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ローラン・デジレ・カビラ~国家英雄を讃える日(1)、コンゴ民主共和国

2014-01-16 07:30:44 | アフリカ情勢
コンゴ民主共和国は非常に祝日が少ない国だ。その中で、1月は4日も記念日がある貴重な月だ。そして1月16日、17日は、コンゴの歴史にとって重要な記念日がふたつ並んだ日。

この記念日、いずれも国家英雄をたたえる日ということになっている。本日16日は、今の大統領、ジョセフ・カビラ・カマンゲの父、ローラン・デジレ・カビラ(L.D.カビラ)元大統領の記念日である。コンゴ人の中には「パパ・カビラ」と、親しみを込めて呼ぶ市民も多く存在する。

(大統領府にあるL.D.カビラ像)



彼の功績は、1997年、コンゴ東部から同国の解放戦線をスタート。モブツ大統領をモロッコに追いやり、32年間に渡る独裁に終止符。キンシャサに入城、同国を解放した。自ら大統領となり、ザイールの国名を廃止、もとの国名、コンゴ民主共和国に戻すとともに、国旗(※)、国歌をオリジナルに戻した。

(※コンゴ民主共和国国旗、左から現行のもの、L.D.カビラが定めたもの(独立当時の国旗)、モブツ独裁下のザイール時代のもの(労働党旗))



このキンシャサ入城、第一次コンゴ戦争といわれる。L.D.カビラは、1996年、ルワンダ、ウガンダの支援を受け、キンシャサに進軍、入城した(その背後には米英がいるといわれ、キンシャサへの前進には米軍が大きく支援に関わったといわれる)。なぜそういった国々がL.D.カビラを支援したのか?

第一に、コンゴ東部の資源である。ルワンダ、ウガンダはL.D.カビラ支援との引き換えに、この利権を要求したとされる。

第二に、英米の利権。コンゴの戦略的価値である。冷戦構造で温存されたモブツ体制。冷戦の終了後、米国にとってモブツは無用の長物となったばかりでなく、がたつくコンゴの機に乗じて影響力を拡大し、新たな影響力行使を目論んだといわれる。


この戦い、少し歴史を掘り下げてみていく必要がある。

1960年代以降、国際社会で冷戦が進行すると、アフリカもそのいずれかのブロックに深く組み込まれていく。コンゴは冷戦における資本主義ブロックの橋頭堡となった。

しかし当時、東西だけでなく、西の国の中でも水面下で、深く、熾烈なせめぎ合いが存在し、世界各地で冷戦が繰り広げられてきた。アングロサクソンとフランコフォンの戦い、言い換えれば英・米と仏・ベルギーのせめぎ合いだ。ンボテは「西西冷戦」と呼ぶ。


この戦いが中部アフリカで始まったのはウガンダ。当初は英国、そしてそのうち米国がここに深く関わっていく。「反政府勢力」に肩入れし、アミン政権、オボテ政権への反抗を繰り広げる。そして1986年にこの武装勢力が政権を転覆。その首謀者がヨゥエリ・ムセベニ、つまりウガンダの現大統領である。


ウガンダに次いで西西対立の戦場となったのが、ルワンダである。フツ系のハビャリマナ大統領を支援した仏。ウガンダのムセベニ率いる武装勢力と共闘関係にあったツチ系ルワンダ人。彼らは反乱軍(FPR)を組織、そしてこの反乱軍を指揮したのがポール・カガメ。つまりルワンダの現大統領である。英米はこれを支援した。

90年代初期にすでに混乱を迎えていたルワンダ。フツとツチの緊張。背後に控える仏と米英。こういった構造の中、94年にルワンダ大虐殺を迎える。混乱の後、ルワンダ政権はツチ化。背後にはもちろん米英がついている。


そしてこの西西戦争、主戦場がコンゴ東部に転移してくる。仏は最後までハビャリマナ政権、モブツ政権を支持した。


このような流れを見ていくと、当時、英米に支援されたウガンダ軍、ルワンダ軍がL.D.カビラを支援し、コンゴに攻め入ったという構造が理解いただけると思う。このコンテクストは非常に複雑で、こんなに単純ではないが、あえて簡略化すればこのような顛末だ。もっと知っておくべき複雑な背景があるが、それはまた追って別の記事でご紹介したい。


そのL.D.カビラ。コンゴの有史に登場するのは、それよりずっと前。コンゴ独立黎明期。彼は闘志としてコンゴ東部で共産主義革命を繰り広げる。1965年前後にはチェ・ゲバラとも共闘した。当時、革命闘争を繰り広げたL.D.カビラは、米国のCIAからもマークされていた人物であった。この歴史は、シネマアフリカ2013で上映された「キューバのアフリカ遠征(コンゴ編)」に詳しい。ゲバラが革命の現実とはほど遠い牧歌的なコンゴ人を見て、「コンゴ人に革命は無理」と言い放って国を後にしたエピソードは有名である。


ここでよく思い出して欲しい。冷戦構造の中、コンゴを資本主義の橋頭堡にしようと考え、モブツを担ぎ上げたのは誰か?自由主義、人権とは全く相容れない、アフリカ型社会主義、独裁政権を生み出し、この地に影響力と安定を確保したのは誰か?それは米国に他ならない。

そして90年代、米国にとって無用の長物となったモブツ体制。米国は、過去危険人物とマークを張っていたはずのL.D.カビラを担ぎ出して、過去自ら祭り上げたモブツを一掃する。何たる歴史のエゴイズムであろうか。米国のみではないが、そうやってコンゴの歴史は今日まで書き換えられてきた。少なくとも多くのコンゴ人にこの事実はつたわっていく。


さて、第一次コンゴ戦争はL.D.カビラのキンシャサ入城で幕を閉じた、つまり勝利に終わった。これを受け、ウガンダ、ルワンダからは当然の分け前を要求される。

自ら大統領に即位したL.D.カビラ。東部を両国に割譲するような決定をするわけにははいかなかった。結局交渉は決裂。ウガンダ、ルワンダはそれぞれコンゴ東部に軍事的に侵入。これに対しL.D.カビラはジンバブエ、ナミビア、アンゴラなどの支援を受け応戦。何十という武装勢力が、鉱山利権と陣地を巡って入り乱れた戦争となり、もはや誰が誰と戦っているのかもわからない内戦となる(第二次コンゴ戦争)。

その後、段階を追って停戦合意を重ね、コンゴは和平、民主化プロセスへの長い道を辿ってくが、道半ばの2001年のきょう、1月16日。L.D.カビラは暗殺に没した。この暗殺劇、謎が多く、未だに真相が解明されていない。

定説では彼の親衛隊であったラシディ・カセレカという男が主犯で、彼も射殺されたということになっているが、実際には違った首謀者がいるという話も耳にした。キンシャサの対岸、ブラザビルでは、そのまま権力を後継した彼の息子、現大統領のジョセフ・カビラが暗殺に関わったのだとの噂まで耳にしたことがある。真相はわからない。


内戦の傷跡と経済の低迷で人々の生活が困窮していた2000年代後半のキンシャサ。2006年に、ジョセフ・カビラ大統領が過半数を獲得し、正式に大統領に選ばれたとはいえ、西側のコンゴ人は彼に信任、支持を与えなかった。当時、人々の口からしばしば漏れた言葉は「パパ・カビラがコンゴの救世主だった」「パパ・カビラが生きていれば」というものだった。今はどうであろうか。


とにもかくにも、パパ・カビラ。コンゴの歴史に名を刻む、重要な存在でありつづけることは間違いない。


(大統領府にあるL.D.カビラ廟。冷凍安置されている。)



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