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今日は何の日?

昔の今日は何があったのでしょうか?ちょっとのぞいてみましょう。

アポロ14号月面着陸(1971/02/05)

1971-02-05 22:45:38 | 宇宙開発
 月への着陸を目的としたアポロ計画では、あわせて6回の月面着陸が行われました。人類初の月面着陸に成功し、月のいん石を持ち帰った11号や、酸素タンクが爆発するという困難にあいながらも無事に生還した13号は、みなさんもご存じのことと思います。
 1970年の2月5日9時18分、アポロ14号により人類3度目の月面着陸が行われました。着陸場所はマウロクレーターの縁24km北の急な高地(フラ・マウロ高地)です。このときの2日間にわたるミッションでは、2回の船外活動において月の地層の科学探査やアポロ月面実験パッケージの設置、月面の写真撮影が行われています。
 このとき、アポロ14号の船長であったアラン・シェパードは人類で初めての月面ゴルフを行いました。彼は、サンプル採取器具を改造してつくった6番アイアンで、2つの耐熱ボールを打ちました。打たれたボールは月面に再び落ちることなく飛び続け、彼は喜びのあまりに「ボールが飛んでいる」と叫んだと言われています。

日本初の人工衛星「おおすみ」打ち上げ(1970/02/11)

1970-02-11 13:25:00 | 宇宙開発
 GPSという言葉を聞いたことがあるでしょうか。カーナビで自分の位置を正確に知るためのシステムがGPSです。地球を周る24個のGPS用人工衛星のうち3~4個からの電波を受けることで正確な現在位置を計算することができます。カーナビにとって、人工衛星はなくてはならないものなのです。また、天気予報や通信や地球観測といった、いろいろな分野で、私たちはそれと意識しないうちに人工衛星の恩恵を受けています。
 世界ではじめての人工衛星は、ロシアが1957年10月4日に打ち上げたスプートニクです。その後、アメリカ、フランスが打ち上げ、日本は1970年2月11日13時25分に打ち上げた「おおすみ」が軌道に乗ったことで、第4番目の人工衛星打ち上げ国になりました。
 「おおすみ」は、全長約1m、重さ約24kgでアイスクリームを逆さまにしたような形をしています。現在の人工衛星と比較すると、とても小さい(「ひまわり5号」は全長約3.5m、重さ約345kg)衛星であるといえます。この「おおすみ」は、人工衛星打ち上げのための技術習得と実験のために打ち上げられました。今はH2Aロケットを使って気象衛星や通信衛星などをいくつも打ち上げている日本ですが、当時は人工衛星を打ち上げるノウハウを持っていなかったのです。そのため、「おおすみ」の打ち上げに成功するまでに4度も失敗しています。失敗してもあきらめずに研究を積み重ねた結果が、「おおすみ」の成功なのです。そして、その成功で日本は宇宙開発の大きな一歩を踏み出すことになりました。
 宇宙から地球に向けて信号を送り続けた「おおすみ」は予定の半分程度の14~15時間で電池切れになってしまいました。しかし、それからも地球の周りを回り続けました。そして、打ち上げから33年後の2003年8月2日午前5時45分、アフリカ上空の大気圏に突入し、日本初の人工衛星「おおすみ」は燃え尽きました。

2006/01/02 作成 TH

アポロ8号、世界で最初に有人で月周回軌道に乗る(1968/12/24)

1968-12-24 00:00:00 | 宇宙開発
1968/12/24

アポロ計画は、宇宙開発でソビエトに出遅れていたアメリカが、国家の威信をかけて取り組んだ有人宇宙飛行プロジェクトでした。4号から6号までは無人でのテスト飛行でしたが、7号は地球軌道上で司令船および機械船の試験を有人飛行で行ない、8号でついに史上初の有人で月を周回(10周)して帰還することに成功しました。12月24日は、その周回軌道に乗った日なのです。

アポロ8号の打ち上げは1968年12月21日、サターンV型ロケットでアメリカ東部標準時間で午前7時51分、フロリダのケネディー宇宙センターから発射されました。乗組員はフランク・ボーマン指揮官、ジェームスA.ラベルJr.、およびウィリアム・A.アンダースの3人で、彼らは月の反対側を見る最初の人間になりました。まず、サターンVロケットの第1段と第2段の推力で、第3段とアポロ宇宙船を地球周回軌道に乗せます。そしてアポロ宇宙船を第3段の推力で月への軌道に乗せ、月の引力圏に入ると機械船のエンジンを噴射、月の周回軌道に乗せました。地球への帰還は1968年12月27日アメリカ東部標準時間の午前10時52分、北緯8度7.5分、西経165度1.2分の太平洋上に着水しました。飛行時間は6日と3時間42秒でした。

