無疑曰信とは、法華文句に説かれる言葉。「疑い無きを信と曰(い)う」と読むようである。
御書検索をしたところ、御義口伝と御講聞書に合計6ヶ所出てくる。
昔はよく「疑いを持ってはならない」というような意味で使われることが多かったが(特に幹部の指導において)、それは誤解であるように思う。
「疑わない」ことと「疑いようがない」ことは違う。
無疑曰信とは、疑いつくしてこそ成り立つものである。
その証拠に、大聖人の御書には「疑つて云く」「問うて云く」が頻繁に出てくる。
勿論、問答形式にしたほうが判りやすいという面があってのことと思うが、大聖人の「真実」への迫り方が見て取れるように思う。
先日も書いたが、誰かに知らされた事柄を何の検討もなく「真実」として受け入れるのではなく、常に「検証」し、疑いないことを信じるという姿勢こそが大切である。
それでこそ、教学の研鑽が「剣豪の修行」となるのではないだろうか。
御書検索をしたところ、御義口伝と御講聞書に合計6ヶ所出てくる。
昔はよく「疑いを持ってはならない」というような意味で使われることが多かったが(特に幹部の指導において)、それは誤解であるように思う。
「疑わない」ことと「疑いようがない」ことは違う。
無疑曰信とは、疑いつくしてこそ成り立つものである。
その証拠に、大聖人の御書には「疑つて云く」「問うて云く」が頻繁に出てくる。
勿論、問答形式にしたほうが判りやすいという面があってのことと思うが、大聖人の「真実」への迫り方が見て取れるように思う。
先日も書いたが、誰かに知らされた事柄を何の検討もなく「真実」として受け入れるのではなく、常に「検証」し、疑いないことを信じるという姿勢こそが大切である。
それでこそ、教学の研鑽が「剣豪の修行」となるのではないだろうか。