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寺田寅彦誕生(1878/11/28)

1878-11-28 00:00:00 | 物理系
1878/11/28

 寺田寅彦は、明治から昭和にかけて、実験物理学者として数々の業績を残し、多くの研究者を育てました。また、その研究を生かしながらわかりやすく身近の様々なできごとを論じた随筆を数多く残しました。

 X線は結晶に当てると様々な方向に散乱し、ある特定の方向のX線だけが強められますが、この強められたX線を写真フィルムの上で感光させると、規則的な間隔を持つ斑点が写ります(ラウエ斑点)。これを分析すると元の結晶の構造を知ることができます。寺田はこの基礎的な研究を行いました。それは、その後ノーベル物理学賞を受賞した、ラウエブラッグが行っていた時期と同時期のもので、その後展開していく原子物理学における重要な成果でした。
 しかし、胃潰瘍のために2年間静養をしてから、身の回りにあって、掘り下げていくと一筋縄では説明できない現象に目を向けて、そのしくみを研究することに力を入れていきました。扱った代表的なものは、金平糖の角、線香花火の火花、水に垂らした墨の拡がり、ガラスの割れ目と幅広いですが、これらの共通点は、ものの形がどのような法則でできていくのか、ということに着目していることです。当時寺田は、その現象のしくみを子細に観察し明らかにしてから、統計学の手法を用いその法則性を見いだそうとしていました。寺田自身は、それらのしくみを完全に明らかにすることはできませんでしたが、これらの課題は今、フラクタルカオスといった複雑系の数理科学を用いることで明らかになりつつあります。
 また、晩年、地殻変動や地震の起こるしくみなどの地球物理学の分野でも多くの業績を残しました。そして、関東大震災を体験しその後の被害を調査・研究した経験から、折に触れ「天災は忘れたり頃に来る」と語り、災害に対する日頃の備えの大切さを訴えたと言われています。
 これらの研究の中で、雪や氷の研究の先駆けで知られる中谷宇吉郎を初めとした多くの研究者を育てました。教育者として、研究に当たって折に触れて先を見通しながら適切に助言する様は、当時中谷のエッセイ(例えば「球皮事件」)などに残されています。

 一方、先の胃潰瘍の後には、随筆の執筆もさかんになりました。扱った研究をわかりやすくとりあげたり、それらを糸口にして身近の出来事を論じる内容は今も幅広く読み継がれています。これらは随筆集として岩波文庫で出版されているほか、インターネットでも一部を読むことができます(青空文庫)。作品は、茶碗に入れた湯気に着目し、空気中の目に見えない塵から空にある雲や雷に目を向けその成り立ちを記した啓蒙的色あいのある「茶碗の湯」、研究テーマであったさまざまな物の形や身近にあり興味深い現象を取り上げた「自然界の縞模様」、「日常身辺の物理的諸問題」、「物理学圏外の物理的現象」、科学者に求められる姿勢を述べた「科学者とあたま」、当時の科学界に対する批評であり現在もなお傾聴しうると思われる「量的と質的と統計的と」など多数あります。
 また、夏目漱石とは長く親交があり、文学的な面での影響を強く受けました。夏目の小説である「三四郎」に出てくる野々宮と「我が輩は猫である」に出てくる寒月先生は寺田がモデルと言われています。

 物理学者の傍ら文筆家として、幅広い活躍をしていた寺田でしたが、私生活では、最初と二番目の妻と死別し2度再婚したり、大病をわずらい長期療養したりするなど、必ずしも幸せとは言えませんでした。亡くなった最初の妻との思い出をつづった「どんぐり」などにその哀感をかいま見ることができます。

 寺田の研究については、当時東京帝国大学の物理学研究で中心的な立場だったにもかかわらず世界での主流となりつつあった原子物理学とは一線を画していたことから、その意義については意見が分かれています。しかし、実験物理学者として子細に現象を観察し的確に分析する手法を伝え多くの優れた研究者を育てたこと、近年研究が進み始めた複雑系の科学の題材に早くに着目したこと、随筆を通して科学技術についての関心を広めたことは、日本における科学技術のその後の展開に大きな影響を与えたと言えるでしょう。

 寺田寅彦は1935年(昭和10年)12月31日に死去しました。

2005/10/18 作成 YK
2005/11/13 追加 MK