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seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

逆事 さかごと

2011-07-19 | 読書
 河野多惠子の小説集「逆事(さかごと)」を読んだ。表題作のほか、4つの作品からなる短篇集である。
 逆事、というのは、広辞苑によれば、「ものの真理に反すること。また、順序が逆であること。特に、親が子の葬儀を営むこと」などとある。
 「人は満ち潮で生まれ、干き潮で死ぬという――。谷崎も、佐藤春夫も干き潮で逝った。だが三島由紀夫が逝ったのは、満ち潮に向かうさなかのことだった」と本の帯にあるように、潮の満干と生死の謂れを次兄の十三回忌に聞いた語り手が、志賀直哉の小説「母の死と新しい母」の中に出てくる実母の臨終シーンを思い起こし、さらに自分の父や母の死にまつわる話へと記憶をたどりながら、実母の2歳上の姉だった伯母の死へと思いを巡らせていく。
 その伯母は、戦争でひとり息子を亡くしているのだが、語り手が靖国神社の近くに家を構えたことを知った彼女が、何とか靖国神社に泊まる出立てはないものかと電話で問い合わせてくる。
 いくら念じても息子が夢に現れてきてくれない、小さい時の息子は現れてきてくれたことはあるけれど、大きくなってからの息子はただの一度も来てくれたことがない。自宅が空襲で焼けてしまい、帰って来ようのない息子のために、靖国神社に泊まってやれば必ず夢に出てくるにちがいない。添い寝してやりたいと言ってやまないのだ。
 はかばかしい返事のしようもないままいつしか連絡は途絶え、3年ほどが過ぎてその伯母は死んだ。
 ある日、神楽坂の紙店に原稿用紙を買いに行った帰り、靖国神社の境内を通り、御手洗で柄杓から水を飲んだとき、水槽の斜め向かいで、大きい丸柱に片手を当てて立っている老女を見る。……それは伯母の幽霊だった。

 三島の死や志賀直哉の小説がこの作品にとって必要不可欠な要素であり、構成の土台を成すものといえるのかどうかは分からないのだけれど、気ままとも思える記述のペン先は、あちらに行っては思いを綴り、こちらについても書き進めながら、その連想からさらに次の文章が生まれるという随筆風に言葉をつむぎながら、死んだときの伯母の気持ちに思いを収斂させていく。その筆の運びは見事としか言い様がない。
 所収の5作に共通するのは、人の住まう場所や生死にまつわる謎が綾なす深淵、ということだろうか。
 人は何もかもを語り尽くして生きているのではなく、むしろ語りえぬまま哀しみを胸に抱いて死んでいくのかも知れない。

 4番目に配列されている短篇「緋」は、20年に及ぶ夫婦の来し方を、夫の転勤に伴う住まいの転変とともに描きながら、突如として燃え立つようなエロスが凡百の官能小説を凌ぐ描写で衝撃を与えたかと思う間もなく、何ごとか語りえないまま言葉を呑みこむような妻の受け答えのうちに、この瞬間もまた永遠に理解し合えることなどない日常性の闇に回帰していくのだろうと思わせるラストがぞくりとする余韻を残す……。

 小説というものの表現の自由さ、得体の知れなさを存分に味わうことのできる短篇集である。

チェーホフのいたずら

2011-02-20 | 読書
 もう一週間が過ぎてしまったが、先週月曜の午後から降り始めた雪が、交通網を撹乱しながら、東京の町全体を真っ白な雪景色に覆ったかと思えば、翌日の陽気でその夕刻にはもう道路は乾いてしまっていた。
 朝にはぐしゃぐしゃにぬかるんだ道を歩いていたのでその落差に驚いてしまったものだが、週末になっても少し路地に入った日の当たらない家の陰などには根雪が残っていて何となく風情を感じたりしたものだ。(雪国の人たちには申し訳ないようだけれど……)

 そんなふうに雪が降り積もったりするたびになぜだか思い出すのが、梶井基次郎の「泥濘」や「雪後」といった小説だ。
 「泥濘」では、雪の降ったあと、実家から届いた為替を金に替えるために主人公が銀行に出かける。「お茶の水から本郷に出るまでの間に人が三人まで雪で辷った」「赤く焼けている瓦斯暖炉の上へ濡れて重くなった下駄をやりながら自分は係りが名前を呼ぶのを待っていた」といった文章が印象的に記憶に残っているのだが、この小説が書かれた昭和初年の頃の舗装も施されていない東京の町並みが思い浮かぶ。
 一方、「雪後」の中では、地味な研究生活を送る主人公が、文学をやっている友人から聞いたというロシアの短篇作家の書いた話をその妻にする。
 少年が少女を橇遊びに誘う。橇に乗って風がビュビュと耳もとを過ぎる刹那、少年が「ぼくはお前を愛している」と囁く。それが空耳だったのかどうか確かめたいばかりに今度は少女が何度も少年を橇遊びに誘い、その声を聞こうとする。
 「もう一度!もう一度よ」と少女は悲しい声を出した。今度こそ。今度こそ。
 やがて二人は離ればなれの町に住むようになり、離ればなれに結婚するが、年老いても二人はその日の雪滑りを忘れなかった――という話だ。

 すでにご存知の方も多いと思うけれど、これはチェーホフの短篇小説で、「たはむれ」あるいは「たわむれ」というタイトルでよく知られている作品である。井上ひさし氏も「人生はあっという間に夢のように過ぎてしまうという生の真実をあざやかに書いている」として絶賛していたらしい。
 私はこれを最初に講談社文芸文庫版の木村彰一の訳で読んだ。なんて素敵な小説だろうと思ったものだ。
 その同じ小説が、昨年9月に刊行された沼野充義氏による「新訳 チェーホフ短篇集」の中では「いたずら」という題名で紹介されている。沼野氏の解説では、「いたずら」と訳しているものとしてあとは松下裕氏のものがあるくらいとのこと。
 原題のロシア語は「ちょっとしたおふざけ」くらいのニュアンスで、「たわむれ」も悪くはないのだが、現代では少しきれいごとに過ぎるような気がして「いたずら」を採ったとのことだ。

 この小説をチェーホフははじめに1886年に発表したのだが、それを1899年に改訂し、結末部分を大きく書き替えている。最初の発表時、チェーホフは開業医として仕事を始めてまもなく、ユーモア作家として短篇を書きまくっていた頃で、一方、改訂版の時にはすでにシリアスな大作家としての地位を確立していた時期である。
 一般に知られているのはその改訂版なのだが、沼野訳の短篇集では、その両方を上下2段に並べて提示するという面白い「いたずら」をしている。
 読者に対して、さあ、お好きな方をお読みください、というわけだ。

