NHKの日曜美術館で〈田中一村〉を見て是非実際の絵を見てみたいと思い
短大の時の友達と滋賀県にある佐川美術館で〈生誕110年田中一村展〉を見てきました。
佐川美術館は、設立母体の佐川急便(株)が創業40周年の記念事業の一環として琵琶湖を望む近江.守山に建てた美術館で
非常に洗練された広々とした美しい美術館でした。
美術館の回りがまるで静謐な湖のように水に囲まれているのがとても心地よかったです。



中心に何故か鹿の立体が

経営者が平山郁夫さんがお好きなのかたくさんの作品が常設されていました。
ではここから田中一村について書いていきます、彫刻家の父を持つ田中一村は、幼いころから父に南画の手ほどきを受けてその神童ぶりを発揮しています。

向かって右の絵は7歳の頃、左の絵は13歳の頃に描いています。


自分の絵画の道を見つけるために試行錯誤を繰り返した後に、39歳の時に青龍社展に出品し初入選した〈白い花〉

翌年再び青龍社展に〈波〉と〈秋晴〉を出品、しかし、波は入選するも自信作である秋晴が落選↑
その結果に納得できず、波の入選も辞退。
〈秋晴〉は素晴らしい作品でしたが、やはり時代が追い付いてなかったのか、と感じました。
構図が斬新過ぎたのでしょうか。
その後、日展他色々な団体展へ挑戦するもことごとく落選
画壇と決別し、自分独自の絵画を求めて奄美大島へと渡ります。



〈静かなる海辺のアダン〉
(この絵についていた一村の書付内容「このアダンの海辺の図は昭和40年、私が奄美大島有屋に於いて描いたものです
この絵の主要目的は乱立する夕雲と海浜の白黒の砂礫であって、これは成功したと信じています。
何故無落款で置いたのか、それは絵に全精力を費やし果たして、わずか5秒とはかからぬサインをする気力さえなく
やがて気力が充実した時にと思いながら、今日になってしまった次第なのです。」)
奄美和光園の官舎に移り込み、 大島紬の染色工の仕事で生計を立てながら絵を描き始めます。
しかし奄美に渡った後も中央画壇には認められないまま、無名に近い存在で個展も実現しませんでした。
69歳にて死去
中央画壇には認められませんでしたが、一村の絵の素晴らしさを信じ支援を惜しまなかった川村幾三氏、岡田藤助氏など数人の人達のお蔭で最後まで絵を描くことが出来た一村ですが
川村さんあてに最後に「我が人生最後まで、絵を描き続けられることになりました。感謝はとても言葉では尽くされませんありがとうございました。」という言葉を残したそうです。
どの絵も真に純粋で、鮮烈なオーラが画面からあふれ出ていました。
直に心に響くその美しさが時代に認められず本当に残念ですが
それゆえ、奄美に渡り、本当に一村が目指す境地にたどり着いたのかもしれないと思ったのでした。
省略してざっと書きましたので、詳しく知りたい方はWikipediaでどうぞ

絵の画像はこの本のを写しました。
(
)
友達の鹿のブローチ、おまけです
阪神電車で梅田に出て、JRで堅田、そこからタクシーで約20分、と結構辺鄙な場所にあったにもかかわらず多くの方が作品を見に来られていました。
生前に認められなかったことがウソのような一村の人気を物語っていると思いました。
(追記)
奄美和光園は、ハンセン病にかかった方たちが遠く家族から離されて暮らしていた療養所です。
一村は、親兄弟を懐かしむ患者さんにその肖像画を描いてあげていたそうです。
残念ながら、それらの絵は残っていなかったのか展示されていませんでしたが、見てみたいものです。
(震度七の地震、北海道全域で停電、本当に怖い事ばかり起こった夏でした。
電気が来ないとスマホの充電も出来なくて連絡も困難、夜も暗いと怖さ倍増、お見舞い申し上げます、という言葉もむなしいばかりですが、、)
短大の時の友達と滋賀県にある佐川美術館で〈生誕110年田中一村展〉を見てきました。
佐川美術館は、設立母体の佐川急便(株)が創業40周年の記念事業の一環として琵琶湖を望む近江.守山に建てた美術館で
非常に洗練された広々とした美しい美術館でした。
美術館の回りがまるで静謐な湖のように水に囲まれているのがとても心地よかったです。



