思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

5月3日の「謎」

2009-04-22 00:36:30 | 書籍引用
 タイトルには「謎」とつけたが、それほど謎ではない。
 一言で書いてしまうと、『5月3日が「創価学会の日」に制定されたのは、いつなのか』ということである。

 昨年だったか、座談会の青年部コーナーのためにクイズを作成した。そのとき候補として挙がった問題の一つが、「創価学会の日」がいつ制定されたのか、であった。
 結局このときは明確な答えが判らず、問題そのものはボツになったのだが、私の中で疑問として残ったままだった。

 創価クロニクルによれば、昭和58年5月1日に『「創価学会の日」記念勤行会』との文字がみえる。
 そのため、私はその「昭和58年」が制定の年なのだろうと思っていた。

 ところが、とあるところで手に入れた昭和55年5月4日の新聞を見て驚いた。
 そこには『晴れやかに5.3「創価学会の日」祝う』との見出しがあったのだ。
 ということは、その時点で5月3日は「創価学会の日」と呼ばれていたと考えられる。会長辞任から1年後であるが、その時には制定されていたということだ。
 となると、問題は「いつ」なのか。

 その答えは、吉村元佑著「池田大作 思想と行動」から推測できる。

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 創価学会の一年間にわたる行事日程表をみると「○○記念日」「××県(区)の日」といったように、各部ごと、地域ごとの記念日が設定されている。毎年その日を、会員の成長、地域発展の節目としていこう、というのがその趣旨であり、何らかの記念行事を催す場合も多い。なかでも、創価学会創立記念日にあたる「十一月十八日」と、第二代戸田会長、第三代池田会長、第四代北條会長がそれぞれ就任式を行なった「五月三日」は、「創価学会の日」として格別に記念すべき日である。

《吉村元佑著 池田大作 思想と行動 P.36》

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 引用した文章の末尾には、こうある。

 『「五月三日」は、「創価学会の日」として格別に記念すべき日である』

 記念すべき日、ということは、この時点ではまだ制定されていない、と捉えられる。もしすでに制定されていたなら、「格別に記念されている日である」となると考えられるからだ。

 この本が書かれたのは昭和55年4月となっており、そのなかでこのような記述があるということは、吉村氏が本を書いた時点では制定されておらず、翌月の5月3日には「創価学会の日」と呼ばれていたことになる。

 それを根拠として、私は「創価学会の日」制定を『昭和55年』と判断するものである。

理論と実践

2009-04-13 06:11:14 | 書籍引用
 第六に、理論と実践について申し上げれば、理論は実践でないという考え方は誤りである。理論を構築し、理論を鮮明にすることも、大事な実践である。
 人間は知的動物であり、なかんずく情報化時代といわれる現代にあっては、理論のもつ重みは大きい。
 広宣流布の新段階は幅広い実践がなくてはならない。それぞれの立場と、使命を重んじつつ進んでいくことが大切であります。浅く狭い考えではもろくなってしまう。深い人であっていただきたい。深い、若きリーダーであっていただきたいのです。そこで男子部で、実践の教育を図っていっていただきたいことを、お願いしておきたいのであります。

《池田会長講演集 第三巻 P.129~》

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 昭和45年8月6日、大客殿で行われた男子部全国幹部会でのご指導。

 自分で言うのも何なのだが、私は「理」の人間だと思っている。
 その故に悩んだこともあったので、そんな私には心強いご指導である。

組織のかく乱

2009-04-11 23:19:59 | 書籍引用
 五十二年七月四日夜八時半過ぎ、地元のN大B(ブロック)で月初めの協議会が終わった。
 参加者が笑いさざめきながら散会し、I総B長(当時)が退室するのと入れ違いに、大B長であり、会場の家主でもあるFが青ざめた顔で入ってきた。
 中央の机から離れた場所に座ったFは、残っていた婦人たちに向かって突然、いい発った。
 「今まで黙ってきたが、去る七月一日付けをもって大B長の役職を辞任した」
 寝耳に水の話に驚く婦人たちを尻目に、Fは手に持った資料をもとに、最近の学会は矛盾したことが多すぎる、とたたみ込むように切り出した。
 Fの扇動はなにもこの日に始まったことではない。大分県創価学会が中心拠点とすべき平和会館建設を目的として、特別財務を実施した。その直後から、Fは全県下の同志たちの真心を踏みにじるように、ことさら”平和会館など建つはずがない”と強弁し、周囲を不審がらせていた。
 あとになって、そのからくりは判明した。Fの不可解な発言内容は、今は宗門からひん斥となった悪侶から吹き込まれたものだったのだ。にもかかわらず、彼は自分の立場を偽ってよくこう説明した。
 「私は聖教新聞の、全国で二人しかいない特別通信員だから、いろいろな情報が入ってくるのだ」と。
 Fが聖教新聞の通信員であったことは事実である。しかし”全国で二人の…”云々といった件りは、無論口からの出任せである。第一、聖教新聞には”特別通信員”という制度自体ない。でも、彼のしゃべる情報の数々が、人びとにとって全然知らない話であればあるほど、その”肩書き”からして、場合によっては、いかにも”真実”めかしてくるから不思議だった。

