思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

沖浦氏の説を譬えてみる

2008-10-26 21:13:54 | 思索の断片
さて、前回に引き続き沖浦氏の説について述べたい。

今回は、沖浦氏の「曼荼羅」と「衆生」についての論を、「魚釣り」に置き換えてみようと思う。
なお、今回も意味不明の部分が出てくるかもしれないが、どうかご了承願いたい。

******

魚釣りですか?
釣竿は迹、釣り人が本ですね。

釣竿というのは、今から750年程前に漁師の息子が発明したものです。
すごい発明です。世界最高の発明でしょう。

しかし、釣り人がいなければ釣れないんです。
ですから、釣竿は迹ですね。

え?「釣竿が迹」は違うというんですか?
あなた相当おかしいですね。
いいですか。釣竿だけあっても魚は釣れませんよね?
釣り人がいなくてはなりません。
ですから、釣り人が本。

最近読んだ本に、外国の方々の体験が載っていました。
その人達は、釣竿を知りません。
でも魚を取ることが出来たんです。
釣竿がなくても魚を取ることが出来た。
釣竿が迹の証明でしょう。

******

さて、沖浦さんには失礼ながら、魚釣りに譬えさせてもらった。

一見すると正論に思えるかもしれない。
この話の中に潜んでいる「異質さ」に気付くかどうかが、実は非常に重要なのではないかと思っている。

沖浦氏との「対話」

2008-10-25 03:11:46 | 思索の断片
*今回の記事は、ある掲示板での出来事をまとめたものです。その掲示板のことを知らなかったり、興味のない方には意味不明な部分が出てくることと思いますが、どうかご了承ください。*


ここをご覧の方はおそらくご存知だと思われるが、創価学会員に沖浦さんという人がいる。
氏はネットで実名を公表し、様々な体験や構想を語り、その強烈な個性で多くの学会員に支持を受けてきた。

その沖浦氏であるが、最近あちこちの掲示板で学会員と「衝突」し始めた。

その理由としては様々なものがあるが、いくつかの点について私も掲示板上ではあるが氏と直接やり取りをし、「対話」をしようと試みた。

しかし、結果としては対話にならず、平行線のまま打ち切られたような状態となっている。

別の掲示板で起こったことであり、それをブログにまとめる事については少々躊躇する部分もあったが、はっきりと記録として残しておく意味からも掲載することにした。

なお、私は直接言葉を(文字を?)交わした立場なので、私の主観が入り込むことは避けられない。その点はご了承いただきたい。

【経緯】

事の起こりは、沖浦氏が「一大秘法は本門の題目と習った」と言い始めたことに起因する。
そこから様々な変転を経て、沖浦氏は「曼荼羅(註:日蓮大聖人御図顕の文字曼荼羅)が迹で、衆生が本」と、「曼荼羅」と「衆生」を『本迹』で立て分けはじめた。

それについて、異論が噴出。
ところが氏は、「曼荼羅が迹で衆生が本」に対して異議を唱えた人々に対し、「あの人達は曼荼羅が本で衆生が迹だと主張している」と規定。

私がそれに対して、異議を申し立てたところからやり取りが始まった。

【沖浦氏の立場】

まず、推測となるが沖浦氏の「位置」について言及しておきたい。
沖浦氏は「戒壇御本尊は日蓮大聖人出世の本懐ではない」という主張である。
それに伴い、おそらく「物質」ではなく「衆生」こそが大事だということを訴えたいのだと理解している。

その故に、上記のような説を唱えるに至ったのだと思う。

それは理解できるのだが、それにしてもあまりにも際どい説なのである。

【「対話」の展開】

(★=私、☆=沖浦氏の発言。それぞれ要旨)

★『誰か「衆生は迹」と言った人はいるのか?』

それに対して氏は

☆『ご自分で調べてください』
 『あらゆることに本迹勝劣があり、対立した概念は本迹に立て分けられる』と主張。

私が

★『私が調べた限りではそのような発言はなかった』
 『それと、曼荼羅と衆生は対立した概念でしょうか?』と問うと、

☆『対立した概念ではない。しかし、どちらが本でどちらが迹かと問えば対立する。』との返事。
さらに後の書き込みで、私はどう思うのかを問われる。

★『本迹で立て分けることは不適切』とし、その理由としては
 『本迹は対立した概念に対して用いるもので、対立した概念ではない曼荼羅と衆生に対して用いるのは不適切』と主張。

☆『では、この件は平行線ですね』と言われる。

【私的解説】

まず、これは掲示板でも指摘したが、批判があったのは「曼荼羅が迹」に対してであり、「衆生が本」に関しては問題視した人はいなかった。
しかし沖浦氏は「曼荼羅が迹」の否定を「曼荼羅が本」、そして即ち「衆生が迹」と認識したのである。

しかし、これは否定の論理に反している。

記号に置き換えるとよく判る。
「A=BでC=D」である時、「A=B」を否定してもそれが即ち「C=B」とはならない。何故なら、「A=B」の否定はAとBにのみ影響するからである。

さらには、私が「本迹で立て分けるのは不適切」とした理由。

読んでいただければ判る通り、その「理由」は沖浦氏の言葉をそのまま使っている。
しかし、氏はそれに対して「平行線」だと言ったのだ。
これは取りも直さず、沖浦氏が自分の意見に対して「平行線だ」と言ったことになる。