この後、翌年1969年には9号の地球軌道上、10号の月軌道飛行を経て、7月アポロ11号で人類最初の月面着陸を成し遂げるのです。

1967年の1月27日、最初のアポロ計画有人ミッションの予定であったAS-204(後にアポロ1号)の前飛行テストの際、火災事故で宇宙飛行士ウェルギリウス・グリッソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーの3人が亡くなりました。事故原因は電気配線のどこかで火花が生じ、加圧された酸素で満たされていた室内の空気によって急速に燃え広がったためだと考えられています。この事故を教訓に、アポロ宇宙線は再設計され、様々な改良がなされました。輝かしい栄光の陰には、このような犠牲者がいるということを、いつも心に留めておかなくてはいけないと思います。

2005.11.2 作成 KS

「2001年宇宙の旅」一般公開(1968/04/06)

1968-04-06 00:00:00 | 宇宙開発
 「2001年宇宙の旅」はスタンリー・キュービックとアーサー・C・クラークによって1964年に制作が開始された本格的SF映画です。
 最近のSF映画では、コンピュータグラフィックスが駆使され、まるで本物のような映像が作られますが、当時は現在のような特撮技術はありませんでした。
 ところが、この映画の特撮は当時のSF映画としては極めて画期的なものでした。また、宇宙空間での様々な事象が、科学的にもほぼ正しく描写されたのです。
 例えば、宇宙船の中でキャビンアテンダントが空中を浮遊するペンを取るシーンがあります。これはガラス板にペンを貼り付けてそのガラス版を動かして撮影するという極めて簡単な仕掛けですが、本当にペンが無重力空間を浮遊しているように見えるのです。また、宇宙船に搭載されていた人工知能HAL9000型コンピュータが、人間に対して反乱を起こすという設定も当時としては画期的なものでした。
 「2001年宇宙の旅」は1968年4月2日にワシントンで初めてプレミア公開され、4月6日に全米で一般公開されました。日本で公開されたのは同年の4月11日です。
 ヨハン・シュトラウスの美しきドナウをはじめとするクラッシック音楽をバックに、壮大な宇宙空間の中で哲学的なストーリーが展開していきます。観客の多くが、宇宙の広大さ、神秘さを感じると同時に、いつかは宇宙を旅することができるという思いを抱きました。折しもアポロ11号が月面に降り立つ1年前のことでした。
 「2001年宇宙の旅」は1968年のアカデミー賞で特殊視覚効果賞を受賞し、その後のSF映画に大きな影響を与えました。

2006/04/06作成 MK

ルナ9号(ソ連)月へ世界初の軟着陸(1966/02/03)

1966-02-03 00:00:00 | 宇宙開発
 夜空にぽっかりと浮かぶ月は、昔から人々の心をとらえてきました。人間が宇宙へと向かい始めたとき、その目標の一つが月だったことも不思議ではありません。その月への軟着陸にはじめて成功したのが、ソ連(今のロシアなど)が打ち上げたルナ9号です。ルナとはロシア語で月のことです。
 1959年にはじまったルナ計画は、1976年までに24個の探査機を月に向けて打ち上げています。ルナシリーズは、2号で世界初の月面到達に成功しています。到達と言っても、2号は月面への激突であり、月面での調査などを行うことを目的としていませんでした。月面での調査を行うには、月面に軟着陸する必要がありました。
 1963年のルナ4号以降は、月面への軟着陸を目指して打ち上げられましたが、4号、6号は月に到達できませんでした。月に到達できた5号、7号、8号も、軟着陸に失敗して月面に激突しています。そうして、いくつもの失敗を乗り越えた挑戦の結果、1966年1月31日に打ち上げられたルナ9号は2月3日に月に到達し、逆噴射を使った軟着陸に成功しました。着陸地点は、あらしの海と呼ばれる場所でした。
 月面に軟着陸したルナ4号は、カメラと通信機器を入れたカプセルを落としました。下になる部分におもりの入ったこのカプセルは、花が咲くように上部が開き、そこから撮影した写真を発信器で地球に送ることに成功しました。
 このような、ソ連の月探査の成功は、アメリカに危機感を感じさせました。世界初の人工衛星スプートニクを打ち上げたのもソ連です。当時は、アメリカよりもソ連の方が、宇宙開発において1歩先を行っていたのです。

2006.01.03 作成 TH

人類初の宇宙遊泳(1965/03/18)