《人間の中へ 池田名誉会長の激励行 吉村元佑著 p.13~》
*なお、文中の実名部分についてはイニシアルとした。

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 第一次宗門問題における、組織破壊の一例。
 
 このなかで重要だと思うのは、Fが『特別通信員』を名乗っていたことにあると思う。
 つまり、『特別なグループに所属し、他の会員が聞けないような情報を聞いているのだ』ということをもって、自分の語ることに信憑性を持たせていたのだ。組織を乱すには、非常に有効な方法だろう。
 自身の中に揺るぎない基準を持たなければ、その発言に振り回されてしまうからだ。

 何故、このことを書いたかといえば、最近とある掲示板で、『私は特別なグループに所属し、他の会員が聞けないような情報を聞いていたのだ』というような発言を目にしたからである。
 それがいかに詐欺まがいの発言であるか、よく判っていただけるのではないかと思う。

 先生のご指導を学ぶのは、その『揺るぎない基準』を我が生命に築くためであると、私は捉えている。
 決して、自説の補強としてはならないのだ。

山崎正友の除名処分

2009-04-05 22:56:34 | 書籍引用
 最近、第一次宗門問題についていろいろと調べていたのだが、その中で非常に意外に思ったことがある。
 それは、山崎正友の除名処分の時期である。
 
 青山樹人氏の「宗教はだれのものか」という本に収録されている年表によると、山崎正友の除名処分は『昭和55年9月6日』になっている。そこに至るまでの一連の流れを記しておくと、以下の通りとなる。

 ・昭和54年 4月24日 池田会長が勇退して名誉会長に。北条浩氏が第4代会長に就任。
 ・     5月 3日 第40回本部総会
 ・       14日 山崎、法華講大講頭に就任
 ・     7月22日 日達法主、急逝
 ・     8月 6日 阿部日顕、67世法主に就任
 ・     9月25日 日顕、山崎の本山への出入りを禁止
 ・    11月13日 山崎『週刊文春』に日顕の相承疑惑手記を発表
 ・昭和55年 5月   山崎、創価学会から3億円を恐喝
 ・     6月 7日 学会、警視庁に山崎を告訴
 ・     9月 6日 学会、山崎を会員除名処分

 そして、翌年1月には逮捕され、2月には東京地検に告訴されている。

 この年表からわかることといえば、山崎正友はかなり遅い時期に除名処分を受けているということである。
 例えば54年の11月には相承疑惑手記を発表していたり、さらには55年6月には学会に告訴されているにもかかわらず、除名されたのはそれよりも3ヶ月も後のことなのだ。

 もちろん、様々なことが明らかになったのは随分後のことだろうし、当時としては宗門との共存が重視されていた等の時代背景的なものはあっただろうと思う。
 しかし、池田先生の会長辞任から1年と5ヶ月、山崎正友は創価学会員であり続けたのである。
 この事実は何を物語るのだろうか。

 ちなみに創価ネットワークの年表によると、原島嵩の除名は同年7月16日となっており、山崎正友よりも2が月近く早く除名処分となっているようだ。

 今年で池田先生の会長辞任より30年となる(4/26・小野さんより指摘をいただき、言葉遣いを改めました)。我々当時を知らない(記憶していない)世代は、先生の綴られる歴史を学ぶのはもちろんのこと、「何故そのようなことが起こったのか」「何故防ぐことができなかったのか」といった視点を持つことも必要であるように思う。
 魔は巧妙に人心に入り込み、あたかも「正論」であるかのように篭絡してゆくものであるからだ。