思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

師匠利用の輩

2009-01-25 14:31:42 | 思索の断片
先日より、故あって「新・人間革命」を第一巻より再読している。
現在第三巻を読み終わるあたりだが、先生が魂を込めて書いてくださったものを心に刻めていないことを、心底申し訳なく思う。また、さらに自覚し、実践していく決意である。

さて、現在もいくつかの学会系の掲示板では、いわゆる「沖浦問題」が延焼中である。
沖浦氏は、自分の主張について異見を出されると、その内容の如何を問わず反発し、「宗門教学を抜け出せていない」というように揶揄を加える。
そして、自分の主張を裏付けるように、池田先生のご指導を引用する。

ここが問題なのだ。
氏のやっていることは、『師匠利用』なのである。

沖浦氏は、「私の師匠は池田先生です」という。
しかし、そのやっていることは「『池田先生』を利用した自説への権威付け」であり、「師匠を利用した反対意見への攻撃」に過ぎない。

何故か。

沖浦氏の主張は、「まず自説ありき」なのである。
その自説への補強として、先生のご指導を利用しているのだ。
それゆえ、自説に合わない(もしくは自説に反する)先生のご指導については、「黙殺」するのである。

はたしてそれは、本当に「弟子の姿」なのであろうか。
師匠の仰ったことを自分の都合で取捨選択することが、「弟子のあり方」なのであろうか。

さらには、先生の指導を歪曲する。
先生が全くそのような趣旨で仰っていないことを、自説の正当性を証明するために歪曲するのである。
正直に申し上げて、私は沖浦氏の「先生のご指導を引用しての書き込み」を読んで、吐き気がした。
逆の言い方をすれば、歪曲しなければ「先生のご指導通り」にはならないということであり、沖浦氏の自説が根拠薄弱であるということにもなるのだろうが。

以上のようなことは、掲示板でも既に書き込まれていたこともあったので、そちらをご覧になった方には「何をいまさら」という感じかもしれない。
しかし、いまだに沖浦説を(あるいは沖浦氏を)支持する方もいらっしゃるようなので、はっきりと書いておきたいと思った次第である。

氏のしていることは、ヒューマニズムに名を借りた「自身の優越性の誇示」に過ぎない。

誇大自己症候群

2009-01-18 03:35:32 | 書籍引用
先日、図書館へ行った際に見つけた本。
本当は、読み終わってから抜粋してご紹介しようと思っていたが、徐々に始めていこうと思う。

著者の岡田尊司氏は精神科医で、発刊された2005年の時点では京都医療少年院に勤務なさっている。
内容としては、現代の「普通」の子供が重大な事件を起こすことについて、従来の精神医学的手法では捉えられないため、新たな観点から分析したものとなっている。
しかし読み進めていくと、それが決して子供に限ったものではなく、大人や社会全体が抱えている問題だということが判る。

では、部分的に抜粋していく。

…………………………

 「疾患」とか「障害」という枠で問題をみようとすると、どの疾患にも障害にもぴったり当てはまらなかったり、正常と判定されたりするわけである。
 だが、もしかしたら事実は逆ではないだろうか。この「疾患」「障害」という枠組みに当てはめようとすることに、そもそも無理や限界があるのではないのか。そうした思いが、これらのケースに触れれば触れるほど強まってくるのである。
 精神医学が「正常」と判定するにしろ、さまざまな診断名の下に「異常」と判定するにしろ、従来の疾患概念を横断する、共通の病理が根底に見出されるとしたら、個々の「疾患」ではなく、この底辺を貫く病理こそが起きている問題とより深く関わっているのではないのか…。
 そうした思考過程を経て、肥大した万能感や病的な驕り、ファンタジー優位な傾向、他者の痛みに対する共感性の乏しさ、反省や自己制御の欠如といった特徴を備えた一連のケースが、一つの連続性を持つ症候群であり、従来の「疾患」枠の方が、起きている現象を捉え切れていないのではないかと考えるようになった。縦割りの「疾患」ではなく、より底部を横断している共通する病理が、人々や社会を悩ませている問題の本質なのではないかとの思いが、次第に強まってきたのである。
 ここで、現実に不適応を引き起こすほどに肥大した万能感と他者に対する驕りを特徴とする、この一連の症候群を、「誇大自己症候群」と呼ぶこととする。
(P.31)


 誇大自己症候群の人は、一見すると「いい人」にみえたり、とても真面目で控えめな印象を与えたりすることも多い。第一印象では、一般の人は欺かれがちである。逆に、好印象をもってしまうことも多い。カリスマ性という点では、誇大自己症候群の人は、優れた素質をもっている場合もあるので、魅了されてしまうこともある。しかし、巧妙にカモフラージュされていても、誇大自己症候群は自ずと現れ出る。どういうところで誇大自己症候群が明らかになるか、いくつかのポイントを述べてみたい。