 沼野氏はそのほかにもこの短篇集でさまざまな翻訳上のいたずらを仕掛けているのだが、それは好みもあるだろうし、読んでのお楽しみというところ。
 それにしてもこの「新訳短篇集」はそれぞれの作品に付された解説が充実していて面白い。初めて知るような発見があってナルホドなあと思ってしまう。
 この「いたずら」という作品に関しては、多くの女性を惹きつけながら、結局普通の男女関係になかなか踏み込もうとしなかったチェーホフの恋愛に対する態度を反映したもの、という見解を示している。
 さらには通俗的なフロイト的解釈として、処女の純白を思わせる雪に覆われた丘を燃えるような赤いラシャ張りの橇に乗り、少女は男にそそのかされ、奈落の底に落ちるように飛んでいく。その刹那、男は恍惚感の絶頂で少女に囁きかける。その意味するところは説明を要さない、という訳だ。
 この深層心理の解釈に感心はするものの、なかなか同意はし難い。もっとも少年少女それぞれのその後の結婚生活が完全に幸福なものであったとは到底思えないわけで、そうした生活の中で夢見る、自分たちが獲得したかもしれない官能のあるべき姿がその記憶=思い出に投影されているということは言えるのだろう。

 そうした目でもう一度梶井基次郎の「雪後」を読み返してみると、以前はどうしてこのエピソードが挿入されているのかその意図を測りかねていたのが、何となく感得できるように思えてくる。
 「雪後」には、お産を控えた若い妻のいる結婚生活と主人公の苦しい研究生活が対比され、そこに社会主義運動に関わる友人の姿をとおして当時の社会状況が点描される。
 さらに、このチェーホフの短篇のエピソード、女の太腿が赤土の中から何本も何本も生えているという夢の話、姑が見たという街の上でお産をする牛の話などが加わってこの小説は構成され、それらの要素が渾然となって、一人の若い研究者の不安と希望が象徴的に描かれているのである。

 梶井がこの小説を書いたのは、チェーホフ没後22年経った頃だ。いわば同時代の現代作家といってよいだろう。
 それから85年。いま、チェーホフも、梶井基次郎も、同時代の作家として私たちとともにいる。

白い象

2011-01-23 | 読書
 正月、テレビのバラエティ番組の多さにはいささか食傷気味になったが、中にはハッとするような発見のあることもないわけではない。
 何の番組だったか、お笑い芸人やタレントが知識を競う3択クイズのなかで「白い象」は英語の俗語で何を意味するか、という質問があった。
 これは外国語の堪能な人にはありきたりの常識的な問題なのかも知れないのだが、答えは「無用の長物」である。無知な私はその答えを聞いて、突如視界の開けるような思いに捉われた。いわゆるアハ体験である。
 私が敬愛するヘミングウェイの短篇小説に「白い象のような山並み(Hills Like White Elephants)」という題名の小説があるのだが、そのタイトルと小説のなかで登場人物たちの交わす会話の意味が一挙に腑に落ちたような気になったのだ。

 この小説には当然何種類もの訳と版があり、それぞれ微妙にニュアンスが異なるように感じるのだが、この文庫本で10ページ足らずの短い小説を私は長く自分のなかのランキングの上位に置いてきた。
 うっかりと引越しを繰り返すうちに行方が分からなくなってしまった集英社版「世界の文学」に収録された翻訳が素晴らしく、私は友人にもことあるごとにその小説の魅力を語ってきた。(その翻訳者の名を私は失念したままなのだが・・・・・・)
 「こんな短篇が死ぬまでに一つでも書けたらほかに何も書けなくてもいい」くらいのことは言っていたように思う。
 友人は新潮文庫の以前の版でそれを読んだが、今ひとつピンとはこなかったようだ。「お前がそれほどまでに言う意味が分からない」としきりに言っていた。

 当然、私はそれぞれの本の末尾に書かれた解説を読んではいる。
 いま、新潮文庫のヘミングウェイの翻訳は高見浩氏のものになっているが、その「われらの時代・男だけの世界―ヘミングウェイ全短編1-」のなかで、訳者はその比喩の意味について「白い象(象の白子)は飼育にとびきり金がかかるため、昔、タイの国王は意に染まない家臣にわざとこれを送って破産させたという。転じて、“貴重だが始末に困るもの”の意を含む」と解説している。
 以前からこの解説を読んで知っていたにも関らず、クイズ番組の答えを聞いて何故いまさらのようにハッとしたのか・・・・・・。
 結局、それが俗語として一般に流通する言葉であるということの発見であったわけだ。
それが言葉の背後に秘められた隠喩であることと、日常会話でも頻繁に使われる俗語であるということには、大きな懸隔があるのだ。
 小説の主人公たちは、旅先で出来てしまったもの(無用の長物)の処理について言い争い、目の前に広がる山々が「白い象」のように見えるかどうかについて虚しい会話を繰り広げる。

 この小説について、篠田一士氏はその著書「二十世紀の十大小説」(1988年刊)のなかで、読んだはじめは訳の分からないところがあまりに多過ぎて、とてもすんなり呑み込めるようなものではなかったが、「折にふれ、なにかのハズミで、この短篇小説を読みかえすたびに、『白象に似た山々』のすごさは、次第にあきらかとなり、いまは、なんら躊躇うことなく、ヘミングウェイの傑作短篇のなかでも、第一等のものと推すだけの心構えはしかとある」と書いている。

 昨年3月に刊行されたちくま文庫版のヘミングウェイ短編集の解説のなかで、編訳者の西崎憲は、「『白い象のような山並み』は快い作品でもないし、愛玩するような作品ではない。むしろ読んだ後に残るのは漠然とした不快感だろう。しかし、この作品がデフォー以来世界中で書かれた短篇小説のなかで屈指のものであることに疑いをさしはさむ余地はない」と言い切っている。

 小説の魅力を文章で語ることは、舞台の印象や美術作品の美しさについて語ることと同様に虚しい。
 そう思いながら、もう一度西崎訳でこの小説を読んでみる。
 まるでト書きのようにそっけなく事実を連ねただけのような地の文に、登場人物の会話が芝居の台詞のように重ねられる。交わされる言葉の背後では、“始末に困る贈り物”を間において交錯する心理が綾をなしながら火花を散らす。
 これはこのままで上質な一幕の芝居になるのではないかな。そんなことを思いながら、そっと余韻を味わっている。

