学会員たちはレジャーの時間を犠牲にして、学会活動に動き回り、人の反発を覚悟の上で折伏に精力を使う。(中略)なぜなら、「幸せになるために信心するのではなく、使命を果すことによって幸福になれるのである。使命を果すという一念のない限り、本当の幸せはない」(池田の指導)からである。そしてそのひたむきな努力の累積が、徐々にではあっても、やがて池田の指導する方向に近づかせることは間違いない。
《小林正巳著 「<現代人物論>池田大作」p.120~》
…………………………
最近、とあるメンバーと話していて、感覚の違いに少々驚いた。
「学会活動をするのは、功徳を受けられるから」と、彼は言うのである。
まあ、それ自体は間違いではない。
しかし、「功徳を受けること」と「自身が幸せになる」ことは、似ているようで別のことではないだろうか。
我々が目指すところの幸福とは、「絶対的幸福境涯」であると思っている。
それはつまり、環境に左右されることなく常に前向きに前進していける境涯を、自身の中に築き上げていくことだと思っている。
最初に引用したご指導は、そのようなことを仰っているのではないだろうか。
また、「功徳を受けられるから」信心をしていると、「もう充分いただいたから」「少しも功徳がなかったから」といった理由で退転してしまうことも考えられる。
残念ながら、日蓮仏法・創価仏法はそのようなものではない。
御義口伝には、【功徳とは六根清浄の果報なり】と前提されたうえで【悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり】とあり、「物質的な充足を功徳という」とは説かれていない。
運動論も大事だが、もう一度基礎教学から学びなおすのもいいかもしれない。
《小林正巳著 「<現代人物論>池田大作」p.120~》
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最近、とあるメンバーと話していて、感覚の違いに少々驚いた。
「学会活動をするのは、功徳を受けられるから」と、彼は言うのである。
まあ、それ自体は間違いではない。
しかし、「功徳を受けること」と「自身が幸せになる」ことは、似ているようで別のことではないだろうか。
我々が目指すところの幸福とは、「絶対的幸福境涯」であると思っている。
それはつまり、環境に左右されることなく常に前向きに前進していける境涯を、自身の中に築き上げていくことだと思っている。
最初に引用したご指導は、そのようなことを仰っているのではないだろうか。
また、「功徳を受けられるから」信心をしていると、「もう充分いただいたから」「少しも功徳がなかったから」といった理由で退転してしまうことも考えられる。
残念ながら、日蓮仏法・創価仏法はそのようなものではない。
御義口伝には、【功徳とは六根清浄の果報なり】と前提されたうえで【悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり】とあり、「物質的な充足を功徳という」とは説かれていない。
運動論も大事だが、もう一度基礎教学から学びなおすのもいいかもしれない。
最近、ブログをはじめました。よろしくお願いします。
学会員さんのブログが、意外と少ないことに驚いています。検索すると、わたしの回りに、アンチ創価の人たちのHPやブログが並び、空恐ろしく感じるのですが、リンクしていただいている「そうかねっと」さんから、このブログにたどりつきました。
わたしは東京で活動している女子部ですが、学会3世です。両親に信仰の大切さを叩き込まれ、創大を卒業してから就職。仕事と女子部の第一線で奮闘しております。
そうですね。信仰とは主体的な自己を築くことだと考えるのですが、先生の基本的なご指導を、自分なりに良く考える必要がありますね。
また訪問させて下さい。
リンクしてよろしいでしょうか?
リンクの件、どうぞよろしくお願いいたします。
ただ…このブログのリンクの張り方が判らないため相互にならないことは、どうかご容赦ください。