思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

人間革命の改訂について

2022-07-31 21:54:19 | 書籍引用
 最近Twitterを再開したのだが、その中で拝見したツイートを読んで「新旧の『人間革命』における違い」が気になった。

 「人間革命」は、最初はハードカバーとして出版され、その後聖教文庫から文庫化されて出版、2012年には内容を改めて聖教ワイド文庫として出版されている。実は、最初のハードカバーからの文庫化時にも部分的に書き改められている箇所があるそうだが、現物を所持していないため確認ができない。
 私は年齢的に聖教文庫世代なのでワイド文庫は所持はしていても読んでいなかったが、今回比較してみたところ思った以上に大きく書き換えられていた。もちろん、文庫化からワイド文庫化の間に日蓮正宗と袂を分かつという出来事があったため、それに付随する記述や教学的な内容が大きく改訂されていることは容易に想像できたが、その他の部分についても意味合いが変わるような改定がなされていたのだ。
 
 人間革命第10巻「展望」の章を例にとってみたい。※聖教文庫版を文)、ワイド文庫版をワ)と表す。

 文)選挙のたびに同志の支援活動も何年かを隔ててつづくだろう。
 ワ)選挙のたびに同志の支援活動も続くだろう。

 文)広宣流布をすすめる以上、
 ワ)立正安国の実現をめざす以上、

 文)ともあれ、広宣流布の実践活動というものは、
 ワ)ともあれ、立正安国とは、

 文)しかし、それらの新進幹部たちに、今回のような油断のならぬ苦闘を、いつまでも経験させねばならないのだろうかと考えたとき
 ワ)※カット

 文)一世を風靡する人物を、各活動分野に育てないことには、何事もはじまらないではないか。しかし、それが知らずしらずのうちに、一分野にすぎぬ政治にかかわる活動のみが広宣流布だという色彩になるということは、内外に大きな誤解を与えてしまうであろう。
 ワ)※カット

 文)妙法の土壌から見事な真の政治家を育てなければならぬという重い使命を担う広宣流布の一目的から、このたびの戦いに
 ワ)妙法の土壌から、見事な真の政治家を育てなければならぬ”彼はその重い使命を担って、このたびの戦いに

 文)彼は、会員の苦悶、苦痛が痛いほどわが胸をしめつけるのを感ずるのであった。
 ワ)※カット

 文)多数の民衆の衆望というものを担った偉大な一世を風靡するような政治家が、われわれの土壌から出たとする。衆望のおもむくところ、民衆はその政治家を信頼するに足るとして彼の政策遂行に協力せずにはいないだろう。こうなると、この政治家を中心として民衆自身の望む政党もできるであろう。
 こうなると、いまの会員の支援など問題でなくなる。社会の広汎な民衆の支持こそ基盤となる。つまり、会員は選挙権の行使に気をつかわなくて済むにいたるだろう。時代とともにここまで拡散しなければ政治の分野の広宣流布とはいえないのではないだろうか
 ワ)衆望を担う真の政治家が、続々と出現したらどうだろう。世論は、彼らを信頼するに足る政治家として、支持するに違いない。悪徳政治家も淘汰されるだろう。
 こうなると、今の学会員の支援活動など、問題ではなくなる。社会の広範な支持が基盤となっていくだろう。むしろ、そういう時代をつくることが大事だ。



 いかがだろうか。
 文庫化された当時(昭和50年代後半)とワイド文庫化当時とでは30年近くの開きがあり、社会情勢や創価学会、または公明党の状況も変わっているため、様々な改訂がされたのだとは思う。
 しかし、上記引用した部分を見ると、創価学会における「支援活動」の比重が肥大化していることが、ありありと判る。
 そして、何より「いずれはこのような戦いが必要ではなくなる」という前提があった聖教文庫の記述が、そうではなくなっているのである。もちろん、現状に即した改訂ではあるのかもしれないが、方針の変更といっても過言ではないだろう。
 これが何を意味するのかといえば、どの時期に何を学んだかで会員同士でも創価学会の活動に対する認識や方針が変わってしまうということだ。
 これは、ゆくゆくは大きな問題に発展してしまうかもしれないと、私は危惧している。 

