goo blog サービス終了のお知らせ 

続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

上野国山上・葛塚城堀之内に住んでます。ひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

這出でよかひ屋が下の蟇の声(栗庵似鳩の記憶)

2024-02-13 15:30:29 | 日光例幣使街道

ひめちゃんは、堀之内を西に出ます。

今朝も、あの白い山が見えます

上野国山上から南西の方向に、冬になると一つだけ白い山が出現します。

周りは青いのに、あの山だけ白井から、けっこう高い山かも

アタチも分かりませんでふ

あの山の麓まで行ってみたいけど、相当遠いような気もします

 

 

 

県道142号線(日光例幣使街道)に、「栗庵似鳩の墓」と「上蓮の阿弥陀如来・地蔵石仏」⇒があります。

31と33の中間くらいかな

子どもの森の少し左(西)です。

昨日は、左(西)から来て矢印を曲がりました。

 

しばらく行くと、小さな御堂が見えます。

ちょっと路上駐車です。

 

墓地の一角ですけど、南側から入れます。

 

案内版があります。

阿弥陀如来と地蔵菩薩それに俗体の男女の4体が卵形の1つの石に刻まれているんですか

 

失礼します。

ためつすがめつ、眺めます。

合掌

 

 

栗庵似鳩の墓に寄って、その後、観音寺を目指しました。

 

観音寺の手前に、気になる空間がありました。

急遽、また路上駐車です。

 

案内版もあります。

長沼の芭蕉句碑は、ここだったのです。

這出よ かひ屋が下の 蟇の声 

寛政癸丑年 長沼松谷発起同通志

      蓮沼栗庵甫力総社中 建之

と刻まれているのですね

 

句碑は栗庵似鳩の提唱で19年前に故人となった、長沼観音寺の住職で俳人の松谷を追悼しているのです。

 

栗庵似鳩は、雪の中、観音寺の松谷を訪ねてやって来たのでしたね

 

「這出よ かひ屋が下の 蟇の声(はいいでよ かいやがしたの ひきのこえ)」は、元禄2年(1689)5月17日(太陽暦7月3日)に、松尾芭蕉が尾花沢(山形県尾花沢市)で詠んだ句です。

芭蕉は、平泉の後、出羽国を通って日本海側を尾張に向かいます。

 

「蚕を飼う部屋の床下からヒキガエルの声が聞こえてくる。そんな暗いところにいないで、こっちへおいでよ」

ヒキガエルは、パートナーを求めて鳴くとか

松谷に呼びかけています

 

庚申塔や天明の供養塔もあるということです

険しそう

ちょっと登るのは遠慮しておきましょう。

合掌

 

後で確認したら、例幣使街道周辺の史跡・文化財の32でした

 

すぐそこが観音寺です。

真っ白な浅間山が見えました

今回ちょっと足を延ばしたことによって、俳諧師・栗庵似鳩が生きてきました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪佛生まれしときの顔に似よ(栗庵似鳩の墓と観音寺)

2024-02-12 15:28:20 | 日光例幣使街道

ひめちゃんは、堀之内を北に出て、岩神沼まで行ってきました

誰もいないかな?

あれ、沼の奥にカモさんがいます。

もう少し近づこうと動くと、みんな飛び立って行ってしまいました

フットパスのカモさん達は、悠然と日向ぼっこしていたのにね。

赤柴の老犬・プーちゃんの前を通って帰ります。

プーちゃんは出てきてくれましたけど、ひめちゃんはシカトです。

ごめんね

 

 

 

日光例幣使街道周辺の文化財、32と34のちょうど中間あたりに、俳諧師・栗庵似鳩(りつあんじきゅう)の墓があります。

栗庵似鳩の上州俳壇への登場は、忘れられないほど印象的でした

そして、退場もまた、忘れられないシーンです

 

みやま文庫『佐波伊勢崎史帖』(しの木弘明、平成3年)によると、

栗庵似鳩は上州に正風を唱えた最後の俳諧宗匠であった。それほどに栗庵の力量はすぐれており、大きな指導力を持っていたのである。

明和九年十二月二十三日は雪空であった。大阪を食い詰めて江戸に来たが、江戸も食い詰めて行き場のなくなった似鳩は、とぼとぼと中仙道をたどった。戸田の渡しを越す比には小雪がちらついてきた。熊谷で道を折れると境町向かったが、もう一面の雪景色で、中瀬の渡しに利根川を越すときには足は雪に埋まり、夜の雪道である。境町から例幣使街道に出たが、それは長沼村の観音寺の俳人松谷を訪ねようとしたからである。ところが長沼の手前、上蓮沼にきたときあまりの寒さと空腹のために、雪の中に倒れてしまった。

もう雪の真夜中に人通りはなかった。倒れた乞食坊主の背中には雪が降り積もったのである。夜中にこれを見付けたのはこの村の高柳勘太夫で、乞食坊主を助け出すと、自分の家に連れて帰ったのである。~(中略)~似鳩は大阪の人、玉置氏、酒を愛して瓢堂と号した。小林一茶は同じ乞食坊主で、生涯を流浪のうちにあり、死ぬ年の正月には、丸焼けになって、放り出され、悲嘆の内に一生を終わったが、乞食坊主似鳩は高柳勘太夫という理解者があったために、俳諧冥利の生涯をおくったのである。