和のエクササイズ

2011-01-10 | 読書
 先日、テレビ番組で、地震体験をする部屋の中に男女、職業を問わずさまざまな人が入って、誰が最後まで立ち続けていられるかという実験をやっていた。
 なかにはスポーツで身体を鍛えた屈強な学生や立ち仕事が多いガードマンや料理人なんて人たちもいたのだが、激しい振動にもめげず最後まで涼しい顔で立っていたのは何と可憐で細身のバレリーナの女性だった。
 これはバレエダンサーがその鍛錬によってインナーマッスルを鍛えているからだということだ。身体を支え、バランスをとるのは、二の腕の筋肉や腹筋ではない。この番組は身体の内側の筋肉を鍛えることが大切だということを解説するためのものだったのである。

 こうした効用はなにも西洋のバレエやダンスに限らない。日本の舞踊や和の所作の中に身体の機能を高める力があるということを能楽師の安田登氏がその著作「身体能力を高める『和の所作』」(ちくま文庫)で書いている。
 この本ではインナーマッスルを深層筋と表記しているが、能楽師が80歳、90歳になっても颯爽と舞っていられるのは、表層筋だけに頼らない独特の所作によるものだというのである。
 その所作の代表的なものとしてこの本では「すり足」を中心に取り上げ、そのエクササイズの方法を示している。
 そうした訓練によって、代表的な深層筋である大腰筋を鍛え、呼吸を深くすることで集中力を高め、持久力のある身体をつくることができるというのである。

 「すり足」は簡単なようで一朝一夕に身には着かない。私など足元に気をとられると必ず背中が丸まってしまい、みっともないことこのうえない。やはり、若い時からちゃんと勉強しておくのだった。
 この「すり足」は思えば相撲や剣道など日本古来の武術においても特徴的なもので、これは文化に深く根ざしたものなのだろう。

 竹内敏晴氏はその著作「教師のためのからだとことば考」(ちくま学芸文庫)のなかで日本人の基本姿勢について次のように書いている。
 「ヨーロッパ人の姿勢の基本は、キリスト教会のように、上へ上へと伸びあがります。そのいちばんはっきりした例はバレエでしょう。爪先立ち、胸は高く支えられ、頭はもたげられる。そして手は水平に、無限のかなたへ向かってさしのべられる。歩くにも腰から動き、膝を前へのばし、後足で大地を蹴り、腕を振る。つまり大地は人がそこから出発し飛躍する地点です。
 日本人の基本姿勢は、腰を割り水平に支えたまま、膝をゆるめ、足のうらを大地にぺちゃりとつけ、上体はゆるめて腰にのせておく。歩く時は腰を水平に保ったままややがにまた風に、ほとんど手は振りません。歌舞伎や日本舞踊の基本はみなこれです。これは大地に苗を植え泥に踏みこむ水田農耕民の姿であり、大地は帰るところ、同化する相手だといえましょう。」

 こうした基本姿勢は日本人の文化に由来するものであり、身体の動きを規定する思想でもあるのだろう。
 それは暗黒舞踏など、日本で発祥した現代の舞踊ジャンルにも色濃く反映されている。

 思えば今日は成人の日である。今年の成人は124万人、4年連続で減少を続けているとのことだが、街には和服姿の若者があふれているだろう。
 すでに荒れる成人式のニュースが流れているが、注目するマスコミに軽薄なワカイモンが煽られている面もあるような気もする。
 和の装いに相応しい振る舞いを身につけるためにも、彼らには是非「すり足エクササイズ」と呼吸法の習得を勧めたい。

閃きは突然?

2010-06-19 | 読書
 「直観的な閃きは突然、予想もしない形で生まれるという神話がいつまでも生き延びているが、それは社会的な交流やコラボレーションを通じた出合いが洞察を生み出していることを意識しない者が大部分だからである。」
 「洞察も日常の思考と異なるものではない。洞察も一歩ずつ進み、自分の思考がどんな働きをしているか意識的には気づかないときでも、私たちは日常的に脳の処理作用を活用している。自分独りで突然の霊感を感じたとしても、そのもとをたどれば、しばしばコラボレーションに行き着く。」

 上記は、前回もふれた「凡才の集団は孤高の天才に勝る『グループ・ジーニアス』が生み出すものすごいアイデア」(キース・ソーヤー著)からの引用だが、同様の例は私たちの身の回りにも散見される。

 先日のことだが、ある友人と話をしていて、共通の知人が作成を担当したある計画書のことが話題になった。その計画は一定の評価を得て広く知られることになったが、当の知人は当初その執筆に行き詰っていた。
 それで私がその全体的な構想をまとめ、裏付け資料や図表の作成を除く下書きまでを手伝ったのだった。それ以降は、上司のチェックを受け、提出するという一連の作業を知人が自身で行った。
 「あの計画づくりに彼はずい分悩んでいたよね」という話になった時、その話し相手の友人が、「あの時は自分がかなり手伝ってあげたよ」と言ったので驚いてしまった。
 私も友人も、お互いが知人の仕事に協力していたことをその時まで知らなかったのだ。おそらく知人は、計画作成に悩みながら、あちらこちらでSOSを発信し、情報を得ていたのだろう。

 また、別の話。
 友人と私が共同で立ち上げたと私自身が認識しているあるプロジェクトに関して、その友人が人前で「あれはわたしが考えた企画だ」と話すのを聞いて驚いたことがある。その人はプロジェクトの企画が自分自身のアイデアだと思い込んでいるようなのである。
 実際は、何か事業を起こそうと仲間内で話し合いになり、私が以前からやりたいと思っていたことを提案した。友人はそのアイデアをさらにふくらませ、ネーミングや事業展開の具体化を図ったということなのだ。

 私はなにも友人の働きにケチをつけたいわけでも、自分の関与を誇示したいわけでもない。
 個人的な創作においても、ましてや組織・集団でのプロジェクトにおいては、さまざまな人との交流やコラボレーションのなかからこそアイデアは生まれる。
 であればこそ、すばらしいアイデアを生み出すためのコラボレーションのあり方は、まさに研究に値することなのだろう。

 かつて、いくつもの新しい有効なアイデアを生み出していた組織・集団が、いつの間にか決まり切った事業をただ反復しているようにしか見えなくなるとき、それはコラボレーションや関係者間のコミュニケーションに何らかの問題があることの証左に違いないからである。

コラボレーションの力

2010-06-15 | 読書
 すでに1年以上も前に出た本なのだけど、ビジネス書の棚で見つけた「凡才の集団は孤高の天才に勝る~『グループ・ジーニアス』が生み出すものすごいアイデア」を面白く読んだ。キース・ソーヤーという経営コンサルタントでワシントン大学の心理学・教育学部教授の著作である。
 その中で著者は、かつては一人の天才が創造したと信じられていた各種のイノベーションや歴史的に名高い発明や発見が、実際には目に見えないコラボレーションから生み出されているということを実証的に述べている。

