思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

五千の上慢

2009-10-23 06:31:48 | 思索の断片
 今回の3級試験の中では触れられていないが、法華経方便品第2には「五千の上慢」の話が出てくる。

 僭越ながら少々説明させていただきたい。
 
 まず仏の智慧の存在を明かされた舎利弗が、釈尊に「そのことを教えてほしい」と3度に渡って願う。
 しかし、釈尊はその都度「聞いたものは驚き、疑いを生ずる」と言ってその請願を退ける。
 3度目の請願でようやく釈尊は「そのこと」を説こうとするが、その時、五千人ほどの比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷が座を立ち、礼をして法座を退出する。
 その理由として、この輩(ともがら)は「罪根深重」「増上慢」「未得謂得(未だ得ざるを得たると謂い)」「未証謂証(未だ証せざるを証せりと謂い)」という失(とが)があった、と説かれている。
 
 この部分について、私が思ったことを書いておきたい。

 4種類の『失』を一言でいえば、『慢心』であると思う。
 「自分はこの信心のことを、誰よりも理解している」と思っているが故に、さらに深く立ち入った『仏の智慧』を聞くことが出来ないのだ。
 それは、恐怖といってもよいかもしれない。
 自分が今まで築いてきたもの、考え方を根底から覆されることへの恐怖である。
 それに打ち勝つことが出来ずに、「五千の上慢」は法座を後にしたのだと思う。
 
 または、『その4種類の命があるかぎり「仏の智慧」を会得することは出来ない』ということの比喩といってもよいかもしれない。
 必要なのは、自分を革新しゆく「勇気」なのだ。

 「人間革命」に、終わりはない。
 常に成長し、自分を革新していかなければ「進まざるは退転」となってしまう。

三証について

2009-10-03 06:30:11 | 思索の断片
 特に新しいことを書くわけではないのだが、確認の意味を込めて書いておきたい。

 「三証」とは、宗教の正邪を判断する際に用いられる基準のひとつで、「文証」「理証」「現証」のことをいう。
 
 「文証」は、経典や御書などの文献に基づいているかどうか。
 「理証」は、道理にかなっているかどうか。
 「現証」は、現実の結果として現れてくるかどうか。

 日蓮大聖人は『日蓮 仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず』と仰せになり、現証を重視なさったように思われる。

 しかし、ここで注意しなければならないのは、証文・道理を「不要」とは仰っていないということである。
 むしろ、文証のないものは信用してはならない、というのが日蓮大聖人の主張であったし(「立正安国論」に顕著である)、道理の通らないものが信用できるはずもない。
 ということは、現証とはいっても「文証・理証」を具えてこそ「現証」たりえる、といえるのではないだろうか。

 その意味において、「現証・結果」が出ているからこの人は正しい、という考え方には落とし穴があるといえる。
 「何かで入賞した」「1位をとった」というような人がいたとして、それが即ちその人の『信心の正しさ』を証明するバロメーターとはならないのだ。
 そのような結果を出したことは素晴らしいし、立派なことだろう。おそらく誰よりも努力をし、精進を重ねた結果だと思う。
 だが、だからといってその人の主張、信仰の姿勢がすべて正しい、ということにはならない。
 
 この点は充分に気をつけなければならないだろう。