思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

人生対談 2

2008-09-24 00:49:27 | 書籍引用
 宮本:私たちの組織についていえば、五十余年前の政治的な無権利と侵略戦争礼賛の暗黒期に、戦争と専制支配に反対し、政治的自由を要求しつつ、民主日本の実現と、さらに社会主義日本へという展望を掲げました。もちろん、いまからみれば、実際の運動にはさまざまな未熟さが当然伴ったにしても、この大局的展望は真理であるという確信が、ひどい迫害の中でも、たえず組織を守り抜こうという最大の生命力でした。

 池田:なるほど、それは組織の前提として大切な要件だ。組織の目的、理想、理念が独善的なものでなく、万人に開いた普遍的にして人間性の陶冶に貢献しなければならないことはいうまでもありません。また、それなくして組織が発展するわけもないでしょう。
 それを大前提として、私は組織の理想的なあり方として、少し角度は変わるかもしれませんが、希望と夢がなければならないと思います。やはり、ロマンがないと人間的充足が欠けてきて、持続的発展は難しいのではないですか。もちろん、そのロマンが、宮本さんもいうように、戦前の”大東亜共栄圏”のような、その組織、あの場合は国でしたが、それ以外の人々の犠牲と抑圧をしいるものであっては論外ですけれど……。
 その上で、理想的な組織のあり方としては、第一に組織のめざす理想、理念、思想が、すべての成員に浸透していることですね。理念や思想が特定の人に独占され、他の大部分の人々がその特定者に従う以外にないという行き方では、権威主義に陥り、円滑な自発的な前進はありえないでしょう。
 第二に、各人がその人間的資質に応じて最適の位置を得ていること。資質に合わないところにいると、本人にとって苦痛であるのみならず、他の人々にも迷惑をかけ、組織全体の機能が麻痺してくるからです。
 第三に、組織上の立場に違いはあっても、理想、理念のもとには平等であり、他があって自己があるという、相互尊敬の精神に貫かれていることだと思います。

 宮本:組織の理想的なあり方、また、それに活力を与える問題、それは組織が強大になった場合の問題も含めてもよいのですが、一にも二にも正確な方針を持って、組織の成員に対しても、また支持する人々に対しても、社会的にも偏向をおかさないということだと私は思います。
 私たちは、その見地から、再出発した第七回大会以来三年間、正確な綱領を自分たちの頭で作るのに全力をあげました。討論誌まで作って全党的な公開討論を組織し、全党の知恵と経験を結集して練りあげました。それ以後、正確さということを絶えず厳しく求めています。もちろん、完全ということは難しいことですが、最大限それに近付く努力は惜しまないということです。

 池田:方針を全員の意志で練り上げていくというのは理解できます。ところで、さきほどの調和ということと関連して、私が、いまの組織の問題でいちばん考えていることは、とかく運動が多角的になると、その個々の活動の中に、草創の原点というべきものも見失いがちになることです。
 これは、組織が発展すればするほど起きてくる問題です。私は、これを求心力と遠心力という関係でとらえている。つまり、どのように運動が多岐になり、組織が発展しても、常に原点に立ちかえる求心力がなければ、官僚主義、権威主義に陥ってしまう。
 「根深ければ枝しげし」の法則どおり、たえず深い求心力から大きな遠心力が回転することを忘れてはならない。
 創価学会の場合も、世界的な視野の活動をするとともに、いつも、私が心がけていることは、われわれの原点である日蓮仏法を一人一人がどう再開発していくかということにあります。

 宮本:組織の発展ということは、当然、その組織の立つ基礎的理論が妥当性を持つものでなければなりませんが、私たちの場合、科学的社会主義、マルクス・レーニン主義を基礎理論としています。それは、社会の合法則的発展を促進する科学という本来の原理、原則の立場から、日本の現実に創造的に新しい探究として生かしていくということが、決定的に大事だと考えております。だから、あなたが日蓮の教義の「再開発」に努めているといわれている点は、立場は違っても興味深いものがあります。