 例えば、シグムント・フロイトは精神分析学の創始者とされているが、その数々のアイデアは、同僚たちの幅広いネットワークから誕生したものだ。
 さらに、クロード・モネやオーギュスト・ルノワールに代表されるフランス印象派の理論は、パリの画家たちの深い結びつきから生まれた。近代物理学におけるアルバート・アインシュタインの貢献は、多くの研究所や学者チームの国際的なコラボレーションが母体となっている。
 このように偉大な発明はすべて、小さな閃きの長い連鎖、様々な人々からの情報提供と深い意見交換を契機として生まれたものなのである。
 著者は、ポスト・イット(付せん)がどうやって生まれたか、ATMやモールス信号がどのようにして発明されたかについても順次述べていく。当初のアイデアは、コラボレーションの助けを得て、やがて次のアイデアを導き出し、それとともに当初のアイデアは思いもかけないような意味を帯びてくる。
 このようにコラボレーションは、小さな閃きを互いに結び合わせ、画期的なイノベーションを生み出すのである。

 法政大学教授で江戸文化研究者の田中優子氏は、昨年3月の毎日新聞に書いた書評で、このコラボレーションを江戸時代の都市部で展開していた「連(れん)」になぞらえている。
 「連」は少人数の創造グループで、江戸時代では浮世絵も解剖学書も落語も、このような組織から生まれた。個人の名前に帰されている様々なものも、「連」「会」「社」「座」「組」「講」「寄合」の中で練られたのである。

 もっとも革新的なものが、もっとも伝統的で日本的なものと呼応していると感じることは、なんと私たちを勇気づけ、鼓舞してくれることか。

山本周五郎を読むこと

2010-02-12 | 読書
 久しくまとまった読書から遠ざかっていたので最近はなにかというと近所の書店に入り浸ってそのたびに本を買い漁ってくる。それはよいのだが時間のやり繰りがずぼらな私はそれらの本を読み終わらないうちに新しい本が次々と机に積み上げられる態でため息ばかりつく破目になる。

 そうした新刊本を尻目にこの何日か読みふけったのが山本周五郎の短編小説だ。書棚の奥で紙の色が茶色く変色したような昔読んだ文庫本なのだが、大いに癒された。
 私が読んだのは黒澤明監督作品「椿三十郎」の原作でもある「日日平安」を表題作とする短編集で「しじみ河岸」「ほたる放生」「末っ子」「屏風はたたまれた」「橋の下」「若き日の摂津守」「失蝶記」などいずれも心にしみ込んでくる名品ばかりだ。
 山本周五郎の文章はなぜこんなにも心に響くのか。半世紀も前のそれも時代小説なのになぜその文体や手法がこんなにも新しく感じるのか。
 開高健はわが国の小説家で真にハードボイルドの文体を持っているのは山本周五郎だと言っていた。
 山本自身は海外小説をよく読んだようだし、理屈をこねる批評家は毛嫌いしたそうだが、若手の作家では大江健三郎や山口瞳を認めていた。
 そう思いながら改めてその小説を読み返すと、山本の文体にはヘミングウェイの短編小説や大江健三郎の初期の小説の文体と通じるものがあるようにも感じられる。
 「樅ノ木は残った」の冒頭の緊迫したシーンの積み重ねなど、ハードボイルドのお手本と言ってよいほどだろう。

 今回、私が初めて読んだのは「失蝶記」だ。事故で聴力を失った青年武士が、裏切った仲間の罠にかかって親友を切ってしまう悲劇で、その青年自身の語りと友人の許婚者の女性に宛てた書簡によって成り立っている。
 物語の背景に、奥羽同盟の中にあって仙台藩の圧力を感じながら王政復古派と佐幕派に二分した幕末の小藩という事情があり、先日私が関わった芝居の舞台とも重なって余計に興味深く感じられた。
 折に触れ、生きる力を与えてくれるその小説は汲めども尽きない魅力に満ちている。

バベルの図書館

2009-12-12 | 読書
 子どもの頃、私の住んでいた町には小さな図書館がひとつあるだけだった。
 およそ貧しい蔵書ではあったが、私にとってはとてつもなく大きな宇宙のように思えた。館内のすべての本を読みつくすことを夢見ながら、この世界にはどれだけの本があるのだろうと考えてはそっとため息をついたものだ。

 つい最近の新聞記事で、国内で発行されたすべての出版物を収集・保存することが義務づけられている国立国会図書館では、昨今の出版点数の激増や本の大型化等により、収容スペースが限界に近づいていると報じられていた。
 片や別のニュースとして、米国の25図書館が参加する世界最大の「バーチャル(仮想)図書館」が本格稼働するとの記事がある。江戸時代の古文書など、英語以外の書物も含め、蔵書数は当初450万冊規模だが、1年半後には1千万冊超に拡大するとのことだ。
 米国検索大手某社の書籍デジタル化問題は日本の出版界を巻き込んで大論争となったが、電子化をめぐる著作権のルールが整備されれば、蔵書数はさらに飛躍的に拡大し、いずれは誰もが自分の部屋にいながら、パソコンの窓を通じて世界中のあらゆる書物を閲覧することができるようになると思われる。
 バーチャル図書館の出現は、蔵書の保存や収容スペースの確保に関する悩ましい問題を一挙に解決するものとなるのだろうか。

 アルゼンチンの国立図書館長でもあった作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、1937年に書かれた「バベルの図書館」という作品のなかであらゆる本を所蔵する無限の宇宙ともいうべき図書館を夢想している。一方、その末尾に付された注釈では「広大な図書館は無用の長物である」と断じ、無限に薄いページの無限数からなる「一巻の書物」で充分なはずと記述する。
 バーチャル図書館において、その一巻の書物は一台のノートパソコンや携帯端末に取って代わられるのだろう。

 さて、「バベルの図書館」が書かれてから5年ほど後、ボルヘスの10歳年下で昨年生誕100年を迎えた中島敦は「文字禍」という小説で、まだ紙というものがなく、粘土板に硬筆で符号を彫りつけて書物とした古代メソポタミア時代の図書館を描いている。いわく「書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた」時代の話である。
 主人公の老博士は、文字の霊の存在を確かめるために一つの文字を幾日もじっと睨み暮したあげく、その文字が意味を失い、単なる直線どもの集まりにしか見えなくなる。そればかりか、ある日、その地方を襲った大地震によって、夥しい書籍すなわち数百枚の重い粘土板の下敷きとなって圧死する。自らの存在を疑った者に文字の霊が復讐したのである。
 ボルヘスと中島敦、この二人の作家が、地球の裏側でほぼ同時期に対照的な図書館の物語を夢想したことは実に興味深い。

