して行く。

この経緯については、シネマアフリカ2013で上映された「キューバのアフリカ遠征(コンゴ編)」に詳しい。この映画、ベルギー、米、ソなどの当時の関係者の生証言を交えたノンフィクション・ドキュメントであり、迫力がある。その中で、米国のCIAでルムンバの訪米を迎えた当時の担当は、彼を西欧社会の慣習や礼儀にもとり、私欲と色欲にまみれた「変人」と言い放った。歴史の事実は定かでないが、リアルな感じを受けた。実際どうだったのだろうか。


さて、そのルムンバ。首相就任後も人気は絶大であった。それがゆえに、ルムンバは欧米諸国から危険分子とみられることとなる。西側列強はカサブブを通じてコンゴを制御。次第にルムンバが「赤」だとして、レッドパージ(共産主義者の排斥)のレッテルを貼る。

そして建国からわずか3ヶ月の9月5日。カサブブ大統領はルムンバ首相を罷免。対抗したルムンバはカサブブを解任するという混乱に陥る。その後、ルムンバは身の危険を示唆され、逃亡を図るが、あえなく拘束される。凄惨なリンチを受け、瀕死の状態でカタンガのエリザベス・ヴィル(現ルブンバシ)に護送され、最後は銃殺された。

この惨殺に最後の手をくだしたのが、カタンガのベルギー傀儡政権、チョンべ(上述)。また作戦の指揮をとったのが、ルムンバに見染められ独立会議に出席を許され、軍参謀まで上り詰めた、ジョセフ・モブツ。その後、かの有名な独裁者になる男だ。歴史の残酷である。

その後、ルムンバがいない、ルムンバが殺されたとの噂が国内を駆け巡る。当局は逃走ののち、村人によって殺害されたと発表したが、そんな話を信じる国民はいなかった。独立後の失望、生活への不満とあいまって、ルムンバ支持者が集結していたスタンレー・ヴィル(現キサンガニ)から、農民蜂起は一気に広がっていった。当局はルムンバの惨殺の痕跡がばれないようにと、遺体を再度掘り起こして、骨まで硫酸で溶かした、との逸話も残っている。


そしてそのルムンバが英雄としてあがめられるようになるのは、この国がモブツが独裁をスタートさせたのち、1966年の独立記念日であった。自ら惨殺に関わった、その当事者、モブツによる英雄化。この歴史の事実をどう受け止めたらよいのだろうか。

(キンシャサ市内に立つルムンバの銅像)




さて最後に。ルムンバの生涯をよりリアルに知ることができるドキュメンタリー映画に、'LUMUNBA'(邦題「ルムンバの叫び」)がある。有名なので、ご存知の方も多いだろう。まだの方、ご関心の方、ぜひ、お近くのTSU●AYAへGO!である。
(映画'LUMUNBA'予告編動画)



英雄の没記念日に、パトリス・ルムンバへの心から哀悼の意を表しつつ。


◆あわせて読む
きょうはコンゴ民主共和国独立記念日!
きのうはコンゴ民主共和国独立記念日!
おとといはコンゴ民主共和国独立記念日!
シネマアフリカ2013(3)~キューバのアフリカ遠征(コンゴ編)

コンゴ・カタンガ州(前編)
コンゴ・カタンガ州(後編)
コンゴのビール事情(5)~Brasimba


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