思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

人間の中へ vol.3

2008-08-31 05:00:59 | 書籍引用
 リマに到着して二日目の(一九七四年)三月二十四日、市内の日秘会館でNSP発足十周年記念撮影会が行われた。会長は用意してあったパラソルを拒否し、随行のメンバーの顔が一皮剥けるほどの炎天下の中で、七回に及ぶ撮影会に臨んだ。人びとを激励し、抱きかかえ、撮影の合間には清涼飲料水のインカ・コーラを運ぶ”コーラボーイ”となって、皆を恐縮させた。人びとにとっては、一生に一度の撮影会になるかも知れない。そう思ってか、会長はずっと上着を付け通したまま。仕舞いにはYシャツまで汗だくになり、見かねた人が後ろからハンカチでそっと首筋の汗を拭う光景まで見られたほどだ。
 その後の激しい高熱と腹痛。一時は、周囲では入院すら取り沙汰しはじめていた。しかし、会長は、
 「戦いを始めようとしているのに、何が医者だ。世界平和のために途中で死ねるなら本望じゃないか」
 と、最初から取りつくしまがない。
 会長は周囲に、こうももらしていた。
 「一人の成長のために全力を注ぐ。その一人の抜本的な精神変革のために総力をあげる。そんな日々の連続には当然、疲れも出るよ。疲れの残らない指導などというものは指導ではない。遊びだ」

《吉村元佑著 人間の中へ vol.3 池田大作と南米の友 P.227~228》

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ペルーに訪問された際のエピソードの一端。

「疲れの残らない指導などというものは指導ではない。遊びだ」という言葉が痛烈に響く。

精進あるのみ。

NEWS 23

2008-08-19 00:35:31 | 思索の断片
本日の会合で、「今日のNEWS 23で、難病と戦う女子部の方の特集が放送されます。」という情報を教えていただいた。
おそらく、メールで広範囲に流れたのであろう。掲示板にも同様の書き込みが散見された。
私もその番組を見た。

いつも思うことなのだが、あの特集はどれくらい当人の気持ちを表現しているのだろうか。

番組中、「彼女はつらい胸の内を語ってくれた」というナレーションに続いて、当人が「何で私が…」「普通に歩いている人を見て、いいなあと思ったり…」と、語った。
しかし、音声にはなっていなかったが、その後彼女の唇は確かにこう動いたのだ。

「でも」

それに続いて彼女が何と語ったのか、私には知る術はない。
しかし、本当の「彼女の胸の内」は、その後に続いたのではなかったのだろうか。


それから、理由は定かでないのだが、遠位性ミオパチー患者の会の掲示板がその18日付けで閉鎖になっていた。彼女が女子部であると知った学会員さんが多数書き込んだ(もしくはそれを警戒した)のでなければいいのだが…。


そして、一番大事なことは。

難病を抱える人が学会員であっても、共産党員であっても、他宗派の人であっても、差別なく思いを持てる我々であることではないだろうか。


*<NEWS 23での特集に関して>

本放送を一度見ただけですので、番組内容の記憶違いや見間違いがある可能性があります。
その場合は、どうか御容赦ください。

指導そのままを実践

2008-08-06 22:20:18 | 書籍引用
 辻:それと、問題は「先生がいわれたことに文上と文底がある」などということが、まだいわれることがあります。「先生はこうおっしゃっているが、ほんとうは早朝勤行をやってもよい」などと。そういうことは、指導上はっきりやめさせるべきですね。

 会長:それはそうです。たとえば本部で会合は九時半まで、早朝勤行はしてはならない、日曜の会合は九時からと決定していることに対して「それは文上だ。文底は、大闘争のためには十時、十一時までやってよいのだ」などと勝手な解釈をして後輩を引っ張っていく。
 それは、自分がやりたいことを正当づけていこうとする我見の行き方です。文底というのは、信心のうえにいうべきことばで、決して乱用してはなりません。