 

また、彼の最後も印象深いものでした

寛政九年十二月二十三日は雪の降る寒い日であった。この日隣村の弟子多賀谷思水の文木館に連句の興行があった。諸俳とともにあった似鳩は、好きな酒杯をかたわらに、終日呑んでは付け句していた。終わって夜中の雪道を帰ったが、途中足をすべらせて雪の中に倒れてしまった。その背中に雪が降り積もった。やがて村人に助け出されたが、その雪の上には似鳩の面があったのである。

 雪佛生まれしときの顔に似よ

この一句を辞世に栗庵三十年の幕を閉じたが、それは俳諧冥利に満ちた生涯であった。

 

雪の日に登場した栗庵似鳩は、また同じ雪の日に退場して行ったのです

忘れられない逸話でした

 

 

久々の再訪です。

小さな墓地の一角にあります。

説明板がなければ、気づきません。

合掌

 

墓石の裏、よく見えません。

玉置氏とか、大坂の人とかは見えます。

 

隣は、近年建てられた碑です。

辞世の句「雪佛生まれしときの顔に似よ」は、よく見えます

退場の顛末を知っていると、忘れられない一句です

 

 

彼が訪ねようとした、長沼村の俳人松谷の観音寺は、すぐそこです。

車でほんの数分です。

最初の地図の左下の卍が観音寺です。

今回初めて足を延ばしました。

 

『ぐんまのお寺真言宗Ⅱ』(上毛新聞社 平成13)によれば、

明和8年(1771)11月上蓮沼村まで来て雪中に倒れた俳人似鳩が名主高柳勘太夫に誘われて初めて出席した、明くる正月の句会は観音寺であった。似鳩は栗庵と名乗り63才で没するまでこの地に留まり多くの門弟たちに正風(蕉風)を伝えたが、観音寺の僧松谷がその一番の後援者だった。松谷は僧名隆鑁、安永3年(1774)12月没、38歳。似鳩編の追善集『有無の日集』二冊(安永4年刊)がある。

 

現在は無住です

ご本尊は十一面観音です。

現在も観音霊場巡りの札所です

御詠歌は、「世の中の苦界を守る観世音詣る人には利生あるべし」

 

本堂前で、心を込めて合掌

そのうちに、納経所・満善寺に伺いましょう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日光例幣使街道・竹石の渡し

2024-02-09 19:38:36 | 日光例幣使街道

ひめちゃんは、堀之内を西に出ます。

天神田(字天神のたんぼ)の東端を歩きます。

雪はだいぶ溶けてきました。

冬のある時期、あの方向に小さな雪山が出現します。

人工の山ではなさそうですけど、あそこだけ白い。

そんなに遠くではなさそうだけど、何処の山だろう?

関東管領の城・平井城や多胡の古碑の方向だけど

 

堀之内の近くで、「ムム、あれはタバサねーちゃんでふ

タバちゃん、ガンバでふよ

タバサねーちゃんも、帰りはしっかり歩いて帰りました

 

 

 

先日、何気なく地図を見ていたら、旧境町をながれる広瀬川に、竹石の渡し(たけしのわたし)があります。

日光例幣使街道には、玉村の五料の渡しと広瀬川に竹石の渡しの二つの渡があったとあります。

付近を通っているはずですけど、気がつきませんでした

2月2日、確認に出かけました

 

東から県道142号線で、広瀬川・武士橋(たけしばし)を渡ります。

橋のたもとに史跡の表示がありそうですけど、停車できない

 

向こうに見える菅原神社の脇に、通行量の少ない川沿いの道があります。

そちらから廻り込んで、路上駐車です

なんとなく、本来の県道142号線はこちらのようです。

 

史跡の案内を確認です。

上野国の日光例幣使街道の渡し場は、利根川の五料の渡しと広瀬川の竹石の渡しの二箇所でした。

 

知りませんでした

明治に架橋されるまで、ここには竹石の渡し場があったのです。

 

例幣使街道の案内もあります。

日光例幣使は221年間休むことなく毎年、はるばる京都からここを通って日光に行ったんですね

たくさんの人々も往来したんですね

この案内版の国道354号線は、新しい354号線が出来て、現在は県道142号線に格下げになってます

 

広瀬川にかかる武士橋です。

広い川ですけど、水量は少ないみたいです。

上流に僅かに、流れがあります。

右の山が赤城山、左に少し見えるのが榛名山です。

雪を頂いた上越国境の山も見えます。

 

わが郷里の村の近くに、上野国日光例幣使街道の2つの渡しの1つがあったのです

日光例幣使街道の記事は、あちこちのカテゴリーに散らばってます

再訪するか、総集編として再編するか、大いに迷います

でも、なるべく再訪していきたいと思います

 

県道沿いの菅原神社は、以前訪問しました。

今日は、人々がいます。

明日、節分会でもあるのかな?

又の機会に

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする