先日より、故あって「新・人間革命」を第一巻より再読している。
現在第三巻を読み終わるあたりだが、先生が魂を込めて書いてくださったものを心に刻めていないことを、心底申し訳なく思う。また、さらに自覚し、実践していく決意である。
さて、現在もいくつかの学会系の掲示板では、いわゆる「沖浦問題」が延焼中である。
沖浦氏は、自分の主張について異見を出されると、その内容の如何を問わず反発し、「宗門教学を抜け出せていない」というように揶揄を加える。
そして、自分の主張を裏付けるように、池田先生のご指導を引用する。
ここが問題なのだ。
氏のやっていることは、『師匠利用』なのである。
沖浦氏は、「私の師匠は池田先生です」という。
しかし、そのやっていることは「『池田先生』を利用した自説への権威付け」であり、「師匠を利用した反対意見への攻撃」に過ぎない。
何故か。
沖浦氏の主張は、「まず自説ありき」なのである。
その自説への補強として、先生のご指導を利用しているのだ。
それゆえ、自説に合わない(もしくは自説に反する)先生のご指導については、「黙殺」するのである。
はたしてそれは、本当に「弟子の姿」なのであろうか。
師匠の仰ったことを自分の都合で取捨選択することが、「弟子のあり方」なのであろうか。
さらには、先生の指導を歪曲する。
先生が全くそのような趣旨で仰っていないことを、自説の正当性を証明するために歪曲するのである。
正直に申し上げて、私は沖浦氏の「先生のご指導を引用しての書き込み」を読んで、吐き気がした。
逆の言い方をすれば、歪曲しなければ「先生のご指導通り」にはならないということであり、沖浦氏の自説が根拠薄弱であるということにもなるのだろうが。
以上のようなことは、掲示板でも既に書き込まれていたこともあったので、そちらをご覧になった方には「何をいまさら」という感じかもしれない。
しかし、いまだに沖浦説を(あるいは沖浦氏を)支持する方もいらっしゃるようなので、はっきりと書いておきたいと思った次第である。
氏のしていることは、ヒューマニズムに名を借りた「自身の優越性の誇示」に過ぎない。
現在第三巻を読み終わるあたりだが、先生が魂を込めて書いてくださったものを心に刻めていないことを、心底申し訳なく思う。また、さらに自覚し、実践していく決意である。
さて、現在もいくつかの学会系の掲示板では、いわゆる「沖浦問題」が延焼中である。
沖浦氏は、自分の主張について異見を出されると、その内容の如何を問わず反発し、「宗門教学を抜け出せていない」というように揶揄を加える。
そして、自分の主張を裏付けるように、池田先生のご指導を引用する。
ここが問題なのだ。
氏のやっていることは、『師匠利用』なのである。
沖浦氏は、「私の師匠は池田先生です」という。
しかし、そのやっていることは「『池田先生』を利用した自説への権威付け」であり、「師匠を利用した反対意見への攻撃」に過ぎない。
何故か。
沖浦氏の主張は、「まず自説ありき」なのである。
その自説への補強として、先生のご指導を利用しているのだ。
それゆえ、自説に合わない(もしくは自説に反する)先生のご指導については、「黙殺」するのである。
はたしてそれは、本当に「弟子の姿」なのであろうか。
師匠の仰ったことを自分の都合で取捨選択することが、「弟子のあり方」なのであろうか。
さらには、先生の指導を歪曲する。
先生が全くそのような趣旨で仰っていないことを、自説の正当性を証明するために歪曲するのである。
正直に申し上げて、私は沖浦氏の「先生のご指導を引用しての書き込み」を読んで、吐き気がした。
逆の言い方をすれば、歪曲しなければ「先生のご指導通り」にはならないということであり、沖浦氏の自説が根拠薄弱であるということにもなるのだろうが。
以上のようなことは、掲示板でも既に書き込まれていたこともあったので、そちらをご覧になった方には「何をいまさら」という感じかもしれない。
しかし、いまだに沖浦説を(あるいは沖浦氏を)支持する方もいらっしゃるようなので、はっきりと書いておきたいと思った次第である。
氏のしていることは、ヒューマニズムに名を借りた「自身の優越性の誇示」に過ぎない。