《人生対談 p.49~53》

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このくだりは実に興味深く、大事な視点がいくつも語られているように思う。
以前に書いた池田先生と宮本委員長の(または創価学会と日本共産党の)本質的な思想性の違いが、見て取れるのではないだろうか。

また、ここで池田先生が述べられていることは、今の組織にとって非常に大事な点だと思う。
どこまで行っても、創価学会は「ひとり」が大事であり、「互い」が大事なのだと痛感する。

ところで、「違い」を最も象徴的に表現していると思う部分は、次の点である。

『池田:…われわれの原点である日蓮仏法を一人一人がどう再開発していくか…』
『宮本:…あなたが日蓮の教義の「再開発」に努めているという点は…』

この部分、はっきりいうと噛み合っていない。
「日蓮仏法を『一人一人が』どう再開発して」という池田先生の言葉も、宮本委員長の耳には「日蓮の『教義の』再開発」に聞こえるのだ。
ここに、「組織こそ最優先」とする思想性と「個人が最も大事」とする思想性との明確な違いが浮き彫りになっている。

もう一歩踏み込んでいえば、「組織こそ最優先」となってしまえば、それは創価学会の思想ではないということである。

戒めていかねばならない点だろう。

「小噺」大八木淳史さん

2008-09-19 22:57:06 | 小噺
新しく「小噺」(こばなし)というカテゴリーを追加した。
ここには、私が耳にしたいろいろな話(噺)を記していくこととする。
ちなみに記憶だけが頼りなので、事実と違う部分もあるかもしれないが(苦笑)、どうか御容赦を。

第1回目は、ラグビーで有名な大八木淳史さんの話。

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神戸製鋼で現役のラガーマンだった頃のこと。
当時大八木さんは、後ろの髪の一部を長く伸ばして編むという髪型で、それがトレードマークとなっていた。

そんなある日、一通の手紙が届く。

大八木さんのファンだというその高校生は、「大八木さんの自由な髪型に憧れます」と書いていた。
それを読んだ大八木さんは、すぐにトレードマークの後ろ髪を切り落としたという。

「これは自由なんかじゃない。勝手気ままというんだ」と。

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人生対談

2008-09-15 21:41:42 | 書籍引用
宮本:池田さんの自伝を読むと、戦争で肉親を奪われた多感で勉強好きの青年として、生活と病気でも苦労されています。社会主義運動に入られてもおかしくないようなあなたが、創価学会に入られた動機は何ですか。

池田:全く宗教人らしくなくて、奇異に思われますか(笑い)。自分でも、もともと宗教にはほとんどといっていいほど関心がなかった。まして今日、このようなことになろうとは、夢にも思っていなかったんですよ(笑い)。結局、私の場合、戸田前会長という一人の人間との出会い以外にはないんです。学会に入ったのが十九歳の夏でしたが、そのころ戦災のあと東京大森の森ヶ崎に住んでいました。そこへ、友人から哲学の会合があるからと誘われて、仲間の友達と連れだって行ったのが、実は学会の座談会で、そこで初めて戸田前会長に会ったのです。道を模索していた私にとって、戸田城聖なる人の言動と、生き生きとした魅力的な仏教の講義は衝撃的だった。私は、この人の言っていることは本当だ、この人なら信じられると直感しました。単に言葉だけでなく、初対面ながら何かしら深い親しみの情感がこみあげてきました。その会合から十日後に、自分から入会したのです。

宮本:(うなずく)

池田:しかし、クレオパトラの鼻が低ければ…という話ではないが(笑い)、もし戸田城聖との出会いがなければ、宮本さんのいわれるように、社会主義運動に入っていたかもしれませんね(笑い)。