 辻:学会の指導には、文上も文底もない、そのままうけて実践すべきですね。

 会長:そういう指導をする幹部がいたら、これはいうことを聞く必要はありません。各本部長に報告してください。

《会長講演集 第12巻 P.211》

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昭和39年7月7日の聖教新聞に掲載されたもの。

特に戒めとしていかなければならないのは、「それは、自分がやりたいことを正当づけていこうとする我見の行き方です」という部分。
私が陥りやすいところだと思う。

教授と指導

2008-08-04 23:55:09 | 書籍引用
 創価学会は牧口初代会長以来、指導主義です。指導主義とは、結論していえば、ぜんぶ、御本尊を拝みなさい、御本尊を受持し、功徳をうけなさい、と御本尊を指さし、導いていくことに尽きるといえましょう。
 御本尊とはこういうものだ、仏とはこういうものだ、一念三千の法理とはこういうことだ、と説明し教えることのみであれば、教授主義である。それに対し、その人の幸福生活を確立し、納得させ、領解させることを第一義とした方法が、指導主義となる。指導主義のなかに”教授”もはいっていることは、とうぜんのことです。
 若い指導者が、壮年の人から、事業のことを相談された。自分には、皆目わからない。だから指導できないか。けっしてそうではない。その問題に明るい同志のところへ、いっしょに聞きに行く。これも立派な指導主義です。また、根本である信心の指導の中から自ら気付かせてゆくことができれば、立派な指導だといえましょう。
 一から十まで、ぜんぶ、自分が教授になって教える必要はありません。指導主義のほうが、ずっと価値がある。
 むずかしい質問があった場合”これは私にはわかりません。しかし、あの人はよく知っています。あの人は体験を持っているから、あの人にお聞きになって下さい”といっても、立派な指導といえます。指導主義は行き詰まりがありません。
 知ったかぶりの教授主義は行き詰まる。現在の社会の指導者の要領、虚栄、無責任等は、すべてごまかしにすぎない。
 指導主義の根底は、あくまで慈悲でなくてはならない。この指導主義の精神を忘れると、感情になったり、権威主義になったりしてしまう。指導主義を実行していくならば、効果的に価値的に、万人を向上、成長させていくことができるわけです。
 だからといって、ただ要領だけ使って”指導主義だ。ではあの本部長のところへ行ってこい。なんでも、あそこへ行って指導をうけなさい”という行き方は、指導主義をはきちがえた、無責任な態度となります。真の指導主義には、指導、教授、訓練、擁護、すべてが含まれているといえましょう。

《池田大作 著 指導集-質問に答えて- P.118~120》

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私は時折あちこちの掲示板を見たりするのだが、その中で「創価学会は指導主義だ」との言葉を見かけた。
それは間違いなくそうなのだが、それを書き込んだ方は「指導主義」を少々誤解なさっているようだった。

本来、「指導主義」とは「教授主義」の対比において使われる言葉であるように思う。
「指導を受けること」=「指導主義」ではない。
上記指導を読めば、判っていただけると思う。

池田大作論

2008-08-03 05:07:31 | 書籍引用
 「私はあくまで、恩師の指針を実現できるかどうかで、真の弟子か否か決まると信じてやってきた。元来、日本において一宗教は、三百万人が限度とされてきたようだ。恩師の場合は、百万世帯あったので、ほぼ二、三百万人と推定されるだろう。三百万を数百万へと伸ばすということは日本の宗教界に金字塔を打ち立てるようなもので、私は恩師が昭和三十三年二月『あと七年間で三百万世帯の折伏をしような』といった言葉がこびりついていた。
 そのため会長就任の時、三百万世帯達成を打ち出した。実をいうと、幹部はだれもこれを本気にしなかったようです。私はあくまで恩師の構想・思想を実践していく会長でありたいと念願していた。だが、その目標も二年間で達成することができ、また昭和四十七年まで六百万世帯達成を目指していたが、これも四年も先に達成してしまった。
 努力すれば、必ず未曽有の実証を示しうることを私は知りました。今度造る正本堂も世界各国百三十五カ国の石を集めて造るものです。この石も私をはじめみんなで集めました。やればできるものです。あとは、一千万世帯達成ができるかどうかということです。しかし、できるような気がします」
 会長就任後の実績に対する、自身の評価である。
 予期しないことはなかったのだろうか。
 「うーん」
 池田は、笑顔を見せたが、すぐ真顔にかえった。
 「私が長生きした、ことかなあ」と。
 

《央 忠邦 著 「池田大作論」 P.261~262》

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2006年に発行された前原政之著『池田大作 行動と軌跡』の中で、よく引用されていた本からの抜粋。
他にも紹介したいエピソードがたくさんあるので、また登場することもあるだろう。

ここに引用した最後の一文を読んだ時、思わず涙が出そうになった。









てい談 法華経の展開

2008-08-02 00:32:35 | 書籍引用
会長:創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田前会長の悟達にあります。
私が「人間革命」第四巻で書き記しておいたように、無量義経の三十四の「非」を呻吟しながら思索しぬかれた結果 
「仏とは生命なんだ!生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!」という生命内奥から突き上げてくる歓喜とともに悟達された瞬間こそ、将来において世界の哲学を変貌せしむるに足る一瞬であった。この一点をはずして今日の創価学会の思潮の大河はない。
すなわち、法華経はいうにおよばず、一切、八万の法蔵は、三世にわたり、人間を含め宇宙、自然の森羅万象を貫く”生命”という実在を説いたものであると決定した瞬間に、創価哲学が開始されたのです。その”生命”とは、内より泉水のごとく発現してやまない究極的な力そのものであり、それを五体に「力感」としてみなぎらせていくところに、仏法の実践があるといってよい。
 生命の問題は、理論の分析で解明できるものではありません。結局、肉団の胸中にあるものであり、その胸奥につづられてゆくものこそ、真の経といえます。そうでありながら、しかも全人類に普遍の力をもつものこそ、偉大な円融の法理なのです。

《てい談 法華経の展開 P.7~8》

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いわゆる第一次宗門問題で問題視された部分。
今となっては何が問題なのか、という気もする。

ところで我見を少々。

不軽菩薩の二十四文字の法華経と同じような意味において、「仏とは生命なり」は創価学会(あるいは創価学会仏)の法華経と言えるのではないかと、個人的には思っている。