「慈悲」という言葉がある。
よく聞く(見る)言葉であるが、仏教哲学大辞典(第三版)ではどうなっているのだろうと思い、読んでみた。
詳しくはきちんと読んでいただいたほうがよいと思うが、それによると、そもそもサンスクリット語では「慈」と「悲」は別物で、「抜苦」と「与楽」の意味があるそうだ(大智度論と涅槃経では解釈が入れ替わるようだが)。他にも「慈悲観」「慈悲魔」という言葉もあるが、どうも私が思っているイメージとは少々違うようだ。
私は、「慈悲」と聞くとつい「神様」を連想してしまう。キリスト教徒だった時代などないにもかかわらず、どうも「全てを受け入れて抱擁する」的なイメージが抜けきらないのである。
他にも、時代劇などでは「お情け」的な意味で使われることが多いように思う。
では、日蓮仏法的にはどうなのだろうか。
池田先生は、日蓮大聖人の「慈悲」について、『厳父の如き』と表現されている。
つまり、やさしく抱擁するというのではなく、相手のためを思って厳しさをもって為す、ということであろう。
その意味では、創価学会の三代会長も同じであると思う。
池田先生は、時に非常に厳しい指導をなさるときがある。「厳しく叱られた」ということに囚われてしまい、叱られたほうが逆に恨みに思うこともあろう(そうして反逆していった人の、なんと多いことか)。
しかし、大事なのはそれが「何のため」であったか、なのである。
ネットは文字のみで会話するため、細かいニュアンスが伝わりにくいものである。だからこそ、受け手の側に「相手の気持ちを理解しようとする姿勢」が必要なのではないだろうか。
その自分の努力をせずに、厳しいことをいう相手に対して「あなたは慈悲がない」などというのは、残念ながら少々浅はかであると言わざるを得ないし、「慈悲」という言葉を根本的に勘違いしているのではないかと思う。
『慈無くして詐り親しむは、是れ彼の人が怨なり。彼が為に悪を除くは、即ち是れ彼が親なり』
よく聞く(見る)言葉であるが、仏教哲学大辞典(第三版)ではどうなっているのだろうと思い、読んでみた。
詳しくはきちんと読んでいただいたほうがよいと思うが、それによると、そもそもサンスクリット語では「慈」と「悲」は別物で、「抜苦」と「与楽」の意味があるそうだ(大智度論と涅槃経では解釈が入れ替わるようだが)。他にも「慈悲観」「慈悲魔」という言葉もあるが、どうも私が思っているイメージとは少々違うようだ。
私は、「慈悲」と聞くとつい「神様」を連想してしまう。キリスト教徒だった時代などないにもかかわらず、どうも「全てを受け入れて抱擁する」的なイメージが抜けきらないのである。
他にも、時代劇などでは「お情け」的な意味で使われることが多いように思う。
では、日蓮仏法的にはどうなのだろうか。
池田先生は、日蓮大聖人の「慈悲」について、『厳父の如き』と表現されている。
つまり、やさしく抱擁するというのではなく、相手のためを思って厳しさをもって為す、ということであろう。
その意味では、創価学会の三代会長も同じであると思う。
池田先生は、時に非常に厳しい指導をなさるときがある。「厳しく叱られた」ということに囚われてしまい、叱られたほうが逆に恨みに思うこともあろう(そうして反逆していった人の、なんと多いことか)。
しかし、大事なのはそれが「何のため」であったか、なのである。
ネットは文字のみで会話するため、細かいニュアンスが伝わりにくいものである。だからこそ、受け手の側に「相手の気持ちを理解しようとする姿勢」が必要なのではないだろうか。
その自分の努力をせずに、厳しいことをいう相手に対して「あなたは慈悲がない」などというのは、残念ながら少々浅はかであると言わざるを得ないし、「慈悲」という言葉を根本的に勘違いしているのではないかと思う。
『慈無くして詐り親しむは、是れ彼の人が怨なり。彼が為に悪を除くは、即ち是れ彼が親なり』