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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

移ろいゆくもの その2

2022-01-24 | 雑感
 前回書いたように、岩波ホールが今年7月29日をもって閉館するという発表は、映画関係者のみならず多くの人々に言い知れぬ衝撃をもたらした。
 もちろん、あらゆるものは移ろいゆくのであり、何事においてもそれが永遠に続くなどということはあり得ない。それにしても……、である。

 社会環境や経済情勢が目まぐるしく変化するなかで、人々の価値観も大きく変わっていく。私、あるいは貴方がその時に観た映画や演劇、コンサートの素晴らしさをいかに称揚したにしても、誰もがそのことに賛同するわけではない。劇場や美術館の大切さをどれだけ声高に訴えたとしても誰もが納得するわけではない。万人にあまねく支持される政治がないのと同様に、誰もが一様に素晴らしいと感じる芸術や、誰もがなくてはならないと思う文化施設などどこにも存在しないからである。
 ものごとの価値はいつの時代にも多様であり、相対的に揺れ動くものなのだ。そこに絶対はないのである。
 それは、そのとおりだ。だがしかし……、なのである。
 実利や実益を伴わないものがいとも簡単に切り捨てられ、効率性にばかり目を奪われた挙げ句、分かりやすく享楽的で、より多くの人の耳目を集めるものばかりを重視する風潮、価値観がこの時代に蔓延してはいないだろうか。

 私たちは、そうした価値観の変化をともすれば「時代」のせいにしがちである。「時代の変化」という言葉は、実に便利な言い訳の符丁なのだ。「時代が変わったんだよ」と言えば、どんな腹立たしいことも悩ましいことも、自分たちの努力不足に起因することさえも、いとも簡単に諒解されてしまう呪文のような効き目がある。
 けれどそこには目眩ましのような効果もあるのであって、その呪文を唱えることで私たちは思考停止に陥って物事の本質を考え抜くことを放擲してしまい、知らず知らずのうちに大切な何かを失ってしまっているのかも知れない。そして、その失ったものの大きさに、ある日突然気がついて愕然とするのである。

 しかし、時代は、ある日突然に変わってしまうものではない。季節が変わるように、徐々にゆっくりと巧妙に変化していくのだ。
 端的な例が情報通信技術の発展である。
 先日、1月17日は、1995年に発生した阪神淡路大震災から27年目ということで当時の映像や様々な関係者の声がニュースで流れていた。
 あの時は携帯電話が被害に遭われた方との連絡や被災地からの情報を知るうえで大きな役割を果たしたと言われる。
 さらにこの年はWindows95が発売された年であり、パーソナルコンピューターが身近なものとして各家庭に浸透していった節目でもあった。この頃からインターネットを通して世界中の情報にアクセスすることがより容易になっていったのだ。
 また、2011年は東日本大震災が発生した年であるが、ちょうどこの頃からスマートホンが携帯電話に取って代わり、広く普及していったのだ。
 ついでに言えば、1995年は、わが国の65歳以上の人口割合が14%を超えて「高齢社会」に突入した時期であり、2011年は、高齢者割合が21%を超え、「超高齢社会」となった頃でもある。もちろん、高齢社会の到来は「少子社会」の裏返しであり、パラレルな現象である。
 これらは僅かな事例に過ぎないが、こうした様々な要素が徐々に積み重なりながら時代の変化は形づくられていくのであろう。

 こうした変化に伴って、人々の趣味や嗜好が変わり、価値観も変化していくことは否定のしようがないことだ。好む好まざるに関わらずそれは仕方のないことである。あらゆるものは移ろいゆくのであるから。
 問題は、時代の変化に身を委ねているうちに、気がつかないまま大切な何かを失ってしまうことなのだ。それに抗するための方法を見つけなければならないのだが、そのための特効薬などはどこにもなく、地道で迂遠な作業をこつこつと積み重ねていく必要があるのだろう。このことをどこかでじっくり考えてみたい。

移ろいゆくもの

2022-01-21 | 日記
 私の住んでいる町には3軒の書店があるのだが、そのうちの1軒の店先に「今月末日をもって閉店いたします」との貼り紙がしてあった。理由は特に書かれていないので憶測するしかないのだが、結局、客足の減少に伴う売り上げ減、すなわち経営難ということに尽きるのだろう。
 いわゆる町の本屋さんという感じの比較的小さな書店だったのだが、品揃いが工夫してあってたびたび寄らせてもらっていた店だった。こうした書店の経営が立ち行かなくなっていく背景には、いわゆるネット販売の増加や電子書籍の普及、読書離れによる書店での購買層の減少等があるというのは一般的によく言われることである。これに対し、何かよいアイデアがあるかと言われれば口を噤むしかないのだが、町の中からこうした場所が少しずつ失われていくことは寂しいものである。
 書店、本屋は地域の文化の拠点であり、公共財的な価値を持っていると言っても過言ではないのである。

 少し話は変わるのだが、そんな矢先、1月11日に神田神保町の岩波ホールが本年7月29日をもって閉館するとの発表があった。ここは客席数200余の小ぶりなホールであるが、開館から54年を経ての閉館という事態には誰もが言葉をなくしてしまうようなインパクトがあった。それだけこのホールはわが国における「文化創造の根拠地」として実に大きな働きをしてきたのだ。
 私もまた岩波ホールで上映された数々の映画によって蒙を啓かれた者の一人であるが、映画以外にも、演劇シリーズの一環として上演された鈴木忠志演出の「トロイアの女」(1974年12月10日~1975年1月31日)と「バッコスの信女」(1978年1月4日~1月31日)の両作品は深く記憶に刻まれている。いずれにも能楽の観世寿夫師が出演されていて、その所作や声の圧倒的な響きと強靱さは今も忘れることが出来ない。
 それはまさに、伝統芸能と現代演劇の融合により新たな地平を切り開こうとする試みだったのである。当時は、現在各地に整備されているような公共劇場はほとんど存在せず、それだけに岩波ホールが果たした文化芸術における創造拠点としての働きは計り知れない価値を持つものだったのだ。

 さて、岩波ホール閉館の理由は、「新型コロナの影響による急激な経営環境の変化を受け、劇場の経営が困難と判断した」とされている。民間劇場・ホールの宿命として、採算性を度外視して経営するわけにいかないのは理解できるのだが、それにしても公共的な財産として、存続するための何らかの手立てはなかったのかとため息をつかざるを得ない。とりわけ、昨年2月には耐震性の強化やスクリーンを新しくするといった改修工事を経てリニューアルオープンしていたばかりでもあり、関係者の無念、心中は察するに余りあるのだ。