ひめちゃんは、堀之内を北に出て、岩神沼まで行ってきました
誰もいないかな?
あれ、沼の奥にカモさんがいます。
もう少し近づこうと動くと、みんな飛び立って行ってしまいました
フットパスのカモさん達は、悠然と日向ぼっこしていたのにね。
赤柴の老犬・プーちゃんの前を通って帰ります。
プーちゃんは出てきてくれましたけど、ひめちゃんはシカトです。
ごめんね
日光例幣使街道周辺の文化財、32と34のちょうど中間あたりに、俳諧師・栗庵似鳩(りつあんじきゅう)の墓があります。
栗庵似鳩の上州俳壇への登場は、忘れられないほど印象的でした
そして、退場もまた、忘れられないシーンです
みやま文庫『佐波伊勢崎史帖』(しの木弘明、平成3年)によると、
栗庵似鳩は上州に正風を唱えた最後の俳諧宗匠であった。それほどに栗庵の力量はすぐれており、大きな指導力を持っていたのである。
明和九年十二月二十三日は雪空であった。大阪を食い詰めて江戸に来たが、江戸も食い詰めて行き場のなくなった似鳩は、とぼとぼと中仙道をたどった。戸田の渡しを越す比には小雪がちらついてきた。熊谷で道を折れると境町向かったが、もう一面の雪景色で、中瀬の渡しに利根川を越すときには足は雪に埋まり、夜の雪道である。境町から例幣使街道に出たが、それは長沼村の観音寺の俳人松谷を訪ねようとしたからである。ところが長沼の手前、上蓮沼にきたときあまりの寒さと空腹のために、雪の中に倒れてしまった。
もう雪の真夜中に人通りはなかった。倒れた乞食坊主の背中には雪が降り積もったのである。夜中にこれを見付けたのはこの村の高柳勘太夫で、乞食坊主を助け出すと、自分の家に連れて帰ったのである。~(中略)~似鳩は大阪の人、玉置氏、酒を愛して瓢堂と号した。小林一茶は同じ乞食坊主で、生涯を流浪のうちにあり、死ぬ年の正月には、丸焼けになって、放り出され、悲嘆の内に一生を終わったが、乞食坊主似鳩は高柳勘太夫という理解者があったために、俳諧冥利の生涯をおくったのである。
また、彼の最後も印象深いものでした
寛政九年十二月二十三日は雪の降る寒い日であった。この日隣村の弟子多賀谷思水の文木館に連句の興行があった。諸俳とともにあった似鳩は、好きな酒杯をかたわらに、終日呑んでは付け句していた。終わって夜中の雪道を帰ったが、途中足をすべらせて雪の中に倒れてしまった。その背中に雪が降り積もった。やがて村人に助け出されたが、その雪の上には似鳩の面があったのである。
雪佛生まれしときの顔に似よ
この一句を辞世に栗庵三十年の幕を閉じたが、それは俳諧冥利に満ちた生涯であった。
雪の日に登場した栗庵似鳩は、また同じ雪の日に退場して行ったのです
忘れられない逸話でした
久々の再訪です。
小さな墓地の一角にあります。
説明板がなければ、気づきません。
合掌
墓石の裏、よく見えません。
玉置氏とか、大坂の人とかは見えます。
隣は、近年建てられた碑です。
辞世の句「雪佛生まれしときの顔に似よ」は、よく見えます
退場の顛末を知っていると、忘れられない一句です
彼が訪ねようとした、長沼村の俳人松谷の観音寺は、すぐそこです。
車でほんの数分です。
最初の地図の左下の卍が観音寺です。
今回初めて足を延ばしました。
『ぐんまのお寺真言宗Ⅱ』(上毛新聞社 平成13)によれば、
明和8年(1771)11月上蓮沼村まで来て雪中に倒れた俳人似鳩が名主高柳勘太夫に誘われて初めて出席した、明くる正月の句会は観音寺であった。似鳩は栗庵と名乗り63才で没するまでこの地に留まり多くの門弟たちに正風(蕉風)を伝えたが、観音寺の僧松谷がその一番の後援者だった。松谷は僧名隆鑁、安永3年(1774)12月没、38歳。似鳩編の追善集『有無の日集』二冊(安永4年刊)がある。
現在は無住です
ご本尊は十一面観音です。
現在も観音霊場巡りの札所です
御詠歌は、「世の中の苦界を守る観世音詣る人には利生あるべし」
本堂前で、心を込めて合掌
そのうちに、納経所・満善寺に伺いましょう
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