思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

戦い終えて

2009-08-31 23:20:51 | 書籍引用
 去るものは去り、残ったものは戸田を信じて、ぎりぎりの努力を傾け、事ここにいたったのである。戦いに悔いはなかったが、敗れた事実に、限りなく無念の思いが、こみあげてきた。沈痛な戸田から視線をそらし、一同はただ耳を澄ましていた。
 「いま、僕は経済戦で敗れたが、断じてこの世で、負けたのではない。信心では少しも敗れていない。この五尺の身を広宣流布の大願に叩きつける覚悟は、いまも、これからも微動だにしていないことを、信じてもらって差しつかえない。大聖人様の仏法が敗れないかぎり、戸田は信心では絶対に敗れることはないのです」

 《人間革命 第四巻 「怒濤」 文庫本p.219》

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 戸田城聖は輾転反側(てんてんはんそく)して深い想いに沈んだ。彼はわが胸を掌でなでながら、会長に就任して以来の五年間を遡行して考えた。彼の考えた作戦や展開は、たとえどんな困難にあっても乗り越えて、ことごとく的を射り、完璧なまでに成功してきた。このたびの世間の風の中での作戦も、側近の首脳幹部たちは、いろいろの障害があったものの、同じく成功するものと楽観しているに違いない。すべては、九日の正午ごろに大勢は判明するだろうが、おそらく彼らははじめての挫折を知って驚愕するだろう。
 広宣流布もいよいよ険しい道にさしかかったものだと、ひしひしと彼は身にこたえた。哀感に沈んだのでも、まして絶望に襲われたのでもない。険しい山の絶壁が、彼の眼前に聳(そび)えたっているのを直視したのである。彼は己心にその山をまざまざと見た瞬間、一首の和歌にわが心を託し、愛すべき全会員の一人ひとりに呼びかけた。

    いやまして険しき山にかかりけり
      広布の旅に心してゆけ

戸田城聖は、遠い未来の幾山河にいつまでも思いを馳せていた。時計は深夜の丑の刻、二時を指していた。つまり、昭和三十一年七月九日の午前二時である。

《人間革命 第十巻 「険路」 文庫本p.280》

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 人生行路にあって
 かりに 不運にも
 姿は敗れることがあったとしても
 信心の二字だけは
 決して敗れてはならない
 信心の二字が不撓であるならば
 いつの日か必ずや
 その人には
 勝利の満足の証が待っている
 その証は
 社会の中に厳然として
 明確に証明されるのが
 事の仏法であるからだ

《青年よ二十一世紀の広布の山を登れ》

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 我が使命を全うするのみ。


「そんな人だとは思わなかった」

2009-08-13 01:27:54 | 思索の断片
 これは、私が嫌う言葉の一つである。
 
 世間ではよく聞く言葉であり、一見正論のようであり、発言者が「被害者」であるように思える。
 しかし、本当にそうだろうか。

 この言葉をもう少し詳細にいえば、「私はあなたのことを、そんな人だとは思わなかった」となる。つまり、相手のことを「そんな人だとは思わなかった」のは、他の誰でもない、自分自身なのだ。
 自身の先入観や思い込み、観察不足による誤認などが重なった末に構築された「相手」の姿と、その相手のありのままの姿が違っていたからといって、それを非難することが、はたして正しいのだろうか。

 私は、そこで相手を非難することは道理に反すると思っている。

 自分自身の能力の不足によって、相手を誤解していたのである。その責は自身に帰せられるのが当然なのではないだろうか。
 それを、相手が「自分の想像(イメージ)と違った」からといって相手を責めるのは、ある意味で傲慢といってよいと思う。そのような自己中心性は、自省という行為を忘れ、やがては「自分は間違っていない。間違っているのは相手のほうだ」という攻撃性を持つに至る。
 我々がなすべきなのは「相手をありのままに見る」ということであり、「ありのままの相手を受け入れる」ということなのではないだろうか。

 ただし、相手が何らかの間違いを犯しているときは、そのことについて指摘するのは当然である。

改革者として

2009-08-05 23:19:13 | 書籍引用
 日本には「和をもって貴し」のような、周囲への気配りを欠かさない良さもあります。でも、「和」を大事にしながらの改革は絶対に無理だということです。
 「みんなが賛成」で変えられることはほとんどないんですね。「思い切ってやったらどうだ」というのが、10人のうち1人か2人はいるかもしれないけど、7、8人は、「特に困ってはいないのだから、これでいいじゃないか」と言う。
 シンクロナイズドスイミングのコーチの井村雅代さんが「私は人に好かれたくない。好かれたくないと割り切っているから、言うべきこともはっきり言えるし、思い切った行動ができる」とインタビューで語っていましたが、ほとんどの人は八方美人になってしまう。
 私は大きな反対があった時でも、「これをやることが世のため、人のためになる」という強い確信があったから、今日までやってこられました。もし私利私欲があれば、思い切ってできなかったと思います。

《聖教新聞 2009年8月4日付第8面 『日本サッカー協会名誉会長 川淵三郎さんに聞く』より抜粋》

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 私がやっていること、やろうとしていることに対して、激励を受けたような思いである。
 特に「和を大事にしながらの改革は絶対に無理」とのくだりに深く頷いた。

 未来のために組織を少しでも良くしたいとの志は、失っていないつもりである。
 これよりは、さらなる組織改革を目指して戦っていきたい。