思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

教授と指導

2008-08-04 23:55:09 | 書籍引用
 創価学会は牧口初代会長以来、指導主義です。指導主義とは、結論していえば、ぜんぶ、御本尊を拝みなさい、御本尊を受持し、功徳をうけなさい、と御本尊を指さし、導いていくことに尽きるといえましょう。
 御本尊とはこういうものだ、仏とはこういうものだ、一念三千の法理とはこういうことだ、と説明し教えることのみであれば、教授主義である。それに対し、その人の幸福生活を確立し、納得させ、領解させることを第一義とした方法が、指導主義となる。指導主義のなかに”教授”もはいっていることは、とうぜんのことです。
 若い指導者が、壮年の人から、事業のことを相談された。自分には、皆目わからない。だから指導できないか。けっしてそうではない。その問題に明るい同志のところへ、いっしょに聞きに行く。これも立派な指導主義です。また、根本である信心の指導の中から自ら気付かせてゆくことができれば、立派な指導だといえましょう。
 一から十まで、ぜんぶ、自分が教授になって教える必要はありません。指導主義のほうが、ずっと価値がある。
 むずかしい質問があった場合”これは私にはわかりません。しかし、あの人はよく知っています。あの人は体験を持っているから、あの人にお聞きになって下さい”といっても、立派な指導といえます。指導主義は行き詰まりがありません。
 知ったかぶりの教授主義は行き詰まる。現在の社会の指導者の要領、虚栄、無責任等は、すべてごまかしにすぎない。
 指導主義の根底は、あくまで慈悲でなくてはならない。この指導主義の精神を忘れると、感情になったり、権威主義になったりしてしまう。指導主義を実行していくならば、効果的に価値的に、万人を向上、成長させていくことができるわけです。
 だからといって、ただ要領だけ使って”指導主義だ。ではあの本部長のところへ行ってこい。なんでも、あそこへ行って指導をうけなさい”という行き方は、指導主義をはきちがえた、無責任な態度となります。真の指導主義には、指導、教授、訓練、擁護、すべてが含まれているといえましょう。

《池田大作 著 指導集-質問に答えて- P.118~120》

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私は時折あちこちの掲示板を見たりするのだが、その中で「創価学会は指導主義だ」との言葉を見かけた。
それは間違いなくそうなのだが、それを書き込んだ方は「指導主義」を少々誤解なさっているようだった。

本来、「指導主義」とは「教授主義」の対比において使われる言葉であるように思う。
「指導を受けること」=「指導主義」ではない。
上記指導を読めば、判っていただけると思う。

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