思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

「慈悲」について

2009-03-30 00:39:20 | 思索の断片
 「慈悲」という言葉がある。
 よく聞く(見る)言葉であるが、仏教哲学大辞典(第三版)ではどうなっているのだろうと思い、読んでみた。

 詳しくはきちんと読んでいただいたほうがよいと思うが、それによると、そもそもサンスクリット語では「慈」と「悲」は別物で、「抜苦」と「与楽」の意味があるそうだ(大智度論と涅槃経では解釈が入れ替わるようだが)。他にも「慈悲観」「慈悲魔」という言葉もあるが、どうも私が思っているイメージとは少々違うようだ。
 
 私は、「慈悲」と聞くとつい「神様」を連想してしまう。キリスト教徒だった時代などないにもかかわらず、どうも「全てを受け入れて抱擁する」的なイメージが抜けきらないのである。
 他にも、時代劇などでは「お情け」的な意味で使われることが多いように思う。

 では、日蓮仏法的にはどうなのだろうか。

 池田先生は、日蓮大聖人の「慈悲」について、『厳父の如き』と表現されている。
 つまり、やさしく抱擁するというのではなく、相手のためを思って厳しさをもって為す、ということであろう。
 その意味では、創価学会の三代会長も同じであると思う。
 池田先生は、時に非常に厳しい指導をなさるときがある。「厳しく叱られた」ということに囚われてしまい、叱られたほうが逆に恨みに思うこともあろう(そうして反逆していった人の、なんと多いことか)。

 しかし、大事なのはそれが「何のため」であったか、なのである。
 
 ネットは文字のみで会話するため、細かいニュアンスが伝わりにくいものである。だからこそ、受け手の側に「相手の気持ちを理解しようとする姿勢」が必要なのではないだろうか。
 その自分の努力をせずに、厳しいことをいう相手に対して「あなたは慈悲がない」などというのは、残念ながら少々浅はかであると言わざるを得ないし、「慈悲」という言葉を根本的に勘違いしているのではないかと思う。

 『慈無くして詐り親しむは、是れ彼の人が怨なり。彼が為に悪を除くは、即ち是れ彼が親なり』

「副会長制」の開始

2009-03-28 04:28:19 | 書籍引用
 皆さんも、すでにご存知のように、副会長制がしかれました。昨年の秋から、何回となく最高幹部のあいだで検討され、審議されてまいりました。そして、一月二日、初登山の際に発表になったわけであります。北条、森田、秋谷の三氏が副会長に就任しました。互選であります。

(中略)

 また十年前と現在、また現在と十年後とが、同じではしようがない。全部、変化に次ぐ変化です。それに対応していかなければなりません。
 したがって、この三人の副会長を中枢にして、なかんずく北条副会長を中心として、さらに和泉理事長、辻総務室長を加えた五人で団結して進んでまいることになりました。
 実際の活動は、北条副会長を中心として、団結も堅く前進していってください。私は一九八○年代、一九九○年代のために、「人間革命」の執筆と人材の育成を全魂込めて進めていきます。

《池田会長講演集 第二巻 P.163~165》

…………………………

 昭和45年1月25日、日大講堂で行われた第122回1月度本部幹部会でのご指導。
 この年の5.3で、池田先生は会長就任10周年を迎えられるわけだが、この頃には既に「次」のことを意識なさっているように思える。
 

矢島問題の教訓

2009-03-03 00:22:15 | 思索の断片
 さて、本題。

 前回の投稿で、二冊の本より文中に「矢島」という言葉が出てくる部分を抜粋してみた。ほぼこれで全部のはずである。
 なお、念のため記しておくと、『戸田城聖伝』は1997年10月30日、第三文明社より発刊。
 『革命の大河』は1975年11月18日発行で、所持しているのは1976年4月15日の第8刷。聖教新聞社から出版されている。

 お気づきかと思うが、どちらの本も矢島氏が理事長になった辺りまでしか、矢島氏に関する記述はない。それ以降、全く名前が出てこなくなるのである。
 これは何を意味するのだろうか。

 あくまでも推測であるが、矢島氏の「本性」が明らかとなってきたのは、その「理事長就任」辺りからなのではないだろうか。

 矢島氏は、牧口先生に折伏されている。
 そして早い段階から幹事となり、理事となっている――つまり、学会の草創期から中心軸近くにいたのである。
 それらがいつしかプライドとなり、戸田先生とともに学会を支えながらも何かを取り違え始めたのではないかと思う。
 そこに戸田先生の理事長辞任、矢島氏への後任指名があった。
 それを矢島氏が、「自分が中心者となる」と捉えたのではないだろうか。
 あとは、想像に難くないだろう。

 これは要するに、権力の魔性に信心を食い破られた話なのだ。

 戦時中の軍部による弾圧にも屈せず、退転することなく出獄し、戦後は戸田理事長とともに学会再建の戦いを起こしていた矢島氏。
 そんな人でさえ、「己心の魔」を打ち破ることはできなかった。
 理事長となり、周囲から「理事長」と呼ばれ、いつしかその権力の魔性に魅入られ、自身が魔に破られてしまっていたことにさえ気づかなかったのではないだろうか。

 あくまでも想像であるが、私にはそのように思えるのだ。

 その後、矢島氏は中心的な役職につくこともなく、最終的には出家するにいたるのである。

 矢島氏のことに関して、我々が教訓とすべき点は多々あるように思う。
 何よりも大事な点は、『そのような人間でさえ、知らぬうちに権力の魔性に信心を破られる』ということと、『おかしいと思ったときに周囲が毅然とした姿勢で臨む』『組織内での自浄作用を持つ』ということであろう。