中心に何故か鹿の立体が

経営者が平山郁夫さんがお好きなのかたくさんの作品が常設されていました。
ではここから田中一村について書いていきます、彫刻家の父を持つ田中一村は、幼いころから父に南画の手ほどきを受けてその神童ぶりを発揮しています。

向かって右の絵は7歳の頃、左の絵は13歳の頃に描いています。


自分の絵画の道を見つけるために試行錯誤を繰り返した後に、39歳の時に青龍社展に出品し初入選した〈白い花〉

翌年再び青龍社展に〈波〉と〈秋晴〉を出品、しかし、波は入選するも自信作である秋晴が落選↑
その結果に納得できず、波の入選も辞退。
〈秋晴〉は素晴らしい作品でしたが、やはり時代が追い付いてなかったのか、と感じました。
構図が斬新過ぎたのでしょうか。
その後、日展他色々な団体展へ挑戦するもことごとく落選
画壇と決別し、自分独自の絵画を求めて奄美大島へと渡ります。



〈静かなる海辺のアダン〉
(この絵についていた一村の書付内容「このアダンの海辺の図は昭和40年、私が奄美大島有屋に於いて描いたものです
この絵の主要目的は乱立する夕雲と海浜の白黒の砂礫であって、これは成功したと信じています。
何故無落款で置いたのか、それは絵に全精力を費やし果たして、わずか5秒とはかからぬサインをする気力さえなく
やがて気力が充実した時にと思いながら、今日になってしまった次第なのです。」)
奄美和光園の官舎に移り込み、 大島紬の染色工の仕事で生計を立てながら絵を描き始めます。
しかし奄美に渡った後も中央画壇には認められないまま、無名に近い存在で個展も実現しませんでした。
69歳にて死去
中央画壇には認められませんでしたが、一村の絵の素晴らしさを信じ支援を惜しまなかった川村幾三氏、岡田藤助氏など数人の人達のお蔭で最後まで絵を描くことが出来た一村ですが
川村さんあてに最後に「我が人生最後まで、絵を描き続けられることになりました。感謝はとても言葉では尽くされませんありがとうございました。」という言葉を残したそうです。
どの絵も真に純粋で、鮮烈なオーラが画面からあふれ出ていました。
直に心に響くその美しさが時代に認められず本当に残念ですが
それゆえ、奄美に渡り、本当に一村が目指す境地にたどり着いたのかもしれないと思ったのでした。
省略してざっと書きましたので、詳しく知りたい方はWikipediaでどうぞ

絵の画像はこの本のを写しました。
(

友達の鹿のブローチ、おまけです

阪神電車で梅田に出て、JRで堅田、そこからタクシーで約20分、と結構辺鄙な場所にあったにもかかわらず多くの方が作品を見に来られていました。
生前に認められなかったことがウソのような一村の人気を物語っていると思いました。
(追記)
奄美和光園は、ハンセン病にかかった方たちが遠く家族から離されて暮らしていた療養所です。
一村は、親兄弟を懐かしむ患者さんにその肖像画を描いてあげていたそうです。
残念ながら、それらの絵は残っていなかったのか展示されていませんでしたが、見てみたいものです。
(震度七の地震、北海道全域で停電、本当に怖い事ばかり起こった夏でした。
電気が来ないとスマホの充電も出来なくて連絡も困難、夜も暗いと怖さ倍増、お見舞い申し上げます、という言葉もむなしいばかりですが、、)