思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

人間主義と対話

2008-01-30 01:28:40 | 書籍引用
 戸田会長の悟達は、仏法こそが人間の無限の可能性を最大限に実現しうる人間主義であるとのインスピレーションを得て、それを体得されたのだと思います。人間主義とは、東洋思想の英知に見てきたように、人は個人的な真空状態にあるのではなく、他者との関係性においてのみ成立するという考え方です。つまり、他者との関係がなければ、自分は存在できない。しかし、戸田会長は、仏法はそれでもなお人間の無限の可能性を実現できることを悟りました。
 ではどのようにして、実現していくのか。
 人は他者との関係性なくしては存在し得ないのですから、他者との関係性を形成する手段をもって、人間の可能性を実現するしかない。
 他者との関係性を形成する手段とは何か。
 それこそが”対話”なのです。対話をおいて他に、自己実現を可能にする人間主義を確立する方策はないのです。逆にいえば、対話こそ、自己実現を可能にする人間主義を成立させる仏の智慧なのです。

《潮 2月号P.199 ニコラス・ガイヤ 「対話」において偉大な模範を示す池田会長 より抜粋》


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「潮」には、けっこう学べる内容が多く掲載されている。
引用したものも、要約すれば『”対話”こそが「縁起」を生み出す手段である』といったあたりか。


「宗教的使命」と「人間的使命」

2008-01-16 23:50:38 | 書籍引用
新たな船出となる本部総会(昭和47年11月)で、会長(註…池田会長:当時)は力説している。
 「本年より西暦2000年までには、ぜひとも人類の滅亡を食い止めるだけの平和勢力を築き上げておきたい」
 それは並々ならぬ決意であった。
 その後の会長の行動、ことに国際的活動の軌跡をたどってみるならば、「第一章」とは決定的な違いが、際立ってくる。中ソ両国への友好交流がそれである。
 (中略)
 同じ本部総会の席上、会長が呈示した「宗教的使命」「人間的使命」という視点は、極めて重要な意味を持っていた。
 信仰者としての「宗教的使命」に対して、社会人として果たすべきものが「人間的使命」である。いくら「宗教的使命」といっても、社会的使命を果たしてこそ実現するのだ、というその主張は、人々の目を大いに開かせた。
 むろん、文明史的なスケールを持つビジョンである。したがって、なにも社会主義国との交流を肯定するためだけに、持ち出されたわけではないだろう。
 しかし、宗教者がめざすのは、単に信仰活動だけではない。平和、文化、教育等にかかわる運動をも使命とすべきである、というからには、自由主義国だけが舞台ではあるまい。当然のことながら、社会主義国の人々との親しいお付き合いも、含まれていなくてはならなかったはずであった。

《吉村元佑著 人間の中へVol.6 池田大作と「生命の世紀」 P.80~81》

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現在再読している本より抜粋。
私は、この「人間の中へ」シリーズをよく再読するのだが、このVol.6は唯一「第二次宗門問題」後に発売されたものである。

引用させていただいた部分は、創価学会の本質を知る上で重要な内容だと思っている。

理屈ではなく「悲しむ民衆を生み出さない」ために奔走された池田先生を”師匠”とするからには、それを我々の上に具現しなければ意味をなさない。

「正しい信仰」をしているからこそ、「正しい行動」がある。
逆に言えば、「正しい行動」がなければ、「正しい信仰」とは言えないのである。

その「正しい行動」とは何か。

様々なことは言えると思うが、はっきり言えることは「唯受一人血脈の御法主上人猊下を尊敬申し上げる」といったことではないということだ。
権力に随従することは、決して人間主義とは相容れないのである。

「人間の中へ」シリーズは、学会の歴史を知る上においても是非とも読んでいただきたい本である。

「衆流あつまりて大海となる」

2008-01-10 23:25:18 | 書籍引用
 皆さまの、よくご存じの通り、ドミニカが独立を勝ち取ったのは1844年。その確かな淵源は、この6年前に結成された、わずか9人の青年たちのグループにあったといわれている。彼らは、外国支配の束縛から独立し、自由と自治の共和国建設のため、立ち上がったのである。
 彼ら9人は、まず3人ずつ3つのグループに分かれた。そして、一人がさらに3人ずつ同志を増やし、そのまた一人が3人の同志をつくり…という戦いを繰り返した。そうした粘り強い、着実な前進を通して、5年間のうちに彼らは、島の各地に、また社会の各分野に、力強いネットワークを広げていったのである。
 彼らは、「建国の英雄」ドゥアルテを中心に、”ドミニカ共和国”の建設のために自らを捧げることを誓いあい、団結した。この運動に、ドゥアルテとともに「建国の三傑」ともたたえられるメジャとサンチェスも加わった。
 このようにドミニカ独立の原動力も、はじめは小さく、決して華やかではない、少数の青年たちの情熱と団結によったのである。

《池田大作全集 68巻 P.256》

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昭和62年2月9日、ドミニカ会館で行われた「ドミニカ広布21周年記念勤行会」でのスピーチ。

今日一日が、明日への第一歩と確信して進みゆくのみである。

「師弟の道」と「師弟不二の道」

2008-01-03 01:23:59 | 書籍引用
 彼の弟子たちは、師弟の道は心得ていたが、広布実践のうえの師弟不二のなんたるかを悟るものはほとんど皆無といってよかった。不二とは合一ということである。
 昭和31年の戦いに直面した時、彼の弟子たちは戸田の指導を仰いだが、彼らの意図する世俗的な闘争方針を心に持しながら、戸田の根本方針を原理として聞き、結局、彼らの方針の参考としてしか理解しなかった。戸田の指針と彼らの方針とは、厳密にいって不同であったのである。師弟の道を歩むのはやさしく、師弟不二の道を貫くことの困難さがここにある。
 ただかろうじて、山本伸一だけが違っていた。彼は関西方面の最高責任者となったとき、戸田の膝下にあっての久しく厳しい薫陶から、戸田に言われるまでもなく、ひとり多くの辛労に堪えながら、彼は作戦を立てた。
 その彼の作戦の根本は、戸田の指針とまったく同一であった。不二であった。彼には戸田の指導を理解しようなどという努力は、すでに不必要であった。
 以来、戸田の時々刻々指導の片言隻句は、彼の闘争方針の実践にますます確信を与え、いよいよ渾身の力量を発揮する縁となったのである。
 彼は一念において、すでに戸田の一念と合一したところから出発していた。

  《人間革命(文庫版) 第10巻 P.61~62》

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今年の年頭にあたり、私が心に留めている指導を御紹介。

「人材・拡大の年」、師に勝利の報告を!