王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず(撰時抄)
有名な御文である。
2009年に第三文明社から発行された「御書をひもとく」にも収録されているが、私はその通解に以前から疑問を持っている。
同書の通解には、以下のように書かれている。
『王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられているようであっても、心まで従えられているのではない。』
しかし、この通解では違和感がある。
この御文は「平左衛門尉に対しての日蓮の言葉」であるから、本来なら『王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられなさっているようであっても、心まで従えられなさってはなりません』となるべきではないだろうか。
会合や指導などで引用される御文は、どうしても扇動的な性格を帯びる。それがいつしか、本来の意味をはずれた理解のもとに「大聖人がこう仰っている」という引用をされるとなると、それはもはや「大聖人利用」になってしまう。
我々が真になすべきは、「日蓮仏法」「創価思想」とは何かを突き詰めていくことであり、体現していくことであるといえる。そのために大事なことは「誰かの解釈を鵜呑みにする」ことではなく、それを自分自身が納得できるまで突き詰めていくことではないだろうか。
それを忘れたとき、人は「自己責任」を放棄し始めるのだと思う。
有名な御文である。
2009年に第三文明社から発行された「御書をひもとく」にも収録されているが、私はその通解に以前から疑問を持っている。
同書の通解には、以下のように書かれている。
『王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられているようであっても、心まで従えられているのではない。』
しかし、この通解では違和感がある。
この御文は「平左衛門尉に対しての日蓮の言葉」であるから、本来なら『王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられなさっているようであっても、心まで従えられなさってはなりません』となるべきではないだろうか。
会合や指導などで引用される御文は、どうしても扇動的な性格を帯びる。それがいつしか、本来の意味をはずれた理解のもとに「大聖人がこう仰っている」という引用をされるとなると、それはもはや「大聖人利用」になってしまう。
我々が真になすべきは、「日蓮仏法」「創価思想」とは何かを突き詰めていくことであり、体現していくことであるといえる。そのために大事なことは「誰かの解釈を鵜呑みにする」ことではなく、それを自分自身が納得できるまで突き詰めていくことではないだろうか。
それを忘れたとき、人は「自己責任」を放棄し始めるのだと思う。
この記事をキッカケに、ブログを拝見させて頂きました。
まず先に、今回のこの御書の一節に関して、目からウロコでした。
多角的に物事を見る事が大切だという、大聖人をはじめ、三大会長の指導を心がけていたつもりでしたが、「つもり」になっていた自分に気付かせて頂きました。
ありがとうございました。
那由他楽人さんが書かれている内容に深く同意する記事もあり、またおそらく同じぐらいの世代の方だろうという事もあって、コメントせずにいられず、筆ならぬキーを打った(執った?笑)次第です。
「一人の為に」という想いを大切に、忘れずに、今のライフワークを続けていけるよう、頑張っていきたいです。
また遊びに来ます!