思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

宗教界の王者

2011-10-09 09:04:02 | 書籍引用
 いま、その、御本尊様より、票のほうがよく見える年なのです。一票二票とはいる、それがなんだかありがたく見える年なのです。それは見させておいてあげなさい。
 同じ岸系といっても、いろいろある。ここらでへたくそに立った代議士の応援などやらないように。私は宗教団体の王様なのであり、岸先生は政治団体の王様なのです。立場が違うだけです。ただ人間を理解しあえばいいのです。

 《戸田城聖全集 第4巻 p.599》

…………………………

 昭和33年の「3.16広宣流布記念式典」において、戸田先生が「創価学会は宗教界の王者である」と宣言された、と習った方は大勢いらっしゃることと思う。

 しかし驚いたことに、戸田先生がそのように仰った部分は、書籍では存在しない。いちばん近いと思われるところが、上記引用箇所である。 読んでいただければ判るように、これはご自身のことを言われているのであり、創価学会のことを仰ってはいないのである。
 全文を読んでも、主に岸総理(当時)のことを様々に語られており、「創価学会は宗教界の王者」との趣旨は出てこない。

 だが、この講演のタイトルは「宗教界の王者」となっている。これは一体どうなっているのだろうか。

 考えられる可能性としては、次の2点が挙げられる。

 1.そのような発言はなかったが、戸田先生としてはそういうことを話されるつもりであった。
 2.発言自体はあったが、昭和59年発行の本であり宗門との摩擦を防ぐ意味で削除された。

 いずれにせよ、「創価学会の歴史」の検証は必要なことなのかもしれない。

矢島氏の退転・非退転

2011-10-03 23:03:07 | 思索の断片
 大変長期にわたって更新が滞ってしまい、ご覧いただいている方々には弁解のしようもございません。
 また、これからもこのような状態が起こる可能性もありますので、そのつもりで見ていただけるとありがたく思います。

 ちなみに1級試験を受けていたためではありませんので、念のため。

       *************

 さて、7月の終わり頃のことになるが、矢島周平氏の退転について「御意見番」さんよりご意見をいただいた。
 さらに様々な角度から検証を行われ、根拠を示していただいた。
 ただ、申し訳ない話だが、そのことによって私は「矢島氏非退転」の確証を得たように感じたのである。

 まず大前提となる「非退転」という言葉だが、整理する意味でその内容を確認しておきたい。
 私が「矢島氏非退転」というとき、それは「非転向」を指す。
 どういうことかというと、戦時中に思想犯として逮捕された人々は、その思想を捨てることを条件として釈放される。つまり「思想を捨てる」ことを「転向」というのである。
 創価学会(正確には創価教育学会)において「転向」とは、「棄教」のことになる。
 
 ①人数の数え方が矢島氏退転の根拠とならないことについて

 ここで、7/31の御意見番さんのコメントを引用する。

 『大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、二十一名のうち十九名までが退転したのである。
 会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである。いかに正法を信ずることは、難いものであろうか。』

 これは、どのように読んでも「矢島氏非転向」を示していると思われる。確かに計算は合わないが、転向してしまった者を「踏みとどまった」と表現されることはないと思うからである。

 続いて、8/6のコメントより引用する。 

 『そのときの同志、幹部十九名、ことごとく退転して、退転しなかったのは、この私一人であります。』

 コメントにはないが、このあとはこう続く。

 「そのうちの二人はさておき、あとの十六名は、いまは見るかげもない生活です。次の日の生活にすら困り、借金は山とできて、じつに、私の前へは、一人として出てくる勇気もないのであります。」

 すると、妙なことになる。
 19名の幹部が退転した。そのうち2人はともかく16人は…と続くのだが、2+16は18だからまたもや計算が合わないのである。
 さらには、同じ戸田城聖全集第4巻283ページには、こういう記述もある。

 「投獄されたのは、幹部一同、幹部のみが十九人、その他を入れて二十数人であります。」

 以上のことから判るように、人数と計算が一定しないのである。
 そこから出てくる結論は、《21-19=2だから、その2は牧口先生と戸田先生》という論法は成立しないということだ。
 となると、数字を根拠にして「矢島周平も退転(転向)していた」と証明するのは不可能ということになる。

 ②文章をそのまま読むことについて

 さらには、御意見番さんの8/7のコメントにはこうある。
 最初に戸田先生の文章を引用されている。

 『「そのほかの幹部は、一人となく退転し、強く広宣流布を誓った自分ながら、空爆のあとの焼け野原に立って孤独を感ずるのみであった。いま、蘇生した矢島周平君ですら、手のほどこすところなく、病めるウサギのごとく穴居しているのであった。」
すなわち、「そのほかの幹部は、一人となく退転し」の文脈で「矢島周平君ですら」となっていることや、「「手のほどこすところなく、病めるウサギのごとく穴居しているのであった」と示されていた矢島の姿と考え合わせると、まさしく、この文章は「矢島も退転者」の文証と解する以外のなにものでもないわけです。』

 この部分を「矢島も退転者」と読むことができる御意見番さんが、「会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである」と明確に書かれている部分をどうしてそのまま読まないのだろうか。私には不思議に思える。
 
 さらに、8/15の御意見番さんのコメントを引用する。
 最初の部分は、池田先生の書かれたものを引用されている。

 『「戸田先生が出獄した時も、辛うじて退転せずにいた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという。
 大聖人は「おご(傲)れる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり(御書九五七ページ)と仰せである。
 傲慢、虚勢、見栄っ張りは、大難に遭うや無様な姿をさらけ出すのが常である。
 ゆえに、戸田先生は、弟子たちに厳しく言われた。
 「傲慢になるな。裏切り者になるな。また、裏切り者は断じて許すな!」
 先生は、出獄するや、自分が逮捕されてから、誰が、いかなる態度、行動をとったかを、克明に奥様に聞かれたという。
 峻厳な先生であられた。
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特に
「戸田先生が出獄した時も、辛うじて退転せずにいた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという。」
ここは、「歴史と確信」に記述されていた矢島周平の有様に、用語・内容とも一致してますよね。
あ、「辛うじて退転せずにいた」を「非退転」と解釈するのは無理でしょうし』

 ここでも「辛うじて退転せずにいた」を「非退転」と読まないとのこと。普通に読めば非退転としか読めないのだが。

 では、ここで池田先生が言われている「戸田先生が出獄した時も、辛うじて退転せずにいた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという。」とはどういうことなのか。

 推測になるが、ここでのヒントは「矢島氏の出獄が4月である」ということだと思う。
 つまり、補足して書き直せば「戸田先生が7月に出獄した時も、辛うじて退転せずに4月に出獄していた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという(学会の再建を目指して立ち上がってはいなかった)。」という解釈が妥当なのではないだろうか。

 すると、この元となった戸田先生の文章も同じ解釈が成り立つ。そのゆえに、やはり矢島氏は獄中では退転していないと思われるのである。牧口先生・戸田先生の非退転と同列でないにせよ、非退転には変わりないのである。

 ③結語

 以上、御意見番さんのご意見を批判するような形になってしまい申し訳なく思うが、私はやはり矢島氏は獄中で退転していないと結論付けたい。
 
 ただ、これはあくまで「事実関係」のことであり、大事なのは「それをどのように教訓とするのか」ということだと思う。
 私の意見は2009年3月3日付け「矢島問題の教訓」で書いた。ご一読いただきたい。
 そのコメント欄に、御意見番さんの精査なさった内容が書き込まれているので、そちらもご覧いただくとよく判るかと思う。