思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

日興上人・日目上人

2007-08-30 00:38:37 | 書籍引用
 多角的な活動は皆さんに任せるとして、私は私の仕事をしなければなりません。令法久住のための仕事をしていかなければ大変です。それをやらずに死んだとしたら、そのあとは、いったいどうなるでしょうか。
 日目上人の場合には、国家諌暁に出かけて、その途中美濃の垂井で亡くなられてしまった。跡継ぎを定めておかなかったので、派閥ができている。
 日興上人の場合は、四十五歳で猊座を退かれて、重須談所で新六、本六を訓練して、令法久住のための大きな手を打たれました。そして実質的に三世日目上人に譲られたのは、亡くなる一年前でありました。このようにいろいろな方程式があります。
《池田会長講演集 第二巻》

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昭和45年1月25日、第122回本部幹部会での指導。

どこまでが正確かは判らないが、「日目上人は跡継ぎを定めていなかった」「45歳で猊座を退き、亡くなる1年前に日目上人に譲られた」という話には驚いた。




一人のために

2007-08-27 00:06:52 | 書籍引用
幹部になればなるほど恵まれた境遇となり、それがかえって本人を堕落させている場合があります。いくら座談会や会合で名演説をしてみても、一人の不幸な人を救えないようでは、妙法の指導者とはいえません。根底に折伏精神のない対話や指導は遊びにすぎません。それは仏法の真髄を濁らせていく遊戯雑談(ゆげぞうだん)であり、私はこのことを深く心配しております。

《会長講演集 第一巻 P.325》

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昭和43年9月の「在京ブロック担会」での指導。

今年の夏の最高協議会での指導にも、『大勢の前で話をして、拍手をもらって、広宣流布が進んでいると思うのは、幻想である。』と仰っていた。

常に心がけなければいけないことは、「一人のために」の精神。

それは40年前でも現在でも、全く一緒なのだ。

8/26付 小学生文化新聞について

2007-08-24 23:40:25 | 思索の断片

私は少年部を担当していることもあって、「小学生文化新聞」を購読している。

その中に、「師子王(ライオンキング)御書」というものがあり、少年部員会で拝読する御書が掲載されている。
しかし、8/26付の御書と解説を読んで私は愕然とした。そして、すぐさまEメールで抗議文を送ったのである。


8/26付の「師子王御書」では佐渡御書を取り上げられているが、その御文に出てくる『癩人』という言葉に、「治らない病気の人」という説明が付けられているのだ。

また、同じく6面の解説には「牛や馬などの動物や、治らない病気にかかっている人でさえ」という文章が出てくる。

御存じの事とは思うが、『癩病』つまりハンセン病は現在医学的には「治る病気」である。
確かに大聖人御在世には不治の病であったかもしれないが、そのような解説もなしに【癩病(癩人)は治らない】との説明をするのは、人権侵害といっても過言ではない。

さらにいえば、『癩人』の語句解説としては「病気の人」としても文意は損なわれなかったはず。それをわざわざ「治らない病気の人」としたのは余りに不見識である。

また、解説に「牛や馬などの動物や、治らない病気にかかっている人でさえ」という文章がある。これは、並列で表記する内容ではありません。
これでは「治らない病気にかかっている人」を「牛や馬などの動物」と同格にしていると受け止められても仕方ないだろう。

以前からこの「師子王御書」には首を傾げることが多かったが(特に解説)、今回のものはさすがに許しがたく思い、抗議文を送った次第である。

もしここを御覧の方の中に「小学生文化新聞」を購読している方がいらっしゃるなら、必ずハッキリと説明してあげてほしい。
切にお願いいたします。

自分らしく

2007-08-23 02:00:16 | 書籍引用
批判的な内容が続いたので、今回は私の好きな指導を。

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 御本尊を持(たも)った以上、たとえ現在がどのような境遇であろうと、幸福境涯に変わっていくことは間違いありません。ある人は悠々と、ある人は無我夢中に、ある人は悩みながら、ある人は忍耐強く、自分らしく進んでいきなさい。全部、御本尊が守ってくださいます。

