エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人



昼過ぎに仕事の打ち合わせでクライアントと落ち合うことになり、東京駅北口の改札を出たところで待っていた。

しばらくすると、血まみれの作業服を着た中年男性が、鮮血をあたり一面にまき散らしながら、私のいる方に、よろよろと近づいてきた。
私は本能的に逃げる体勢に入ったが、クライアントが来る時刻になっていたのでそこを離れるわけにはいかず、逃げる体勢のままで、男性をよく見ると、その右手首から先がない。機械に巻き込まれてねじ切られたようになっていて、骨が突き出し、動脈血が水鉄砲のように噴出している。

「この辺に…薬局ありませんかね…」

男性は青ざめていて、声にも力がない。
薬局に連れて行ってやりたい気持もあったが、このあたりは私も不案内で、しかも、もうすぐここで人と会う。申し訳ないけど他の人に尋ねてもらえませんかと言うと、男性は力尽きたように、その場にしゃがみ込んでしまった。きっと、ケガをしてからずっと薬局を探して歩きまわっていたのだろう。
仕方がないから、駅員や通行人に訪ねても、さあ、東京駅周辺なんだから、薬局くらい、いくらでもあるんでしょうけど、どこにあるのかと聞かれてもねえ、といったような答えしか返ってこなかった。

男性の方を見ると放心状態で血溜まりのなかに座り込んでいる。臀部は真っ赤に染まり、初潮を迎えて途方に暮れる中年男といった様相を呈していた。
血は相変わらず右手首から噴き出していて止まる気配がない。顔色もさらに悪くなっている。早く薬をつけなければ失血死するかもしれないと思うと、厄介なものに関わっちまったな、もし死んだりしたら、おれが自分の都合ばかり考えて放置していたからだ、とかなんとか言われるんじゃないのか、ひょっとしたら何かの罪になるかもしれない、ああ忌々しい、死ぬんならどっか遠くに行って死んでくれよ、ちぇ、と舌打ちをしたとき、男性はふと何かを思い出したように、おもむろに顔を上げ、右手首を口にくわえた。

指先を針で刺したのとはわけがちがうんだ、そんなことして何になるんだと思っていたら、どうだろう! 蒼白だった男性の顔に、赤みがさしてくるではないか。虚ろだった眼にも生気が充ちてきた。笑みさえ浮かべている。
そして男性は、右手首を口に頬張ったまま、雄々しく立ち上がった。股間を見ると勃起すらしているようだ。

そうか、流れ出る血を口から体内に戻すことによって血液を循環させ、体力を回復することができたのだ、と私は気がついた。追いつめられた人間のみにもたらされる智慧なのか。
後は、血が止まるまで、このまま手首をくわえておけばいい。

「あいがほうごあいあしは」
「もう、大丈夫なんですか?」
「はい、あいようふでふ。ごしんはいをかけあしは」
「この後、どうされるんですか?」
「しごほにおどいわふ」

男性は、乾いた血でごわごわになった作業服を、春の暖かい風になびかせながら仕事に戻っていった。
私は、元気な足取りで去ってゆく男性を眺めながら、もし私がここにいなかったら、彼はどうなっていたかわからない、人ひとりの命を救ったんだ、いや彼の家族の生活も救ったんだと思って、少しばかり誇らしい気持になった。

そして、この経験によって得た自信のおかげで、これまで言いなりだったクライアントとの交渉を有利に進めることができたのだった。


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