宮本:惜しいことをした(笑い)。

《人生対談 p.18~》

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ちょうど同じ内容のことを、先日メンバーと語っていた。

確かに「法に依って人に依らざれ」ではあるが、人を介さずに法が広まるわけではない。
やはり、我々一人一人が自身を磨くこと、魅力ある人間へと成長すること、「何か違うな」と思わせる人物へと深化することが大事なのではないだろうか。

「池田大作 宮本顕治 人生対談」

2008-09-14 00:30:54 | 思索の断片
以前から入手したいと思っていた「池田大作 宮本顕治 人生対談」を入手した。

こう言っては何だが、この対談は『池田大作全集』には収録されないのではないかと思っている。
やはり現在の一般的な学会員の感覚からいえば、「池田先生が日本共産党幹部会委員長と対談している」というのは、ある意味衝撃ではないかと思うからだ。
だから、どうしても手許においておきたかった。

この「対談」の存在を知ったのは、いわゆる「創共協定」について調べていた時である。
私が読んだ本によると「意気投合した対談だった」ということだが、その内容を知りたいと思ったのだ。
読んでみて、実に興味深かった。
これ以降、何点かに分けて紹介させていただこうと思っている。

全体的にいって、もちろん意見が一致する所もあったが、ほぼ合わない所もあった。
象徴的だったのは『組織について』という章。

大雑把に書くと、池田先生は ”どんな組織にも組織悪が生まれる。しかし、人間が構成している組織であるのだから、一人一人の人間革命によって組織を改革していける”という趣旨のことを主張なさるが、宮本委員長は ”組織悪というものではなく、そもそもその組織が目指す方向性が誤っているのである。組織悪ではなくて悪組織なのである”という論調で、平行線となるのである。
この点に、創価学会と共産党との本質的な違いが含まれているように感じる。


功徳と罰

2008-09-05 21:49:45 | 書籍引用
問:火災を起こし家が焼けてしまいました。これは罰だと思っています。また同時に、これは、いっそう信心していくための功徳ではないかとも思います。この罰と功徳について教えてください。

答:妙法の信心に立った場合は”罰即利益”です。事故、火事にあったということは罰だ。しかし、その罰も、信心があるならば、宿命転換の因となり、変毒為薬されて利益になる。
 たとえば法華経以前、爾前経においては、十羅刹女にしても、また鬼子母神にしても悪鬼である。
 だが、法華経にはいると、十羅刹女も鬼子母神もぜんぶ”善鬼”に変わってしまう。法華経の信者、法華経の行者を守る鬼になるのである。
 このように妙法が根本、すなわち信心が根本になった場合には、いっさいが変毒為薬される。罰即利益に変わる。これが妙法の原理です。
 ですから、その火災は、宿命転換のこれからの大福運を積んでいく瑞相であると確信していくべきだ。罰であるか利益であるかを観念的に悩んでも解決にはならない。
 地区員の方々にも”いやあ、えらい罰をうけた。けれども、罰即利益、変毒為薬で、立派に大功徳をうけてみせるから見ていてくれ、いっしょにがんばろうではないか”と、こういうふうにいいきれるようでなければなりません。それをいいきっていける信心であるならば、そのとおりになる。これが一念三千の法門です。罰即利益と確信しきっていきなさい。罰だからといって、いたずらに恐れるのではなしに、”利益の大前提なのだ!福運をもてるのだ”と確信しなさい。早く、よくなった姿を見せてください。
 Oさんという人で、大阪のほうで事業をやっている人ですが、やはり、火事になった。しかし、御本尊だけは奉侍して災難をまぬかれた。
 そして御本尊を疑わず、”かならず宿命転換してみせる、変毒為薬してみせる”と決意して、信心をつづけていった。
 いま、事業は隆々たるものです。本人も理事になっています。
結局、事故や災難があったときに、御本尊を疑わず、信心に励んだ人は結果がよくなっている。少しも御本尊を疑わず”変毒為薬しきろう”という決心をもって進んでいきなさい。

《池田大作著 「指導集 質問に答えて」 p.211~p.213》

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これこそ本当の意味での「楽観主義」なのだと思う。