《会長講演集 第二巻 P.126》

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昭和44年11月5日、関西センター開館式での講演。

言うまでもなく、人それぞれの境涯・宿命・使命がある。
だからこそ、「自分らしく進んで」いくことが大事なのかも知れない。

ちなみにこの指導が好きな理由は非常に私的である(笑)。

…妻が入会する時、入会式で言った言葉が「私らしく信心していきたい」であったのだ。

石田次男氏に関すること

2007-08-22 01:34:23 | 書籍引用
今回はやや補足的に、状況から推測されることを述べてみたい。

池田先生は昭和27年の1月下旬、蒲田支部支部幹事の任命を受けられている。
それは、伸び悩む折伏の進展状況を打破すべく、若き池田先生がある意味「初陣」として戦われた「二月闘争」の始まりであった。

池田先生はその戦いにおいて、当時支部100世帯前後という壁を大きく打ち破り、201世帯という誰もが驚愕すべき結果を出されたのだ。


さて、かわって石田次男氏である。

「第三代会長候補」と後世言われた石田氏は、昭和28年1月5日、小岩支部支部長に任命されている。

引用するのは、その交代式での戸田先生の講演である。

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私はむかしから小岩を愛してきた。いまもそうです。きょうから次男(石田)に支部旗を渡した。ふたりで支部旗を握って起ちました。小岩にだれもいなくなって、私と次男とふたりだけになってもかまいません。文京ではこんなことはいわなかった。しかし、小岩は事情が違う。

《戸田城聖全集 第四巻 P.8》

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石田氏の支持者はよくこの講演を引用する。
石田氏は、かくも戸田先生に愛され、信頼されていたのだと。

それでは、その8ヶ月後の9月30日に行われた幹部会での講演を記す。

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次に、蒲田がいよいよ千世帯を突破し、蒲田の一地区が小岩を破っている。支部長、地区部長、班長といえども、小岩以下の支部の幹部は、肚を決めよ。

《戸田会長全集 第四巻 P.82》

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蒲田支部は前年の勢いをそのままに発展を続けている様子がよく判る。
それに対して、小岩はどうも伸び悩んでいるようである。

もうお判りだろう。

池田先生は任命から1ヶ月で爆発的な結果を出した。

対して石田氏は、半年以上経っても結果を出せないでいたのである。

これをもって知るべきである。

どちらが「第三代」たり得たのか、実に明確ではないだろうか。

石田 次男氏 発言集

2007-08-21 02:28:11 | 書籍引用
皆様は「石田 次男」という方を御存じだろうか。

この方は、学会の中でもいろいろと華々しい経歴を持っているのだが、最終的には学会を脱会したはず(不確かな記憶だが)。

よく学会嫌いの人達が「石田次男は池田大作との権力闘争に敗れた」「本当は石田次男が第三代会長になるはずだった」などど言っているが、我々としては当時の事は記録でしか知ることはできない。

私の手許に『創価学会の歴史と伝統』と題する本がある。
この本は昭和50年から51年に聖教新聞に掲載された「座談会」をまとめたものであり、初代牧口先生、第二代戸田先生、そして第三代会長誕生までを様々な方が語っている。

その座談会で、石田氏がどのような発言をしているのか。
いくつか拾い上げてみたい。

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司会:ところで戸田前会長の入信ということですが、これは牧口初代会長の存在がなければありえなかったとも思われるのですが、この点はいかがでしょう。

石田:その通りです。牧口会長という人格に戸田前会長は師事した。牧口会長が信心しているから前会長も入信した。まさしく人生の師弟不二といってよい。私も戸田前会長に薫陶をうけながら、ながらく病気で倒れ、申し訳なく、慙愧に耐えない。これから真剣に報恩の決意を新たにしている。

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石田:今、つくづくと戸田前会長の巻頭言等をみると、創価学会の思想というものの出発点がどこにあったかが判明します。
「(註:ここで戸田先生の昭和24年の巻頭言を引用)」私なんか当時の聖教新聞の編集長として、先生の意中も知らず、勝手に論を展開してしまった。今思えば、申しわけない気持ちでいっぱいだ。

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司会:(略)恩師の陰にはつねに恩師をささえる池田会長の苦闘があった。

辻 :そうです。私などもアパートにお邪魔することがあったのですが、質素そのものの生活であった。それでいながら、恩師に対しては親せき等から金銭を工面してでも心配を最小限におさえて、構想を助けていったのです。

石田:そんなことはあまり知らないものだから、食事などにさそわれると、喜んでそれに甘えていたものです。少しでも小遣いができると、まわりの青年に心を配り、おいしいものをごちそうしてくれたのです。

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以上、数カ所に渡って抜粋してみた。

勿論これ以外にも発言はあるが、教学的・哲学的な内容には強い方だったように見受けられる。

意図的に自省的な発言を抜粋したわけだが、さて、本当にこの方が「第三代会長」になるはずだったのだろうか?

