思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

業因

2010-01-31 15:59:28 | 書籍引用
 業因

 まず親が信心し、親自体がそのような子どもを持たねばならない業因をなくすのです。そうして、親にそのような業因がなくなったとします。すると子どもはどうなるか、もはや、親の前にそのような姿をして、親を苦しめる必要がなくなるのです。すなわち、なおるか、さもなくば死んで、親の縁を断つかどちらかです。子どもが死ぬのは、かわいそうだと思うかも知れませんが、そうではありません。親の業因がとれた時、同時に、子供の業因もとれて今度はりっぱな、じょうぶな子供となって、生まれてきます。ゆえに、親がしっかりと信心する以外に方法がないのです。

《「戸田城聖先生質問会集」p.304》

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 戸田先生の質問会集より、部分的に抜粋させていただいた。
 これは、重い病気の子どもを持つ親の質問に答えたものであるが、ある意味で「宿命転換の仕組み」を表されているように思う。

 組織の中でも、下位幹部を嘆く上位幹部を見かけるときがある。曰く、「○○部長は厳しい」「自覚が足りない」等。
 しかし、先に挙げた戸田先生の指導を拝するなら、それはあくまでも「上位幹部の宿業」なのであり、しかも・業因・自身の力量の足りなさを反省することもなく下位幹部のことを嘆くなら、それは仏法から外れた発言といわざるを得ない。この信心は、自分が変わることに力点を置くものだからだ。
 
 また、私自身も肝に銘じて戦ってまいりたい。

五老僧の問題・その後

2010-01-25 15:13:46 | 書籍引用
 弘安の役ののち朝廷・幕府は全国の有名な寺社に命じ敵国調伏・天下安全の祈祷をさせているが、幕府は法華宗にもこの祈願を行うように命令した。聖人在世中は謗法の国主である幕府のために祈ることは神天上義によって固く禁じていたし、幕府も申し入れを拒否された先例もあってその後は命じなかったが、聖人の入滅を機にこの措置に及んだのである。
 このころ鎌倉浜土の法華堂(法華寺)の日昭、比企谷法華堂(妙本寺)の日朗を中心として諸弟子は聖人入滅後の教団の維持と発展に辛労を重ねている時期であったが、この命にはもとより承知すべくもなく拒んだのである。
 しかし幕府もこの返答は予期したところで、重ねて祈祷すべきを命じ、もしこれに従わぬならば諸堂を破壊し、諸僧を放逐し、鎌倉の法華宗を一掃せんとおびやかした。日昭・日朗は教団の基礎の崩壊に瀕する情勢を察し、種々陳弁し、申状を捧げて諫訴したが、ついに祈祷せざるを得なくなって祈祷の巻数を捧げ、壊滅からまねがれた。

 《宮崎英修著 「日蓮とその弟子」 p.203~》
 *適宜改行を加えた。

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 昨年末に少々書いた「五老僧の問題」について、裏付けともいえる記述があった。
 
 これを見た限りでは、日昭・日朗が「日蓮大聖人の流儀」に反した行動をとったことは間違いないようである。
 これは弘安7~9年頃に起こった出来事のようで、それはつまり大聖人滅後2、3年で遺弟(しかも本弟子と定められた弟子)が師匠の教えに背いたことになる。
 
 ところでこの構図、どこかで見覚えがないだろうか。

 戦時中、軍部権力により神札拝受を強要され、「戒壇御本尊をおまもりするための苦渋の選択」として神札を受けるに至った日蓮正宗の姿に、よく似ている。
 ということは、日蓮正宗は国家権力の弾圧を受けた時に「日昭・日朗と同じ道を選んだ」ということである。

 これはまた、我々も教訓とすべきことだろう。

境智の二法

2010-01-05 07:41:55 | 書籍引用
 境智の二法からみても、指導者に力と確信と英知があれば、対境である人々にも確信と力がわく。指導者自らに感激なく、ただ義務的に話している場合、聴衆は倦怠をおぼえる。事務的な態度で臨めば、やはり事務的のみの人を作る。
 ぜんぶ境智の二法であり、指導者が成長すれば、全体が必ず成長するものだ。それには、指導者は人より一歩進んで努力と勉強を積んでいくことが必要だ。

《指導メモ 池田大作著 p.45》

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 今年一年、常に心していくべき御指導。
 決して指導できるような私ではないが、「努力と勉強」あるのみ。