 デジタル記号と化した文字が縦横に飛び交う宇宙空間を経巡り、私の記憶は40年ほどの時間を遡って再び小さな町の図書館へと辿り着く。
 そこでは、捕虫網を片手に麦わら帽子をかぶり、鼻の頭に汗の玉を浮かべた子どもの私が、薄暗い図書館の片隅で、「ファーブル昆虫記」やドリトル先生、シャーロック・ホームズの冒険譚に読みふけっている。

 あの至福に満ちた読書の時間は再び訪れるのだろうか。

きのうの神さま

2009-09-24 | 読書
 この数日、風邪でのどを痛めたらしく声が出ない。鬼の霍乱といえるかどうかは分からないが、老俳優もたまには弱りこむことがあるのだよ。
 幸い熱はないので例のインフルエンザではないとは思いつつ、こんな状態で劇場に足を運んだりしてよかったのかと反省する。
 しかし劇場というところは自分が病原ではないとしても、極めて閉鎖的な条件下で2時間前後も缶詰になって多数の人が同じ空気を呼吸する特殊な場所である。誰かから歓迎されざるプレゼントをいただいたとしても拒否できないところが何とも厄介である。逆のケースもまた同様である。

 私は元々のどは丈夫なほうだから声が出なくなるという経験はこれまでほとんどないのだが、一度だけ、もう30年も前、公演中に声帯を痛めて困ったことがある。
 徹夜で台本を書いたり、酒を飲んだり、タバコを吸ったりと無理な生活がのどに祟ったわけだが、仲間の役者にタバスコ入りの水を飲まされるという悪戯をされて決定的に声が出なくなった。
 回りの人間に聞くと、私の台詞はちゃんと聞こえているというのだが、自分では30センチより遠くまで声が届いているという実感がまるで持てないのだ。水の中で耳栓をしてしゃべっているようで自分の声が反射してこない。そこで無理して声を張り上げるものだから余計に声帯を痛めてしまったのだ。

 それこそあちらこちらの医者に駆け込んだり、龍角散やらあらゆるのどに良いといわれるものを試した挙句、人づてに聞いて試したのが漢方の「梅蘭芳丸(めいらんふぁん・がん)」という丸薬である。
 声が美しいことで有名だった京劇の名優にちなんだこの薬は当時の私にとってそれこそ痛い出費だったが、だからこそだろうか、効果は覿面であった。
 以来、「梅蘭芳」は私のあこがれの俳優なのである。

 さて、そんなことでこの何日かは、劇場に出かけた以外は床に寝転んで本を読んでばかりいた。
 その一冊が西川美和著「きのうの神さま」である。
 直木賞候補にもなったし、すでに多くの方が読んでいるだろうが、とても面白く楽しめた本である。
 以前感想を書いた映画「ディア・ドクター」のための取材の過程で集めた素材をもとに、映画とは違った切り口で、あるいは異なる料理法で、映画の中では掬いきれなかった灰汁を旨味に転化したといった短編集である。
 単なるノベライズごときでないことはもちろんだが、僻地医療の実態や医療現場の周辺で起こるドラマを小説ならではの高度な表現に昇華した作品群なのだ。

 西川美和の特質は抜群のセリフのうまさにあると思うが、これはまあシナリオも書く彼女だからこそなのかも知れない。さらに、文章の間から浮かび上がってくる空間の深さや具体的な絵の鮮やかさは優れた映像作家のものだろう。
 直木賞に至らなかったのはどんな理由なのか、切れ味が良すぎて小説特有の破綻がないといえば言えるのかなと素人目には思うけれど、それは言っても仕方のないことではないだろうか。

 若返って映画監督になった向田邦子を彷彿とすると言ってもあまり異論はないと思うけれど、映画と文学、その両方の世界でこれからどんな作品を見せてくれるのか、楽しみな作家だ。

月とドッペルゲンガー

2009-09-13 | 読書
 本を読んでいて、その内容が同時期に読んでいたまったく関連のない別の小説や新聞記事のテーマと偶然のように重なり合っていて驚くことがある。それはまた読書というものの密やかな喜びでもあり、楽しみでもある。

 最近では、たまたま赤江瀑が1970年に書いた「ニジンスキーの手」という短編小説を読んでいたところ、12日付の日経新聞に20世紀舞踊の礎を築いたバレエ団「バレエ・リュス」のことが特集されていて、そのなかでドイツ・ハンブルク市立美術館に展示されたニジンスキーが精神病を発病した頃に描いたというデッサンのことが書かれていた。
 「ニジンスキーの手」は、ニジンスキーの師であったディアギレフとの軋轢とそれによる精神的緊張がニジンスキーを病へと追い込んだという説を遠景として、ある日本人ダンサーの憎悪と野望を描いたミステリーである。
 今年は「バレエ・リュス」が結成されてからちょうど100年とのことで、各地で再評価の動きがあるという。
 同バレエ団は1929年に解散し、ダンサーたちは世界に散ってバレエを広めた。その影響は、モーリス・ベジャールが自身を「バレエ・リュス」の後継者と公言したことにとどまらず、ジョン・ノイマイヤーやマース・カニングハム、ピナ・バウシュにまで及ぶという。
 わが国の傑出した男性ダンサーである熊川哲也もまたニジンスキーの系譜のなかにあると新聞には書かれていたが、いつか「ニジンスキーの手」を原案としたドラマや映画が撮られるとしたら、あの野心的な主人公役にはやはり熊川哲也が似つかわしいだろうなどと勝手に想像してはほくそえんでいる。

 さて、北村薫の「鷺と雪」については別の機会にも触れたが、この表題作はドッペルゲンガーが謎解きのテーマになっていて、芥川龍之介の小説のほか、ハイネの詩にもとづくシューベルトの歌曲「影法師」のことが作中に出てくる。
 この詩には森鴎外の訳があって、そちらの方の訳題は「分身」なのだそうだが、その一部が小説に引用されている。

  しづけきよはのちまたには
  ゆくひともなしこのいへぞ
  わがこひゞとのすみかなる

 この「鷺と雪」を読む直前、必要があって梶井基次郎の「Kの昇天」を読んでいた。
 これは月の光によってできた自らの影に憑かれたKという青年の死を描いた散文詩のような作品であるが、このなかにもシューベルトの同じ曲が重要なモチーフとなって出てくるのである。こちらでのタイトルは原題のまま「ドッペルゲンゲル」あるいは「二重人格」と紹介されている。

