思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

私見・開目抄

2019-09-06 22:27:15 | 思索の断片
 まさかの3年振りの更新である…。

 
 
 故あって開目抄を学び直しているのだが、その中で思ったことを書き留めておきたいと思う。

 佐渡期の代表的な御書として開目抄と観心本尊抄が挙げられるが、この2編は日蓮大聖人が自ら題号を名づけられたものである。
 最近、創価学会では触れられなくなったが、それぞれ人本尊開顕の書と法本尊開顕の書と呼ばれていた。
 この両書を顕わされた理由について、思うところをまとめておきたい。

 思うに、この両書は佐渡期に御本尊を御図顕されたことと深く関わりがあると思われる。

 それまで「本尊」といえば、仏像であった。それが、ある意味で突然「文字で顕わされた曼荼羅」になるのである。
 当然、門下に疑念や動揺が起こるであろう。
 その疑念にあらかじめ答えられたものが、開目抄と観心本尊抄なのだと思う。

 開目抄では、「何故(もしくはどのような資格をもって)日蓮が本尊となるものを顕わしたのか」という事が語られ、観心本尊抄では「何故その文字曼荼羅が本尊として成立するのか」、そして「何故その本尊に唱題をすれば果報を得ることができるのか」が語られると言える。
 そうして門下の機根を整える必要があったと考えれば、佐渡流罪の早い時期に両書を顕わして鎌倉の門下に届けられたことにも納得がいく。

 既に何方かが主張されていることかもしれないが、個人的に思い至った結論だったので書き記しておきたい。

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