 ①自分のこと、自分の関心のあることばかり話したがる。逆に、自分のことが話題になるのを極力避けようとする。
 ②大げさな表現や大きなことを口にしたがる。ありふれたことではなく、普通の人が言いそうにないことを、さらっと言ったりする。意表をつくような、周囲があっというようなことをすることがある。どこか現実離れをした話をしたがる。
 ③理屈っぽく、理詰めで話をする傾向がある。すぐに法律や専門的な知識を持ち出して、物事を論じようとする。話し方にも、自然な感情や思いやりに乏しい。逆に、感情を過度に煽るような、少し芝居がかったしゃべり方をする場合もある。
 ④過度に丁寧だったり、過度に傲慢な態度をとる。最初は緊張が強く、よそよそしくて警戒的だが、いったん話し出すと、ぺらぺらとよく喋り、急になれなれしい態度をとる。まだ、よく知らないのに、過度に相手のことを理想化したり、褒めたりすることもある。
 ⑤少しでも自分の言ったことにケチをつけられたり、軽くあしらうような言い方をされると、そこにこだわった反応を示したり、顔色が変わる。
 ⑥自分のやり方にこだわりが強く、融通が利かない。物事の見方や関心、視野、活動領域、価値観が過度に固定し、それを広げようとしても強く抵抗する。潔癖で完全主義の傾向がみられる。
 ⑦家族や身内を過度に理想化しているか、過度に嫌っている。友達に対しても、心から信頼するというよりも、どこか表面的だったり、自分の都合で相手を利用しようとする。
 ⑧些細なことで機嫌を損ね、立腹する。そんなときは、普段とは全く別人のように、態度が豹変するのが特徴である。
 ⑨気まぐれに、考えや決定がころころ変わる。だが、相手が決めることは好まず、自分が決定権をもとうとする。
 ⑩相手によってひいきをしたり、態度が違う。従順で思い通りになる相手は、お気に入りであるが、自分の意思を持った存在には、批判的で激しく嫌う。
(P.206)

………………………………


青年とは

2009-01-06 15:44:05 | 書籍引用
青年は革命の主体であり、潮流である。(講演)

    *

青年時代の理想を一生持ちつづけて実践する人が、人間として最も価値ある人である。(巻頭言)

    *

青年らしくとは、清潔、情熱、そして正しい批判力を持つことである。(指導)

    *

いかなる時も、何処にあろうとも、燦爛たる太陽のごとく明朗に、天空を翔る若鷲のごとく闊達に、大海のごとく包容力豊かに、然して時来たらば、決然として起ち、疾風怒濤のごとく邪悪と戦う青年であれ。(巻頭言)

    *

青年は目が大事である。青年は目が澄んでいなくてはいけない。(指導)

    *

青年期の樹は、枝も繁っていないし、果実の実りも少ない。大木になっていくための根を深く張る時期なのだ。(指導)

    *

人生を基礎づけるのは、青年期である。青年時代の五年、十年の信心、修行が、じつに一生を決定し、永遠を決定する。(講演)

    *

青年期とは、将来の人間形成のため、悩みと戦っていく時代の異名である。(巻頭言)

    *

求道心がない人の青春は、爾前迹門の青春であり、化城の如く消えゆく青春だ。
これに比べて仏道修行をしながら、人を救い、衆生所遊楽し、福運を積んでゆける青春こそ、生涯の建設に通ずる真の青春である。(講演)

《池田大作著 「指導要言集」P.2~》

…………………………

昭和43年10月に発行された「指導要言集」青年の章より、抜粋させていただいた。

いずれも、我が生命と肉体に刻みつけ、本年一年を戦って参りたい。

法華経を読んでみて

2009-01-05 12:49:32 | 思索の断片
ご覧の皆様、明けましておめでとうございます。
週に一度の更新を心がけてまいりますので、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

……………

さて、昨年初めて法華経を通読した。
といっても、私の学力では漢文を読んで理解できるはずもないので、岩波文庫から出版されている坂本幸男・岩本裕の両氏による梵漢対照訳の法華経を読んだのである。

何といっても「ド」が幾つも付くほどの素人なので、読んだが理解できないところも多々あった(ほとんどと言ってもよいかもしれない)。
その中で思ったことや、今まで思っていたことと違う面も発見したので、いくつかに渡って書いておきたいと思う。
中には「素人丸出し」なこともあるだろうが、どうかご容赦願いたい。

まずはじめに意外に思ったことは、「各品によって長さがまるで違う」ということだった。
長いものと短いものでは、何倍もの差があったのだ。
さらに内容を読んでみて驚いたのは、その内容を読む限りでは「釈尊が法華経を説いた」という言葉は不適切に思えたことである。

いや、誤解を招く表現だったかもしれない。
「釈尊は法華経を説いていない」と言いたいわけではなく、「釈尊の説法をまとめたものではない」という意味である。
私は法華経を読むまで、なんとなく「説法をまとめたものだ」という認識をしていた。
いつも読誦する方便品・寿量品は、どちらかといえば釈尊が語った言葉がメインになっているが、品によってはほぼ釈尊の言葉がないものもある。
つまり、霊鷲山(或いは虚空会)において、釈尊が大衆を集めて語った説法をまとめたものではなく、その「情景」を綴ったものというほうが適切だということである。

もちろん、私は「釈尊は晩年の八年間で法華経を説いた」と思っているわけではない(それを知った時は驚いたが)。
大事なのは「誰が説いたのか」ではなく「何が説かれているか」ということだと思う。
以下、雑記的に思ったところを記しておきたい。

☆数箇所にわたって論調が変わる部分があるため、やはり法華経は何度かに分かれて成立したのではないかと思える。
☆陀羅尼品には驚いた。あのような呪文的なものが法華経に含まれているということが意外だった。ここで羅刹女が法華経の行者を守護する件が出てくる。
☆「福子」という言葉が出てきていた(法師功徳品「安楽産福子」)。福子という言葉はここから引かれているのだろうか。
☆一眼の亀の話が妙荘厳王品に出てきた。
☆薬王品にはある浄土が出てくるが、そこは「女性の姿はなく」「彼國無有女人」といわれている。その後に女人の往生が説かれるが、そこで絡んでくるのは阿弥陀仏である。

今はまだどこから思索すればよいかすら判らない状態だが、少しずつでも自分なりに進めていけたらと思っている。