 それを、悪事を並べ立て、人格を貶めることによって「彼は最初からこんな問題のある人間だったから、学会を乗っ取ろうとしたのだ」というように「個人の問題」に帰着させてしまっては、本質を見失ってしまうことになる。

 なお、矢島氏のことについてはまだ調べる余地があると思われるので、続行して取り組んでいく所存である。

矢島周平関連資料

2009-03-01 23:26:37 | 書籍引用
 さて、先日は矢島氏のことについて思うところを述べたが、今回は資料的な部分を提示しておきたいと思う。

 まず始めに、西野辰吉著『戸田城聖伝』からの引用である。

 ☆昭和十九年にぽつぽつ予審のはじまった創価教育学会の東京地裁組は、その年のうちに大部分が保釈で出獄して、二十年の春になって囚われていたのは、戸田と矢島周平、岩崎洋三の三人である。戸田は学会の理事長で、会長の牧口が死亡したあとでは裁判所がわには首魁であり、矢島は昭和八年の長野県教員赤化事件で検挙された治安維持法の累犯者だった。予審は抵抗の強いところを残し、弱いところから崩していっていた。
 戸田が被告仲間のほとんどが退転(棄教)を誓って保釈になっていることがわかったのは、予審が始まってからだった。(p.175)

 ☆検挙された幹部は、戸田と矢島周平、獄死した牧口のほか、退転(転向)していたのである。(p.194)

 ☆第二期の(*法華経)講義を戸田は、週に三回の日程で続けた。この第二期の受講者は、教員グループの小泉隆、辻武寿、原島宏治、柏原ヤス、日本正学館の社員だった矢島周平、小平芳平、主婦の和泉美代などで、講義のいっぽうで所在のわかる会員に連絡して組織的な活動をはじめた。(p.195)

 ☆戸田は日本正学館の初期の編集長でもあり、創価学会の理事でもある矢島周平にいそいで会って、理事長を辞任して矢島にかわってもらうことにした。業務停止は刑事事件になりかねないおそれがあった。創価学会への影響をふせぐことをかんがえて、戸田はそくざに理事長から降りることにした。矢島は戦時の弾圧のさい、戸田とどうように転向せずに出獄して、戦後も親密に協力してきたなかまだった。(p.209)




 続いて上藤和之・大野靖之編『革命の大河――創価学会四十五年史』より引用する。

 ☆ところで、この昭和九年には、長野県教員赤化事件で教職を追放された長野グループと呼ばれる人びとが牧口の熱心な折伏で創価教育学会の門をたたいている。牧口は、共産主義と仏法を対比させながら、人間をあくまで手段化しない、人間主義を強く訴えたのであった。
 そして長野グループの人びとの心をとらえたのは、大聖人の生命哲学であり、それによる厳然たる現証だった。
 昭和十年の四月、長野グループの有力メンバーだった矢島周平が入信した。「現状にあき足らぬ革新的な考えをもった若い人びとを糾合しよう。創価教育学会の理念、確信を訴えて、新しい人びとを集めよう」と。(p.33)

 ☆さらに、この昭和十年、創価教育学会には研究部が設置され、研究所長に牧口、常務理事に戸田、理事に山田、幹事に矢島が就任し研究部員に約三十人の教師が登録された。会の綱領、規約も決まった。創価教育学会は、この年から遥かな未来を展望しつつ組織的活動を開始したのである。(p.34)

 ☆それによると、(*昭和十五年八月)組織は本部、支部(東京)、地方支部から成り、本部は会長に牧口常三郎、理事長に戸田城外のほか、理事には矢島周平ら十二人が就いた。(p.45)

 ☆ 牧口会長が逮捕される前日、東京では緊急に幹部が招集され、当局の動きが異様なことが戸田理事長によって告げられた。
 しかし、その翌六日には早くも戸田、矢島等の最高幹部が自宅で逮捕され、つづいて二十日には神田の創価教育学会本部が家宅捜索を受け、多数の書籍類が押収された。同時に多数の幹部が逮捕されたのであった。(p.56)


 ☆戸田は、恩師であり、民衆救済の指導者だった牧口会長を非業の死に追いやった国家権力に、広宣流布という大業の実践をもって必ず復讐することを誓った。
 ちょうどそのころ、拘置所の運動場で偶然、矢島周平に会った戸田は、一言「出獄したらよろしくたのむ」と、出獄後の学会再建を、厳しい監視の目を盗んで指示したという。(p.65)

 ☆(*昭和二十年)八月二十三日付けの朝日新聞一面に、日本正学館の通信教育広告が掲載されるや、教育に飢えていた子供たちからの申し込みが殺到したという。このころ、四月に保釈出獄していた矢島が彼(*戸田)のもとを訪ね、この事業に参加している。(p.68)

 ☆また、戦前、時習学館に勤務し、学徒出陣で出征していた小平芳平も九月に戸田のもとに帰ってきた。戸田は編集長に矢島、編集部員に小平をおいて、やがて出版事業にと手を広げていくのである。(p.69)

 ☆(*昭和二十三年頃)蒲田の酒井宅には二百人近い人びとが集まることさえあった。一日二か所以上の座談会があると、戸田と矢島が分担して担当するようになったのである。(p.92)

 ☆(*昭和二十五年)八月二十四日の法華経講義終了後、戸田は理事長辞任を参加者に伝え、後任には矢島をつけた。以後、法華経講義は矢島が担当し続行することになった。そして、戸田は信用組合の整理に没頭することとなり、学会の会合に姿を見せることもほとんどなくなった。(p.99)

 ☆その長く真剣な思索と心労の果てに到達した結論は十一月十二日、神田の教育会館でおこなわれた第五回総会の席で明らかにされた。この総会は戸田理事長の更迭と矢島理事長の就任が正式に発表された日でもあった。(p.101)