組織について

2020-01-03 21:47:57 | 書籍引用
 次に私が申し上げたいことは、広布の最前線で戦うということは義務ではなく、権利でなくてはならない、ということである。
 なぜならば、広布の組織のまっただなかで精進していくところに、自分自身を真金の人に鍛えていくことができるからである。学会の組織は自らを鍛える人間革命への触発の場であり、同志はそのためのかけがえのない善知識なのである。
(中略)
 経文に”和合僧”とあるが、現代でいえば”組織”のことである。この仏法者の組織を破壊する”破和合僧”が、もっとも罪の重い五逆罪のなかにあげられていることは周知のとおりである。つまり、広布組織を破壊し、その充実、発展の障害をすることである。
 それゆえ、広布の組織を軽蔑し、実践活動をきらう人は、外見はどうあれ、行きつくところは地獄であり、提婆達多の末流といわざるをえないのである。
 ともかく学会の組織は、政治組織でも官僚組織でもない。”生命対生命の感応の組織”であり”人間と人間が打ち合う世界”なのである。この尊い生命の組織を軽んずるものは、自分の生命を軽んずることに通ずる。

  《広布第2章の指針 第9集 P.140》

……………………………

 昭和52年1月16日に関西で行われた、第1回男子部代表者会でのご指導。
 ここには組織の中で戦うことの重要性とともに、その本体となる組織がどうあるべきかが示されているように思う。
 
 我が使命は、そのような組織を我が地域に築くことにある。

宗派性とは何か

2014-01-02 02:39:40 | 書籍引用
「学会は宗派性の殻を破り世界宗教へ飛翔――学者。時代遅れの日顕宗は奈落」

  (2013.11.12聖教新聞「寸鉄」)

…………………………

 随分古い記事からの引用だが、考えさせられる内容だったので。

 「宗派性の殻を破り世界宗教へ飛翔」と書いた直後に「時代遅れの日顕宗は奈落」とある。
 これでは、とても「宗派性の殻を破り」とは言えないように思う。

 表現として適切ではないかもしれないが、宗派性とは「同族意識」的なものであると思う。同じ集団に所属していれば仲間、違う集団に所属していれば「他集団」。それが本質であるように思う。
 ということは、宗派性の壁を破るということは即ち「同族意識」を打ち破ることといえる。そこには、他者に対して「他集団に所属しているかどうか」ということを問題にしない境涯の広さが求められる。

 世界広布新時代に最も必要な精神性は、その部分ではないだろうか。

見失ってはならないこと

2012-01-31 00:15:07 | 書籍引用
 問 私は大きい闘争になると、最初はがんばっていますが、終わりのほうになると、ほんとうにやりきったという確信が薄らいできます。その点で悩んでいます。悔いのない戦いをするには、どうすればよいでしょうか。

 答 ひじょうにまじめな人であるように思うし、また、思い過ごしをしているようにも感ずる。大きい闘争といっても、やることはなにかといえば、信心指導であり、一対一の折伏であり、一対一の個人指導以外にない。あまり”大きな闘争”ということで錯覚を起こすこと自体、私はちょっとまずいと思う。(笑い)
 自分の自覚として”大法戦だ!”と決意することは、それだけの力が出るという意味において、必要でありますけれども、あなたはあなたとして随力弘通でいいのだ。あなたらしく真心こめて使命を果たした、責任を達成したと思えば、私は立派に大闘争をしたということにつうずると思う。そう確信していきなさい。

 (以下略)

《指導集~質問に答えて 池田大作著 p.134~》

…………………………

 戦いを起こすにあたって、決して見失ってはならない部分を抜粋させていただいた。

 つい大きな目標に目を奪われがちになるが、一番大事なことは「一人でも多くの人が、信心の確信をつかむこと」である。体験を積んでこそ、ひとに語れる言葉も増える。

 まずは、目の前の「ひとり」のために、闘いを起こす決意である。

宗教界の王者

2011-10-09 09:04:02 | 書籍引用
 いま、その、御本尊様より、票のほうがよく見える年なのです。一票二票とはいる、それがなんだかありがたく見える年なのです。それは見させておいてあげなさい。
 同じ岸系といっても、いろいろある。ここらでへたくそに立った代議士の応援などやらないように。私は宗教団体の王様なのであり、岸先生は政治団体の王様なのです。立場が違うだけです。ただ人間を理解しあえばいいのです。