 梶井の小説にはハイネの詩の訳は出てこないので、北村薫の小説を読むまでは、もしかしたらこれは梶井基次郎の巧妙なでっち上げなのではないかなどとあらぬことを考えていたのだが、シューベルトの歌曲集を漁ってみるといとも簡単に見つけることができた。(当たり前か)
 以下、マティアス・ゲルネ(バリトン)とアルフレッド・ブレンデル(ピアノ)によるフランツ・シューベルト歌曲集「白鳥の歌」D.957のジャケット解説文からその訳詩を引用する。(訳:西野茂雄)

  夜はひっそりと静まり、まちは眠っている、
  この家にぼくの恋びとが住んでいた。
  彼女がこの町を去ってすでに久しい、
  だが、その家はもとのところに立ったままだ。

  そこにはまたひとりの男が立って、
    天を仰ぎながら
  はげしい苦痛にもろ手をよじっている。
  その顔を見たとき、ぼくはぎょっとして慄えた、
  月あかりが見せたのは、ぼく自身の姿だったのだ。

  おい、兄弟、蒼ざめたもうひとりのぼくよ!
  その昔、この場所で、数知れぬ夜々、
  ぼくを苦しめたあの愛の悩みを
  なんだってむしかえしたりしているのだ?

 鴎外の訳とはずいぶん趣が異なるけれど、意味はよく分かる。そしてその《想い》の深さ、苦しさも・・・。
 これらの小説には、月と影、恋と死、昇天と墜落など、様々な隠喩が散りばめられ、その言葉の一つひとつが私たちの想像をあらぬ方向へと誘うようだ。
 「Kの昇天」には、ジュール・ラフォルグの次の詩句が引用されている。それは私の中で何度も何度もリフレインされ、鮮明な映像を結ぶ。そこに私は自分自身の姿を見てしまう。

  哀れなる哉、イカルスが幾人(いくたり)も来ては落っこちる。

終の住処はどこに

2009-09-04 | 読書
 「彼による企画発案の商品は過去最高の売り上げを記録していた。(中略)成功の理由が何なのか、じつは彼じしんも判然とはしていなかった。いずれどこかの時点で、誰かが思いついたであろうことを、たまたまこのタイミングでこの役職にいた彼が実行に移しただけだ、という思いの方が強かった。効率的な組織というのは元来がそういう性格、構成員の代替可能性を内在するものなのだ。」

 磯憲一郎氏の芥川賞受賞作「終の住処」の中に上記の文章があって、妙な実感とともに同感するところがあり、記憶に残った。
 最近、私自身にそんなことを考えさせられる出来事があったからなのだが、個人が成し得る仕事の大半はそんなものかも知れないとも思う。
 担当していた事業やイベントで困難に遭遇し、どんなに身の細る思いで奮闘したあげくの成果であったとしても、数年経てば忘れられる。おまけにその部門のトップからは「そういえばあの頃、君も関わっていたよね」などと言われ、いたたまれない思いをする。
 割に合わないようだが、組織で仕事をするというのはそうしたことなのだ。それはビジネスだろうが、芸術だろうが同様なのだろう。また、そうでなければ組織は生き残れない。

 さて、その「終の住処」であるが、大企業に勤める優秀なビジネスマンの書いた小説ということがサラリーマンの関心を呼んだのか、はたまたテレビに出演した磯氏の素敵なおじさまぶりが若い女性の好感を引き寄せたのか、近年の芥川賞受賞作としては異例の売れ行きとのことである。
 もっともそんな目でこの小説を読むと、大半の人は驚くか、あるいは戸惑うかも知れない。
 この作品は、新聞報道等で要約された内容にはとても収斂されない謎や不可思議な展開によって構築された極めて小説的な世界を提示しているのだ。

 雑誌「文学界」9月号の磯憲一郎氏と保坂和志氏の対談で磯氏自身が「終の住処」について「要約するのが無理な小説である」と規定している。
 「僕の小説は、要約が基本的に馴染まないんですよ。具体性の積み重ねだけなんで。デビュー以来どの小説も、要約されると、気が狂った人が書いているとしか思えないようなもので・・・」

 よく引き合いに出されているのが、カフカやガルシア・マルケスを想起させるような展開ということであるが、それよりも私はこの小説を読みながら、突拍子もなく川端康成の「片腕」のような作品を思い出していた。
 どちらも書きつけられた文章が次の文章を導き、それがまた次の文章をつむぎだすという工程を繰り返しながら妄想としか言いようのない世界を構築していく。
 それはあらかじめ企図され、設計図のように構想されたストーリーなどではなく、文章をこつこつと書きつけることではじめて生まれる世界なのだ。

 このことを先の対談で作家の保坂和志氏は次のように言う。
 「ほんとに書きたいことなんていうのは『終の住処』がいい例で、書きながらしか出てこない。それはほんとに作品が、母とか妻とかが命令するように、著者に命令するんだよ。『もっとなんか突飛なことを書けよ』みたいな。その命令に従っているんだよね」

 小説が小説であることの存在理由を示している点において「終の住処」は優れた作品なのだと思う。

再び、「朗読者」について

2009-08-18 | 読書
 季刊誌「考える人」2009年夏号の特集は「日本の科学者100人100冊」である。
 わが国を代表する著名な科学者の著作を1冊ずつ取り上げ、紹介している。
 物理学者で科学評論家の高木仁三郎は核化学者としてのキャリアを棄てて反原発運動に専心し、プルトニウムを利用する日本の核燃料政策を批判した人であるが、その項を武田徹氏が執筆している。
 以下、一部を引用。
 「しかし高木の参加により推進側と科学的議論で対峙できるようになって力をつけた反原発運動は逆説も孕んでいた。たとえば東海村臨海事故は、バケツで濃縮ウランを扱うことに疑問を感じない、核関係の知識を根本的に欠いた作業員がそこで働いていたために起きた悲劇だった。反原発運動が功を奏し、多くの人が核関係施設で働くことを忌避した結果として、そこでしか働けない弱者が危険に曝される悲劇が生じる」

 正義の主張、運動と思われるものが、知識を持たない弱者を悲劇に陥れるという逆説であるが、さらに恐ろしいのは、その弱者が何も知らないが故に、ある日突然、加害者に変容してしまうということである。

 映画「愛を読む人」を観たあと、気になって原作の「朗読者」の一部を再読した。
 映画は原作を凌駕したなどと思わず書いてしまったが、もちろん映画だからこそリアルに描かれている部分もあれば、小説でなければ描けない部分もある。
 どちらの表現が優れているなどということではなく、この作品の場合はその両方を味わうことでより理解が深まり、考えさせられるのだと思う。

