これは、太田入道殿御返事の末文に出てくる言葉である。
『書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん』(p.1012)
ところで今日、図書館で見ていた本に同じような表現が載っていて驚いた。
《子曰く「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」と。》(易経)
「意」と「心」の違いはあるが、ほぼ同じだといってよいと思う。
Soka netの御書検索で見てみると、他にも「建長寺道隆への御状」「多宝寺への御状」「強仁状御返事」でも同様の表現が見られる(使われている意図は異なるが)。
ちなみにいずれも、「心」となっている。
日蓮大聖人御在世には、すでに「易経」も日本に入ってきているはずなので、特に不思議な話ではない。
ただ、ふと思ったのは、大聖人の御書の中には『「出典元」が存在する表現』が、意外と多く含まれているのではないか、ということである。
そういうものを見つけるのも、また興味深いものだ。
『書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん』(p.1012)
ところで今日、図書館で見ていた本に同じような表現が載っていて驚いた。
《子曰く「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」と。》(易経)
「意」と「心」の違いはあるが、ほぼ同じだといってよいと思う。
Soka netの御書検索で見てみると、他にも「建長寺道隆への御状」「多宝寺への御状」「強仁状御返事」でも同様の表現が見られる(使われている意図は異なるが)。
ちなみにいずれも、「心」となっている。
日蓮大聖人御在世には、すでに「易経」も日本に入ってきているはずなので、特に不思議な話ではない。
ただ、ふと思ったのは、大聖人の御書の中には『「出典元」が存在する表現』が、意外と多く含まれているのではないか、ということである。
そういうものを見つけるのも、また興味深いものだ。
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