また、この論理もおかしい。

『対立した概念には本迹がある』
『曼荼羅と衆生は対立した概念ではない』
『だが、対立させることが出来る』
『どちらが本でどちらが迹かを問えば対立する』

そもそも対立した概念ではない「曼荼羅」と「衆生」を、わざわざ対立させる必要など、まったくない。
もし必要があるとすれば、それは沖浦氏が自説を貫くためだけである。

【結論】

沖浦氏も認めている通り、曼荼羅と衆生を「本迹」で立て分けるのは不適切なことなのである。

氏は現在も、様々なところで自説を繰り返し主張している。
しかし、論理的に言って氏の主張は根拠を失っているのである。

ここをご覧の皆様に、このことをよくご理解いただきたい。

なお、反論や質問などがあれば、コメント欄へどうぞ。

10/29追記:この記事をご覧になった「恋さん」より、『創価仏法研鑽掲示板(http://jbbs.livedoor.jp/study/3764)』にて教学的な面についてご意見をいただきました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3764/1223375717/360
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3764/1223375717/361

併せてご覧いただければと思います。

共同事業について(戸田城聖先生質問会集)

2008-10-16 01:41:45 | 書籍引用
註:以下の引用テキストには誤字が含まれていますが、原文のままです。

【問13】信心している者同志が、共同事業をしてはいけないといわれましたが、広宣流布の時になると、同志ばかりになってしまう。その時には、商売はみな共同事業になりはしないでしょうか。

【答】そういう理論は別にして、この共同事業というのは、初代の会長牧口先生が、よく私にいわれました。損をしたときに、その損をなすりつけ合い、もうかった時には、余分にとりたがる、かならず畜生根性があらわれると、よく話しておられました。
 ですから共同事業をやって、もうかると、自分がほしくなるし、損すると、あのヤロウが悪いのだからと押しつけようとするのです。そして、かならず仲間がこわれます。まあ、会社のような形に変わった共同事業は別にしましても、いままでの個人の共同事業というものは、かならずおたがいになすりあう。
 これが実にみっともないのです。これはその人の幸福にもならないから、共同事業などはせずに、自分で力を出してやるように教えておいたのです。だが、共同事業をやっても、そんなことがないとなったら、やってもいいのです。ただ、やってもいいというと、おれも共同事業をやろうなどと、ロクなことをやり出しかねない。弱い人は、みなだまっていて、だまされた人は、あとでブーブーいう。ですから共同事業はやるなと、こういったのです。これは一応のたてまえです。
 再応は、美しい心のある人間が、ほんとうにそんなことをしないという友だちがいて、いざやるというなら、やってもいいのです。成功してごらんなさい。ただ原理は、損をすればなすりつける得をすれば取りたがる、という人間根性のあるうちは、まずやらないほうが無難だろうと、こう教えたのです。「やるな」などという法律はこしらえていません。学会には、そんな法律などありません。

《戸田城聖先生 質問会集 p.207~》

…………………………

先日、質問会集を読んでいたら、共同事業について戸田先生が質問に回答されている部分があったので、それを転載した。

ここで、一言。

この戸田先生の回答を読んで、「ほら、戸田先生は共同事業をやってもいいと仰っているじゃないか」と思った方。
あなたは絶対に「共同事業をするべきではない」と断言しておく。

掲示板と私

2008-10-14 00:27:40 | 思索の断片
ここをご覧の方はご存知の方も多いと思うが、私はいくつかの学会系の掲示板で書き込みを行っている。
どちらかというと生来議論好きの私であるから、つい議論のできる掲示板を読み、時には未熟ながらも意見を書き込ませてもらったりしている。

ところで、私はこの数ヶ月で、2箇所の掲示板を後にした。
経緯を話せば長くなってしまうので略させていただくが、至極簡単に理由をいえば『身の程を知った』ということになる。
あるいは、『限界を知った』ともいえる。

これは何に対しても言えることだと思うが、人間は「自分自身」というフィルターを通して「ものごと」を理解する。
芥川龍之介の『藪の中』ではないが、見る観点が違うことによって「ひとつの事実」が様々な解釈を生み、影響を及ぼす。
その「フィルター」が違うと、他人の発言を発言者の意図と違うように解釈してしまうのだろう。

それはもちろん自分自身にもいえる事で、私が発言者の意図した通りに理解をしているかどうかは、甚だ心許ないと言わざるを得ない。

その中で、意思を伝え合うことが出来なかった、というのが『身の程を知った』『限界を知った』ということになる。

そんなわけでその掲示板への参加をやめることにしたのである。
今の私では、力量が不足しているのだと思ったのだ。

もっと御書を拝し、指導を拝して自己を磨いていきたい。
これが現在の偽らざる心境である。

依法不依人

2008-10-04 01:03:43 | 思索の断片
先日のブログにも書いた「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」だが、ふと気付いたことがある。

これはつまり、「あの人が言うことだから正しい」「あの人が言うことなんて間違っている」という態度を戒められたものと言えないだろうか。

我々は人間であり、当然好みというものもある。
しかし、ものごとを「好き嫌い」で判断してしまっては、結局自分が不幸になる。
好きなものばかり食べて嫌いな野菜を食べなければ、いずれ栄養バランスが片寄って体調を崩すことになる。
それと同じなのではないだろうか。

大事なのは、「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」である。
心得違いをしないように、自身を戒めていきたい。