エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




墓場のように静かだった。
その喫茶店には客がひとり、店主がひとりいるだけだった。

テーブルでメニューを見ていた男性客が突然、カウンターにいた老店主に向かって怒鳴った。
「すいません、カレーください」
店主が叫んだ。
「味は辛口にしますか?」
客は吠えた。
「ええ、そうですね、辛口にしてください」

ドア鈴の轟音とともに、若い男女のカップルが、店内に突入してきて、カウンター席を蹂躙した。

「お、俊樹、久しぶりじゃないか」
鍋のカレーをかき混ぜながら店主が常連客の俊樹にがなり立てた。
「マスター、ご無沙汰してます。繁忙期だったんでね、なかなかお店に来られなかったけど、やっとヒマになりましたよ」
「そう、よかったね。で、仕事って何だったっけ?」
俊樹は、怒り心頭に発して絶叫した。
「そろそろ覚えてくださいよ。フォトグラファーですよ、写真館の。七五三の記念撮影で忙しかったんですから」

ふたりの怒号が飛び交うのをよそに、メニューに眼を通していた、俊樹の恋人、美紗子が店主に向かってわめきちらした。
「あたしねえ、野菜サンドとホットミルクがいいわ」
「はいよ。で、旦那さんは何にする?」
旦那さん、と嘲弄され、逆上した俊樹は店主に噛みついた。
「やだなあ、マスター、そんなのまだですよ」
「"まだ"っていうことは、いつかはってことだよね?」
蛇のように執拗な穿鑿に業を煮やした俊樹は、ついに雄叫びを上げた。
「……まあ、いずれはね」
それを聞いていた美紗子は驚愕して、俊樹の耳元で呻いた。
「今、俊樹が言ったことほんと? "いずれは"って」
「……ああ。一人前のフォトグラファーになったら必ず」
俊樹は美紗子の眼を睨み据えて咆哮した。
「うれしいわ……」
胴間声を上げて狂喜した美紗子だったが、嬉しさのあまり、テーブルを掻きむしって号泣し始めた。
「ばかだなあ、泣かなくてもいいじゃないか」
俊樹は美紗子を罵倒すると、その肩を抱いてアナコンダのように絞めあげた。

店の片隅でカレーを食べていた客が、この店で自分ひとりが、つんぼ桟敷におかれていることに気づいて絶望し、慟哭しながら、カウンターの3人にすがり寄った。
「ちょっとお邪魔します。なんだか楽しそうですね」
俊樹は、どこの馬の骨か知れないよそ者が近づいてきたので、敵意をむき出しにして唸った。
「あ、いや。つまんない話をお聞かせしてすみません」
「実は、私も写真やってましてね」
客は、大地も裂けよとばかりに名刺をテーブルに叩きつけた。

「いやー、びっくり」
名刺の名前を見た俊樹が悶絶するのを見て、店主と美紗子は凍りついた。美紗子は恐怖に失禁しながら声を絞り出した。
「ねえ、だれだれー?」
「唐神鹿梵仏(とうじんろくぼんぶつ)さんだよ! 有名なフォトグラファー。僕らの世界じゃ、カリスマ的な存在なんだ。すみません、お顔を知らなかったもんで分りませんでした」
「いいんですよ。俳優じゃないんだから顔なんかどうでも」
唐神鹿は、俺様の顔も知らないとは、この下郎がと思いながら吐きすてるように言い、さらに罵詈讒謗を俊樹に浴びせかけた。
「俊樹さん、でしたっけ? どうです、よかったらしばらくうちのスタジオでアシスタントしてみませんか? お話を聞いてると、アウトドアな写真が撮りたいようですね。うちはかなり手広くやってますから、チャンスが回ってくると思いますよ」
「え! でも僕の写真の腕がどの程度のものか……」
唐神鹿は、自分がせっかく誘ってやったのを俊樹が素直に受けようとしなかったことの屈辱で理性を失い、思わず俊樹の胸ぐらを掴んで恫喝した。
「大丈夫。私は人を見る眼には絶対の自信があるんです。あなたならやれますよ!」

美紗子は狂人の眼つきで俊樹に飛びついて、妄言を吐いた。
「よかったわね、旦那様、ふふっ」
「うん、僕はやるよ、奥様、ははは」
抱き合ったふたりは、至福に我を忘れ、カウンターの上で獣のようなセックスを始めた。
店主は、今度は自分がつんぼ桟敷におかれたことに気がついて、まさに怒髪天を衝き、人生を棒に振るのを覚悟で包丁を唐神鹿めがけて振り下ろしながら言い放った。
「俊樹をよろしくお願いします。おっちょこちょいな奴ですけど、わたしには息子みたいに可愛くてね、ははは」
「任してください。お父さん、ははは」

4人はいつまでも、きちがいのように笑い続けた。

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