 《戸田城聖全集 第4巻 p.599》

…………………………

 昭和33年の「3.16広宣流布記念式典」において、戸田先生が「創価学会は宗教界の王者である」と宣言された、と習った方は大勢いらっしゃることと思う。

 しかし驚いたことに、戸田先生がそのように仰った部分は、書籍では存在しない。いちばん近いと思われるところが、上記引用箇所である。 読んでいただければ判るように、これはご自身のことを言われているのであり、創価学会のことを仰ってはいないのである。
 全文を読んでも、主に岸総理(当時)のことを様々に語られており、「創価学会は宗教界の王者」との趣旨は出てこない。

 だが、この講演のタイトルは「宗教界の王者」となっている。これは一体どうなっているのだろうか。

 考えられる可能性としては、次の2点が挙げられる。

 1.そのような発言はなかったが、戸田先生としてはそういうことを話されるつもりであった。
 2.発言自体はあったが、昭和59年発行の本であり宗門との摩擦を防ぐ意味で削除された。

 いずれにせよ、「創価学会の歴史」の検証は必要なことなのかもしれない。

今、学ぶということ

2011-05-01 05:39:55 | 書籍引用

  70歳まで……新しき人間主義の哲理を確立
  80歳まで……世界広布の基盤完成なる哉

 このあとは、妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとることを決意する。

《随筆 新・人間革命1「日に日に新たに――”第三の青春”を勇猛精進で」》

…………………………

 大きな戦いが終わった今、我々がしなければならないことがある。
 それは、池田先生の「思想」を徹して学ぶことである。

 引用したのは、1998年1月4日に掲載された随筆の一部だが、ここには非常に重要なことが書かれていると思う。

 「このあとは、妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとる」

 今、池田先生は83歳。すでに「このあと」の時代に入っているのだ。
 では、ここで言われている「永遠に広宣流布の指揮をとる」とは何を意味しているのだろうか。
 
 それはつまり、後を継ぐ我々やさらに後の世代が、「池田先生の思想に基づいて広宣流布を推進していく」ということだと思う。
 そこで問題になってくるのは、「我々はどこまで池田先生の思想を判っているのか」ということだ。

 残念ながら、今の男子部の活動形態では「池田思想を学ぶ」といった方向性には、なかなかならない(わが地域だけなのかもしれないが)。もちろん、会合等で先生のご指導を学んだりはするが、私はそれと「池田思想を学ぶこと」は別物だと考えている。

 大事なのは、学び、思索し、自身の血肉としていくことであり、次の「飛躍」をめざして、今、徹して学ぶことができるかどうかである。

「今」を勝つ

2011-03-31 23:52:23 | 書籍引用
歴史とは、新しき一歩一歩の積み重ねといえる。はるかなる未来も、「今」という一瞬から始まる。ゆえに「今」が草創であり、旅立ちの第一歩となる。永遠なる平和の歴史絵巻を織り成すには、「今」を勝つことだ。胸中に勇気の太陽を輝かせ、希望の虹を描いて、今日も、また明日も勝ち抜き、凱歌の扉を開き続けるしかない。

《新・人間革命第6巻 P.139》

…………………………

 決戦を前に、新・人間革命より抜粋させていただいた。

 自身の戦いを意味があるものにするかどうかは、所詮自分が決めることであろう。
 決して自身に敗れることなく、戦い抜いてまいりたい。

  ≪追伸≫

 長期に渡る更新停滞、ご覧になっている方々には大変申し訳ありません。
 多忙にかまけて、気がつけば2ヶ月が経っていたというのが正直なところです。
 来月もまた多忙ですが、少しでも更新できるようにしてまいります。

ひとりを大切に

2011-01-25 01:13:37 | 書籍引用
 それでも、自分を気にかけてくれる人、自分を受け止めてくれる人を一人得たことで、私はある意味救われたのだと思いますし、それはそれで宗教的な行為だったのかもしれません。
 宗教家のなかには、一方的に自分の話だけを押しつける人もいます。聖書やお釈迦様の話をしなければ、宗教的行為ではないと思っている人もいます。
 でも、「目の前の人を大切にする」という、彼がしたことも、宗教家だからできたことなんじゃないかなと私は思います。私は彼の行為の中から、人間にとって大切なものはなんなのか、少しだけでも学ぶことができたのだと思います。