葬儀等について

2007-08-20 00:14:01 | 書籍引用
 日蓮正宗は葬式仏教ではなく生きるための仏教です。葬式に必ずしも御僧侶を呼ぶ必要はないのです。呼びたい人は呼んでもいいが、呼びたくなければ呼ばなくてもいい。このように日蓮正宗は、あらゆる宗教のなかで最先端をいくものであり、最高の近代性をもっているのです。
 これについては、総本山も「日蓮大聖人の根本精神につながった考えです」といっておりました。
 しかし、これも行き過ぎないようにして下さい。御僧侶を呼ぶかどうかは、本人や家族の意志で決めることです。御僧侶を呼ばないと、なんとなく心細いという人もありましょうし、そういう人に呼んではいけないなどといってはなりません。ただ、幹部が葬式の合理化について聞かれたような場合、なにも受け身になる必要はない、保守的に封建的に考える必要はない、という意味で申し上げたわけであります。
《池田会長講演集 第一巻 P.367》

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先日と同じ本部幹部会での指導。
昭和43年にこのような指導があった事は、ある意味驚くべき事だと思う。

平成の世になり、宗門から破門された創価学会に対して「葬儀に僧侶を呼ばないと成仏しない」と言った日蓮正宗関係者の、何と多かった事か。

さらには、このように続く。

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 同志が亡くなった場合の葬式の折り、親しい人達が集まって夜遅くまで唱題したということをしばしば聞きます。
 成仏の相にさせてあげたいという、純粋な気持ちはよくわかりますが、成仏は、あくまでも生前の本人の信心で決まるものであります。学会として年に二回の追善供養もあることだし、お通夜の際は、親族の心労を少なくする意味からも、真心の唱題をして適宜早くおいとまするようにしていきたい。

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塔婆供養に関する指導

2007-08-19 00:45:20 | 書籍引用
 次に、これは総本山とよく相談をした結果をお伝えするわけですが、塔婆供養について一言申し上げたい。
 というのは、従来、人によっては、五本も十本も塔婆をたてて追善供養してきたケースがありましたが、原則は一本でいいのです。後は回向料として、御供養すればよい。
 こういう細かなことをいうのは、日蓮大聖人の仏法が、末法万年にわたって、永遠に合理性をもち、近代的であるからです。事実、御書をみても、塔婆を何本立てなさいという指導はどこにもありません。
 でないと、世間の人達が、日蓮正宗創価学会を、葬式仏教となりさがった既成仏教と同一視してしまう可能性さえあります。わざわざ世間の人の不信を買い、法を下げる結果を招いてしまうのです。塔婆は一本と決めておけば、すっきりします。裕福な人も貧しい人も平等なのが真の仏法です。
《池田会長講演集 第一巻 P.363》

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昭和43年11月度本部幹部会での指導。
注意するべきは、これは決して「塔婆供養が必要である」という指導ではないということ。
「立てるなら一本」との指導である。

何故そのような指導がなされたかといえば、十本もの塔婆を立てることを勧める寺院があったからと推察される(文中にもある通り)。
それについて総本山との話し合いの結果、一本でよいとなった、ということだろう。

しかし、昭和43年にそのような指導があったにもかかわらず、「先祖の人数分立てないと意味がない」と主張する寺院が無くなることはなかった。

なお、この後には「シキミ」に関する指導もあり、そこではこう述べられている。

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 これについても、御書にはシキミでないといけないとは書かれていません。あくまで後世になって、形づくられた化儀なのです。化法は御本尊に題目をあげることであり、折伏、教学が第一義であり根本であります。あとは、全て化儀であり、時代に即応して形式を変えても許されるのです。
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そして、塔婆も化儀である。


改めて御挨拶申し上げます。

2007-08-18 23:58:38 | 思索の断片
那由他 楽人(なゆた がくじん)と申します。

このブログは、創価学会員である私の様々な思索、さらには学会書籍等から御紹介したい文章を掲載させていただくことを目的とします。

じつは半年程前に立ち上げたブログでしたが、数回の投稿で放置状態になっておりました。

今回、主旨を改めて再開することにしたため、今までの記事は削除し新しいブログとしてスタート
を切ることにしました。

とはいえ、まだまだ若輩者であります。
至らない点もあるかと思いますので、どうぞ皆様、御指導御鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。