思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

新池御書の違和感について

2022-07-10 10:54:00 | 思索の断片
『譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき』

信心において大事な心構えを示されている新池御書の一節である。
思うところがあって調べたところ、新池御書には日蓮在世当時にはなかった寺院の名前が出てくるため、偽書説が濃厚であるとのことだった。
ただ、私が違和感を抱いたのは、最初に引用した部分に関することである。

文永6年、京都へ布教に行った日蓮の弟子である三位房日行に対して、日蓮は「法門申さるべき様の事」と呼ばれる御書を送られている。
その中で日蓮は、京都へのぼって生活するうちに「京法師」のようになってきた三位房を「きっと言葉や発音なども京なまりになっているだろう」等と、貴族社会に染まりつつあるその姿勢を厳しく批判している。そのうえで「言葉づかいは田舎言葉であるべきだ」とされ、東国の出身であることを誇りに思うように指導されているのである。

その日蓮が、例え話だとしても「京の都の月を眺められるであろうか」などと、ある種の京の都への憧れを感じるような表現をするだろうか。
確かに、文永6年と弘安3年の間には10数年の開きがあるが、それでもやはり新池御書のこの表現には違和感を感じざるをえないのである。

コメントを投稿