《林 尚実 著「ひきこもりなんて、したくなかった」p.94》

…………………………

 故あって読んでいた本より、抜粋させていただいた。
 
 少々説明すると、著者は学校や家族の問題で、中学2年生から引きこもりを余儀なくされた。その後、治療を受けるはずの診療所等で逆にさらに追い詰められ、状況はますます悪化する。
 そんな中、18歳になった著者は、ふとキリスト教の教会に立ち寄る。しかし、しばらく出入りしているとそこの牧師に「他の人とも溶け込めないし、信仰心があるようでもない」といわれ、こんなところへは来ないほうがいい、と言われる。
 教会を出ようとしたとき、声をかけてくれた青年がいた(後に「牧師見習い」とわかる)。青年は著者を喫茶店に連れていき、ただ話を聞き続けた…という場面である。

 この部分を読んで、私は正直背中に冷たいものを感じた。
 
 私たちは常日頃、「一人を大切に」といって活動している。
 しかし、それは何のためなのだろうか。
 話を聞き、励まし、結果として「戦力」を求めてしまってはいないだろうか。

 池田先生は、本当に「一人」を大切にされる。
 何年経ってもその「一人」を思い、気にかけられる。

 「何のために」…これを見失うことは、信心を見失うことに通じるのかもしれない。

組織と「ロマン」

2010-08-25 01:40:28 | 書籍引用
 目標があれば希望がわく。希望があれば勇気がわき、活力がみなぎる。そこに、目標を立てて前進することの、一つの意味がある。

 《新・人間革命 第21巻 p.31》

…………………………

 下半期の開始にあたって、自戒を込めて。

 様々な戦いを起こす時、我々は具体的な数字を目標として掲げ、達成すべく奮闘する。
 
 そのこと自体は当然のことなのだが、それが「ノルマ」的に感じられてしまうようなことがあっては、何のための活動であるのか判らなくなってしまう。

 上記引用させていただいた部分を逆に言えば、「目標とは、希望が湧くようなものでなければならない」ということになると思う。
 数字ももちろん大事なのだが、それを達成すれば「勝利」で、達成できなければ「敗北」といったような短絡的な戦いをしていけば、組織は疲弊していくだろう。

 我々の戦いには、「ロマン」が必要なのだと思う。

 それを忘れずに偉大な歴史を築いて参りたい。

功徳と幸福

2010-04-06 14:21:23 | 書籍引用
 学会員たちはレジャーの時間を犠牲にして、学会活動に動き回り、人の反発を覚悟の上で折伏に精力を使う。(中略)なぜなら、「幸せになるために信心するのではなく、使命を果すことによって幸福になれるのである。使命を果すという一念のない限り、本当の幸せはない」(池田の指導)からである。そしてそのひたむきな努力の累積が、徐々にではあっても、やがて池田の指導する方向に近づかせることは間違いない。

《小林正巳著 「<現代人物論>池田大作」p.120~》

…………………………

 最近、とあるメンバーと話していて、感覚の違いに少々驚いた。
 「学会活動をするのは、功徳を受けられるから」と、彼は言うのである。
 
 まあ、それ自体は間違いではない。
 しかし、「功徳を受けること」と「自身が幸せになる」ことは、似ているようで別のことではないだろうか。

 我々が目指すところの幸福とは、「絶対的幸福境涯」であると思っている。
 それはつまり、環境に左右されることなく常に前向きに前進していける境涯を、自身の中に築き上げていくことだと思っている。
 最初に引用したご指導は、そのようなことを仰っているのではないだろうか。

 また、「功徳を受けられるから」信心をしていると、「もう充分いただいたから」「少しも功徳がなかったから」といった理由で退転してしまうことも考えられる。
 残念ながら、日蓮仏法・創価仏法はそのようなものではない。

 御義口伝には、【功徳とは六根清浄の果報なり】と前提されたうえで【悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり】とあり、「物質的な充足を功徳という」とは説かれていない。

 運動論も大事だが、もう一度基礎教学から学びなおすのもいいかもしれない。