今回の3級試験の中では触れられていないが、法華経方便品第2には「五千の上慢」の話が出てくる。
僭越ながら少々説明させていただきたい。
まず仏の智慧の存在を明かされた舎利弗が、釈尊に「そのことを教えてほしい」と3度に渡って願う。
しかし、釈尊はその都度「聞いたものは驚き、疑いを生ずる」と言ってその請願を退ける。
3度目の請願でようやく釈尊は「そのこと」を説こうとするが、その時、五千人ほどの比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷が座を立ち、礼をして法座を退出する。
その理由として、この輩(ともがら)は「罪根深重」「増上慢」「未得謂得(未だ得ざるを得たると謂い)」「未証謂証(未だ証せざるを証せりと謂い)」という失(とが)があった、と説かれている。
この部分について、私が思ったことを書いておきたい。
4種類の『失』を一言でいえば、『慢心』であると思う。
「自分はこの信心のことを、誰よりも理解している」と思っているが故に、さらに深く立ち入った『仏の智慧』を聞くことが出来ないのだ。
それは、恐怖といってもよいかもしれない。
自分が今まで築いてきたもの、考え方を根底から覆されることへの恐怖である。
それに打ち勝つことが出来ずに、「五千の上慢」は法座を後にしたのだと思う。
または、『その4種類の命があるかぎり「仏の智慧」を会得することは出来ない』ということの比喩といってもよいかもしれない。
必要なのは、自分を革新しゆく「勇気」なのだ。
「人間革命」に、終わりはない。
常に成長し、自分を革新していかなければ「進まざるは退転」となってしまう。
僭越ながら少々説明させていただきたい。
まず仏の智慧の存在を明かされた舎利弗が、釈尊に「そのことを教えてほしい」と3度に渡って願う。
しかし、釈尊はその都度「聞いたものは驚き、疑いを生ずる」と言ってその請願を退ける。
3度目の請願でようやく釈尊は「そのこと」を説こうとするが、その時、五千人ほどの比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷が座を立ち、礼をして法座を退出する。
その理由として、この輩(ともがら)は「罪根深重」「増上慢」「未得謂得(未だ得ざるを得たると謂い)」「未証謂証(未だ証せざるを証せりと謂い)」という失(とが)があった、と説かれている。
この部分について、私が思ったことを書いておきたい。
4種類の『失』を一言でいえば、『慢心』であると思う。
「自分はこの信心のことを、誰よりも理解している」と思っているが故に、さらに深く立ち入った『仏の智慧』を聞くことが出来ないのだ。
それは、恐怖といってもよいかもしれない。
自分が今まで築いてきたもの、考え方を根底から覆されることへの恐怖である。
それに打ち勝つことが出来ずに、「五千の上慢」は法座を後にしたのだと思う。
または、『その4種類の命があるかぎり「仏の智慧」を会得することは出来ない』ということの比喩といってもよいかもしれない。
必要なのは、自分を革新しゆく「勇気」なのだ。
「人間革命」に、終わりはない。
常に成長し、自分を革新していかなければ「進まざるは退転」となってしまう。
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