 主人公のハンナ・シュミットは貧しい暮らしの中で非識字者として成長し、当時の政治状況の中で生きるためにやむなくナチスの親衛隊に入り、ユダヤ人収容施設の看守として働くことを余儀なくされたと想像できる。
 彼女にとって、看守としての役目を全うすることは無知であるがゆえに、あるいは職務に忠実であろうとするがゆえに倫理に適ったことだったのだ。
 私たちに彼女を裁くことは出来るのだろうか、私が彼女だったらどうしただろうか、ということに私たちは絶えず思いを寄せる必要があるだろう。
 映画の中では逆にさらりと描かれていたが、ハンナは20年に及ぶ刑務所生活の過程で必死の努力によって文字を覚え、読書することを覚えていった。その読書対象となった本には、マイケル(原作ではミヒャエル)が朗読してくれたものや文学書ばかりでなく、ナチの犠牲者たちの本やルドルフ・ヘスの伝記、エルサレムでのアイヒマン裁判についてのハンナ・アーレントのレポート、強制収容所についての研究書などが含まれていた。彼女は本を読むことで意識的に多くのことを学びとっていったのだ。

 マイケルが朗読を吹き込んだテープを送り続ける一方、ハンナからの「手紙をちょうだい」という呼びかけに応えようとしなかったのは何故なのか。ハンナは何故自ら死を選んだのか。
 そこには一括りに裁断できない感情や愛憎が複雑に絡まり、深い陰影が謎となって作品に奥行きを与えている。
 それは私たちに幾重にも問いかけ、考え続けることを強いるようだ。

文字禍/奇跡の脳

2009-05-20 | 読書
 米国のタイム誌で「2008年 世の中に影響を与えた100人」の一人に選ばれたジル・ボルティ・テーラー博士のことをご存知の方は多いと思う。
 彼女は、神経解剖学者として研究成果をあげていた37歳の時に脳卒中に倒れ、一時、言語や思考をつかさどる左側の脳機能が停止したが、8年のリハビリを経て再生を果たしたのである。
 その著書「奇跡の脳」は大きな話題となり、その体験をもとにした彼女の講演は多くの人々に感動と励ましを与え続けている。
 その彼女を追ったドキュメンタリー番組が先日NHKで放映された。私の見たのは再放送だったようだから、おそらくそれ以前に放送され、反響を呼んだのに違いない。
 そのジル・テーラー博士が興味深い話をしていた。
 手術後の話であるが、彼女は昔の記憶をなくしたばかりか、文字を認識できなくなっていたのだ。
 その後のリハビリで読解機能は完全復活するのだが、当初は文字を見ても、それは単なる点の集合か、単なる線の寄り集まりにしか見えなかったというのだ。

 それに似た経験は誰にもあるのではないだろうか。
 私は小学生の頃、漢字を覚えるために、同じ文字を何度も何度も書き取るという勉強をしていた。同じ文字を見つめ、書き続けていると、やがてそれは単なる線の固まりでしかなくなり、どうしてこれがそうした音を持ち、意味を有するものなのかがまるで分からなくなる・・・。

 似たような話が中島敦の小説にある。
 「文字禍」というその小説はおおよそこんな話である。
 古代アッシリアのアシュル・バニ・アパル大王治世の頃、毎夜、宮廷の図書館の闇の中でひそひそと怪しい話し声がするという噂が立った。
 これはどうしても書物共、あるいは文字共の話し声と考えるよりほかにないということで、巨眼縮髪の老博士ナブ・アヘ・エリバがこの未知の精霊についての研究を命ぜられ、博士は日ごと問題の図書館に通って万巻の書に目をさらしつつ研鑽に耽った。
 当時の書物は紙草(パピルス)ではない。粘土の板に硬筆で複雑な楔形の符合を彫り付けるものである。書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた。
 文字に霊ありやなしやを終日文字を凝視することで解き明かそうとした博士の身にやがておかしなことが起こる。
 
 一つの文字を長く見つめているうちに、いつしかその文字が解体して、意味のない一つ一つの線の交錯としか見えなくなってきたのである。単なる線の集まりが、なぜ、そういう音とそういう意味とを持つことが出来るのか、どうしても分からなくなってしまったのだ。
 以来、同様の現象が、文字以外のあらゆるものについても起こるようになる。博士が一軒の家をじっと見ているうちに、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。
 人間の身体を見ても、みんな意味のない奇怪な形をした部分部分に分析され、どうしてこんな恰好をしたものが人間と呼ばれるのかまるで理解できなくなる。
 博士は、アッシリアの国が今や見えざる文字の精霊のために全く蝕まれてしまったとの研究報告をするが、機嫌を損ねた大王によって即日謹慎を命じられてしまう。
 そればかりではなかった。たまたま自家の書庫の中にいた博士は、突発した大地震に襲われるのである。
 「夥しい書籍が……数百枚の重い粘土板が、文字共の凄まじい呪いの声とともにこの讒謗者の上に落ちかかり、彼は無慙にも圧死した」のである。

 さて、手術後しばらくは文字を解読する機能を失ったジル・テーラー博士だが、その体験は彼女を不幸にしたわけではなかった。
 それどころか、文字を読めなかった日々、彼女は喩えようのない幸福感に包まれていたというのだ。
 「自分は生きている、私は生きている」という実感が彼女を心の底から突き動かし、幸福感が全身を包み込んだのだ。

 文字に意味を付与し、それを読むことの快楽は脳のどんな機能によるものなのか、あるいは本当に文字に潜む精霊の仕業なのか。
 文字を読みすぎたために破滅した古代の老博士を引き合いに出すまでもなく、文字を読むことから解放された世界は、もしかしたら相当に幸福なものなのかも知れない。

社会起業家の夢と冒険

2009-05-12 | 読書
 NPO「コトバノアトリエ」の代表理事であり、今年3月に「日本中退予防研究所」を設立した山本繁氏の著書「やりたいことがないヤツは社会起業家になれ」(㈱メディアファクトリー)を読んだ。