1965-03-18 07:20:33 | 宇宙開発
ロシアのユーリ・ガガーリンが初めて宇宙を飛んでからわずか4年後、同じくロシアの宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフが人類初の宇宙遊泳に成功しました。宇宙船はボスホート2号、同乗した飛行士はパーベル・ペリャーエフでした。レオーノフは周回軌道上で約10分間の宇宙遊泳を行ないました。その目的は技術力の誇示や、自国の優位性を示すとこだったのかもしれませんが、レオーノフ本人は宇宙空間の人間が何をできるのか証明することが重要だったと、彼の著書で述べています。宇宙空間で人間が彼はこのミッションに画用紙と色鉛筆を持参し、このときの神秘的な記憶を船に戻ってすぐに4枚の絵に残しています。宇宙遊泳の様子は世界中に発表されましたが、アメリカはそれを認めようとしませんでした。なぜなら、2国は激しい宇宙開発競争の最中であり、6月にはアメリカが宇宙遊泳を行なう計画でした。衝撃を受けたアメリカは数週間後にNASAの訪問団を組織してロシアを訪れています。

公式には無事成功したと発表されていたミッションですが、実はその裏ではいくつかのトラブルが起きていました。宇宙遊泳から帰還しようとしたレオーノフの宇宙服が内圧により膨張しており、そのままではエアロックに戻れなくなっていました。彼は自分で宇宙服内の酸素を抜いて半分酸欠になりながら宇宙船に戻る作業を行っていました。また、エアロックを切り離したときから始まった船体の高速回転、船内の酸素濃度の異常上昇、自動帰還システムの誤作動、燃料不足の中での手動での軌道修正、シベリア奥地への着陸と救出までの寒さとの戦い。これらのトラブルの多くはその後ほとんど触れられることはなく、名場面だけを編集した記録映画が作成され、カンヌ映画祭にも出品されました。

余談ですが、彼の4歳になる娘ビカは父が宇宙へ踏み出す映像を見て恐怖で泣き、彼の父親は任務を理解できず「どの宇宙飛行士も宇宙船の中でまじめに任務を果たしているのに、なぜあいつは外をうろついているんだ!」と叫んだというエピソードもあったそうです。(HY)

ソビエトが宇宙船ボスホート打ち上げ(1964/10/12)

1964-10-12 00:00:47 | 宇宙開発
1964/10/12
アメリカと激しい宇宙開発の先駆争いをしていたソビエトは、アメリカのジェミニ計画という有人宇宙飛行にこのボスホート宇宙船で一歩抜きに出る事になりました。
ボスホートとはロシア語で「日の出」という意味です。

この宇宙船は機械船+乗員用カプセルでできていました。
乗員用カプセルはボストークのものを改良したもので、1号には3人の宇宙飛行士のための椅子などがありかなり狭い空間しかありませんでした。2号からは船外活動をするために着なければいけない宇宙服の関係でどうしても2人分しかスペースをとる事ができなかったのです。
このような狭さですから、1号で3名乗船時には、重量を極力増やさない、できるだけスペースを確保するということが最優先され、宇宙服なしでの宇宙旅行だったのです。
現代の常識で考えると無謀としかいいようがありませんが、24時間17分で地球を16周しました。

ボスホートが持たされた使命は、複数乗船での飛行と船外活動です。
複数の人間が宇宙に滞在でき(1号で3名)、船外活動を行う事(2号で実施)ができ、緊急時のトラブルにも適切に対処できる可能性を示したこの計画は非常に意味のある事でした。

2005.10.9 HA作成

月ロケットの日(1959/01/02)

