思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

続・大石寺と重須について

2008-06-19 00:53:48 | 思索の断片
何故か証券会社の「日興」に関するトラックバックがあったが、気にしないで進めることにする。

前回は問題提起的な終わり方をしたが、今回はもう少し踏み込んでみたい。

日興上人が、戒壇御本尊を大石寺に残して重須に移られたことに対する違和感。
これに関しては、非常に暴力的だが納得する方法がある。

「戒壇御本尊は、その頃存在しなかった」と考えることである。

そうすれば、日興上人が特に未練もなく重須に移られたことが、不自然ではなくなるのだ。


そういえば、今回の事を調べているうちに新たに知ったことがある。

日目上人が「三世」となられた時期は、はっきりしない(1290年の「御座替本尊」の時か、1332年の「日興跡条条事」の時か)。
もし仮に1332年だったとすると、日目上人は1年しか「三世」をなさっていないということになる。しかもその時、既に日目上人は73歳の御高齢である。血脈を護るという観点からいって、どうも不自然な気がする。

では、1290年の「御座替本尊」の時であろうか。
そうすると、今度は「本六」の制定と矛盾するように思う。
日興上人が「本六」を定められたのは、1298年。
とすると、「法の内付」をして法燈を継ぐことが決定している日目上人を、8年後に「本六の一人」として定めたことになる。
これはいくら何でも不自然ではないだろうか。

年代を追っていくと、このようになる(判りやすくするために西暦で記す)。

1290年「御座替本尊」…日興上人45歳、日目上人31歳。
1298年「日興上人、本六を定める」…日興上人53歳、日目上人39歳。
1332年「日興上人、新六を定める」…日興上人87歳、日目上人73歳、日道上人50歳。
1332年11月「日興跡条条事」…日興上人87歳、日目上人73歳、日道上人50歳。
1333年2月「日興上人御遷化」…日興上人88歳、日目上人74歳、日道上人51歳。
1333年11月「日目上人御遷化」…日目上人74歳、日道上人51歳。
1341年「日道上人御遷化」…日道上人59歳。

このあたりも、もう少し研究する必要があると言えるだろう。

大石寺と重須について

2008-06-16 01:18:33 | 思索の断片
*注意:以下に記すことは全く個人的な見解であり、創価学会とは一切関係が無いことを明記しておきます。*

さて、タイトルには「大石寺と重須」とあるが、ある意味象徴的な意味合いである。

私には、かねてよりある疑問があった。
身延離山後、富士に大石寺を創建された日興上人が「何故重須に移られたのか」である。
大石寺には「御座替本尊」という御本尊があるそうだ。その御本尊が書写されたのは正応3年10月13日。大石寺に大坊が建立された年である。
この時に日目上人に相承(内付?)があったそうである。
それから4年(もしくは8年)後、日興上人は重須に移られる。

ここで疑問がある。

日興上人といえば、「常随給仕」という言葉が浮かぶ。
日蓮大聖人のお側に常にあられ、御給仕されていた。これが前提1。

大石寺には、身延から移された「本門戒壇の大御本尊」(以下「戒壇御本尊」と記す)がある。これが前提2。

大石寺僧俗は、「戒壇御本尊を日蓮大聖人と拝する」という。これが前提3。

…違和感があるのだ。
前提3をもってすると、「日興上人は戒壇御本尊を日蓮大聖人と拝して」いたはず。
すると前提1のごとく「日興上人は戒壇御本尊に常随給仕されていた」と考えてよいだろう。

では何故日興上人は、大石寺から2kmも離れ常随給仕が出来なくなる重須に移られたのか。
重須に移られてから御遷化なさるまで35年の長きにわたる間、である。

戒壇御本尊を身延から大石寺に移された日興上人は、戒壇御本尊の重要性を認識なさっていたはず。何が何でも護り抜かなければならない御本尊のはずである。
それを弟子に任せきりにして、御自分は35年間、重須にて弟子の薫育をなさっていた…というのが、どうしても理解できない。弟子の薫育であれば、大石寺でも可能なはずだ。

このあたり、どなたか教えていただけるといいのだが…。