 同書によれば、山本氏が代表を務めるコトバノアトリエでは、これまでニートや元ひきこもり、フリーターの若者の成長や職業的自立支援、コミュニティづくりなどの実現に取り組んできた。
 しかし、ニートの若者たちの支援を始めてから、彼らを対症療法的に支援することに限界を感じるようになった。
 川で溺れた若者を川下で支援するのではなく、川上で予防するほうが効果的なのではないか、と考えるようになったのである。
 そのうえで「何が若者たちを社会的弱者に転落させているのか」について調査したところ、この5年間で65万人にも及ぶ大学・短大・専門学校の中退者が存在し、しかもその6割に及ぶ40万人近い若者がフリーター・無職になっているという結果に行き着く。
 社会経済生産性本部が行った調査でも、ニート状態にある若者の3割以上が中退経験者であるそうだ。
 ニートやひきこもり、ワーキングプアの「川上」の一つには間違いなく「中退」があり、それらの問題を解決しない限り「川下」の問題が解決することもない、というのが、山本氏が「日本中退予防研究所」を設立する大きな動機づけとなっている。

 私が山本氏の存在を知ったのは、氏が、漫画家の卵である若者たちに低廉な家賃で住居を提供し、デビューまでを支援する「トキワ荘プロジェクト」を推進していることが新聞等で報道されたことからだった。
 面白いことを始めた人がいるなあと思ったものだが、廃校を活用して演劇の稽古場を提供する「にしすがも創造舎」のような実例や若い美術家にアトリエを提供するといった取り組みのアイデアはあっても、実際に「トキワ荘」を自分の力で再現してしまおうという人が現れるとは思わなかった。
 しかも氏はこのプロジェクトをビジネスモデルとして安定的な運営ができるまでに育て上げたのである。今後は漫画家や編集者とのネットワーク作りや育成力の強化にも力を注いで、ソフト面を充実させたいと考えている。
 さらには漫画以外の、映画、演劇、音楽、デザイン、ファッション、美術、写真にまでジャンルを広げ、展開することを検討しているとのことである。
 
 これを若い31歳の社会起業家が実践しているのである。その挑戦に心からのエールを送りたい。

 興味深いのは、氏の演劇人としての経歴である。
 大学生時代、演劇サークルに所属して、学外の劇団「毛皮族」に客演したり、湘南にあった劇団の舞台に出演したりする。
 そんなとき、思春期の子どもたちを対象としたユースシアターの仕事を手伝い、様々な問題を抱えた子どもたちが表現することで輝きを放ち始める瞬間に出会う。

 「思春期の頃に、何かを表現したり、創作活動をする場を必要としている子どもたちがいる。僕は、自分で表現するよりも、彼らのためにそういった場を作っていく方が向いているのではないかと」氏は思うのだ。

 世田谷パブリックシアターでのボランティアスタッフなどを経て、思春期の子どもたちの創作や表現の場を作ろうと考え、演劇ではなく、「文章教室」を開くために設立した団体が「コトバノアトリエ」である。
 それがやがて、ニート出身の作家を育てた「神保町小説アカデミー」やニートやひきこもりの若者をインターネットラジオで繋いだ「オールニートニッポン」へと展開していくのだが、すべては失敗と模索を重ねる苦難の道だった。

 そんな現在にいたるまでを衒いもなく正直に語るその口調に共感を覚える。

 寺山修司がテレビインタビューで語った次のような言葉がある。
 「政治というのは、大雑把に社会を変えることができる。でも僕は、演劇というのは生活の隅々まで変えることができると思っているんです」
 この言葉に、山本氏はNPOや社会起業家も同じだと思ったそうだ。

 私はまだ氏と会ったことはないけれど、いつか何らかの形で一緒に仕事ができればと考えている。その方法、アイデアは無尽蔵にあるだろう。

中島敦体験

2009-05-10 | 読書
 5月5日は作家・中島敦の100回目の誕生日であった。そんなことでこの数日は中島敦の小説を読んで過ごすことにする。
 
 それにしても今年は生誕100年を迎える作家のなんと多いことか。
 その人の没年や活躍した時代によって、その印象はまるで異なるのだが・・・。
 第一、松本清張と太宰治が同年生まれとはまるで信じがたい。太宰が死んだ年には松本清張はまだデビューもしていなかったのだし、彼の社会派ミステリーは今も繰り返し映画やテレビドラマになっているから、今の私たちにとっては同時代の作家という感がより強いのだ。
 一方の太宰もいまだに若い読者に読まれ続けている。2、3年前、文庫のカバーを人気イラストレーターが描いた「人間失格」が大きく売上げを伸ばしたことが話題になっていたが、青春期に罹る「はしか」のような「体験」としての太宰はいまも健在である。その太宰作品も今年映画化されるようだ。
 大岡昇平も同年生まれだが、スタンダールの研究者・翻訳者であり、大江健三郎らの師匠格にあたる純文学の大家はまた別格である。
 先日話題にした指揮者のカラヤンは彼らより1歳年長なのだが、彼の場合も20年前に亡くなっているとはいえ、いまだにCDやDVDが店頭に並んで、数年前には「アダージョ・カラヤン」のシリーズがヒットしたから同時代の人という感じがする。

 それに引き換え、中島敦は戦争中の昭和17年に33歳の若さで急逝しており、作品数も多くはないから、遠い過去の作家として一般に馴染みは薄いようである。
 せいぜい高校の教科書で「山月記」や「名人伝」を読んだことがあるという程度の印象であろう。

 しかし、あらためてその作品を読んでみると、まさに目を瞠るような才能だったのだと驚嘆せざるを得ない。
 私もよい読者ではなく、恥ずかしながら今回初めて目を通す作品が多いのだが、まさに現代文学として今も不滅の輝きを放っていると確信した。
 「ちくま日本の文学」の中で池澤夏樹も解説に書いているけれど、「文字禍」をはじめ「狐憑」「木乃伊」などの短編群はアルゼンチンの作家ボルヘスの作品と通低しているようにさえ思える。
 「文字禍」を読みながら、知的な文体によって構築された世界の素晴らしさ・奇妙さ・面白さに私は胸がどきどきして涙が出そうになった。
 これはこのまま、たとえば寺山修司の舞台作品のモチーフになるではないか。(私が無知なだけですでに寺山ワールドでは周知のことなのかも知れないが)

 昭和17年、イギリスの作家スティヴンスンの死を主題とした彼の小説「光と風と夢」は第15回芥川賞候補にあげられたが、ほとんどの選考委員は「奇を衒う面白味はあるが到底芥川賞に値する作品とは思われぬ」と冷ややかな反応であったという。
 そんななか、さすがに川端康成だけは「芥川賞に価ひしないとは、私には信じられない」と書いている。中島の友人であった作家の深田久彌は後に「戦争騒ぎで選考委員たちの頭がどうかしていたのだろう」と言い、吉田健一は「こういう新しい形式の文学を受け入れる地盤が当時の文壇にはまだなかったのだ」と言っている。

 まさに時代が追いついていなかったのだ。