1959-01-02 08:35:27 | 宇宙開発
史上初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功してからわずか1年と3ヶ月たったこの日、ソビエト連邦が月ロケットルナ1号を打ち上げました。その目的は月および、月と地球の間の空間磁場、放射線、微小隕石の観測です。バイコヌール宇宙基地から打ち上げられたロケットは直線軌道で月へ向かい、月から5,955mの地点を通過後、太陽周回軌道へ入り、地球と火星の間を公転する最初の「人工惑星」となりました。ロシアはアメリカ合衆国よりも先に、月の近くまでロケットを飛ばすことに成功したのです。
ルナ1号本体は直径約80センチの球形ボディに4本のアンテナが放射状に刺さり、その中央に1本ひときわ長く磁力感応コイルが刺さっている形状でした。宇宙塵などの微小粒子を感ずるセンサーや、イオンセンサーも搭載していました。内部には窒素が充填、1気圧に保たれており、小型ファンでエアが循環していました。そして全ての装置は銀-水銀電池で駆動するというものでした。
実はこの計画、スプートニク打ち上げ時には「オブジェクトYe」というプランで既に立ち上がっていました。計画では当初Ye-1と呼ばれていたもので、月面にロケットを衝突させるというものでした。しかし、発射時に誤差があり発射から約34時間後に月をかすめ、太陽周回軌道に乗ったのです。月衝突に失敗はしましたが、ルナ1号はその探査任務は立派に果たしました。月に磁場と放射線帯が存在しないことを明らかにしたのです。
その後もロシアの月探査計画は失敗をはさみつつも進みました。同じ年の9月にはルナ2号が打ち上げられ、計画通り月に命中、人類史上初の他の天体に到達した人工物体となりました。ルナ3号は月の裏側を写真撮影、ルナ9号は月面着陸し月面のパノラマ写真を撮影、ルナ10~14号は月衛星となり、13号は月面着陸、16号は遠隔操作で月の土壌を採取し地球へ帰還しました。17号は無人月面車ルノホート1号を降ろし調査に成功、21号にはルノホート2号を降ろしました。結局ルナ24号(1976年)までこの計画は続き、ソビエトの月探査計画は終了しました。(HY)

アメリカ初の人工衛星打ち上げ成功(1958/01/31)

1958-01-31 00:00:00 | 宇宙開発
1958/01/31

今や、衛星放送や衛星通信、天気予報には欠かせない人工衛星ですが、世界で最初の人工衛星は、ソ連の人工衛星スプートニク1号で、1957年10月4日のことでした。
ソ連に先を越されたアメリカはショックを受け、これに対抗する人工衛星の打ち上げを急ぎました。
陸軍弾道ミサイル局の開発オペレーション部門の長、フォン・ブラウンのチームは、陸軍の短距離弾道ミサイルとして開発されたレッドストーンを改良し、ジュピターCロケットを開発しました。そして、スプートニク1号から約3ヶ月後、ジュピターCを打ち上げ機として、1958年1月31日、人工衛星エクスプローラー1号の打ち上げに成功しました。

エクスプローラ1号は、近地点高度347km、遠地点高度1859kmの楕円軌道で地球の周りを回りました。軌道の傾きは33.2度で、公転周期は107.2分でした。
科学研究機器には、放射線計測器、流れ星のもとになる塵のように小さな微小隕石の探知装置、温度測定器などが積まれていました。この部分の直径は16.5cm、ロケットを含む全長は205cm(衛星部分約120cm)。全体重量は約14キログラムで、うち科学機器が8.3キログラムをしめていました。
一方、ソ連のスプートニク1号は重量約83kgで、これに比べると非常に小さなロケットですが、112日間、宇宙線と微小隕石の測定結果を送信してきました。そして、搭載していた放射線量計測器(ガイガーカウンター)により、高い放射能を帯びた空間を発見したのです。放射能計測器を製作したジェイムズ・バン・アレン博士は、これは太陽からやってくる電気を帯びた粒子(太陽風)が、地球の磁場で集積されたもの(放射能帯)だという仮説を立てました。そして、同じ年の5月8日に打ち上げられたエクスプローラ3号によって、それは科学的に証明されました。この放射能帯は、博士の名をとって「バン・アレン帯」と呼ばれています。

その後、多くの科学衛星が打ち上げられ、地球周辺や太陽系の観測が行われ、宇宙進出への足がかりになりました。エクスプローラ1号は、人工衛星観測のさきがけとなったのです。

2005.12.28 作成 KS

人類最初の人工衛星「スプートニク1号」打ち上げ成功(1957/10/04)

1957-10-04 16:49:42 | 宇宙開発
1957/10/04

 ソビエト連邦(現ロシア)は、バイコヌール宇宙基地から人類最初の人工衛星「スプートニク1号」を載せたロケットの打ち上げに成功しました。「スプートニク1号」は直径58cmの球形、重さ83.6kgで、運用されていた57日の間に地球大気の上層部にある電離層の観測や調査を行いました。

 当時、科学技術の分野においてはアメリカが当然世界一で、宇宙開発も最先端を行っているという意識が非常に強くありました。しかし、そんな中でソ連が先に人工衛星の打ち上げに成功したのです。
 思いがけず先を越されたアメリカ側は大きなショックを受けました。これは「スプートニク・ショック」と言われ、その後アメリカは国を挙げて様々な分野で改革に取り組みました。教育の面でも、学校のカリキュラムが大きく変わりました。

2005.10.01 作成 KT