seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

東北へのまなざし

2022-09-18 | アート
会期末が迫っているということで、東京ステーションギャラリーで開催中の「東北へのまなざし」展を見に行った。



昭和のはじめ、1930年代、40年代において、先端的な意識をもった人々が相次いで東北地方を訪れ、この地の建築や生活用品に注目した。
こうした東北に向けられた複層的な「眼」を通して、当時、後進的な周縁とみなされてきた東北地方が、じつは豊かな文化の揺籃であり、そこに生きる人々の営為が、現在と地続きであることを改めて検証するもの、と展覧会のチラシには書かれている。

ドイツの建築家ブルーノ・タウトや民藝運動を展開した柳宗悦、考現学の祖として知られる今和次郎や「青森県画譜」を描いた弟の今純三の仕事などが紹介されていて、それぞれに興味深いのだが、その中で、特に私の目当てだったのは東北生活美術研究会を主導した福島出身の画家吉井忠の仕事だった。

吉井忠ははじめ前衛的な作風をめざしたが、のちに「土民派」と称するように人々の生活にねざした姿を描くようになった。
1936年から37年にかけて渡欧、ピカソの「ゲルニカ」を日本人として最も早く見たとも言われている。帰国後、池袋西口一帯にあった長崎アトリエ村に居を構えた池袋モンパルナスを代表する画家の一人であり、戦後は西池袋の谷端川沿いにアトリエを構えた。

展覧会場の「吉井忠の山村報告記」と題されたコーナーでは、太平洋戦争のはじまった1941年から終戦の前年頃にかけて東北地方を訪れた記録やスケッチなどが数多く展示されている。
氏の画風や絵に向かう考え方の変化はこうした東北の人々の生活にじかに接する中でより確固としたものになっていったのだろうか。

氏は戦後1952年に設立された豊島区の美術家協会にも所属されていて、私事ながら私も仕事の関係で何度かご自宅に伺い、展覧会に出品する作品を預からせていただいたりしたことを懐かしく思い出す。
氏は1999年に91歳で亡くなったのだが、関連でいえば、2006年3月にその1回目が行われた街ぐるみの文化事業である「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」では、娘さんの吉井爽子氏と熊谷守一の二女・熊谷榧氏の展覧会が立教大学の太刀川記念館や構内を使って大々的に開催されたのだった。
それももう16年も昔のことになる。

吉井忠の書いた「東北記」など、東北に関する研究や記録は近年になってようやく全貌が明らかになりつつあるという。
まだまだ注目すべき美術家なのである。



換算とご破算 その2

2014-03-09 | アート
 アート、文化芸術の価値というものについて考えさせられる事件、報道が相次いでいる。
 全聾で現代のベートーヴェンともてはやされた作曲家・佐村河内守氏の作品が実は別の人間の手になるものだったという事件。
 これには当人の障害そのものが虚偽ではないかとの疑いも浮上し、人々の善意の眼差しや信頼を裏切った行為に多くの非難が寄せられた。

 さらには、国内最大の公募美術展「日展」の「書」科で、「入選を有力会派に割り振る不正が行われていた」と、朝日新聞が昨年10月30日付の朝刊で報じ、その後、他のメディアも相次いで報道したことから、日本美術界を揺るがす大スキャンダルとなった。
 報道によると、不正が発覚したのは、石や木などの印材に文字を彫る「篆刻(てんこく)」部門で、2009年の審査の際、「会派別入選数の配分表」が審査員に配られ、その指示通りに入選数が決まっていた。
 それ以後、「書」のすべての部門の審査で理事らが審査前に合議し、入選数を有力会派に割り当ててきたことを認めたという。

 一方、文化庁が後援する書道中心の公募展「全日展」を主催する全日展書法会(東京都)の前会長が、昨年分の16県の知事賞受賞者は架空の人物だとし、「受賞作は私が書きました」と捏造を認めた、との報道があった。報道陣に対し「3年ぐらい前からやっていた。応募がないと、翌年から(知事賞を)もらえなくなる」と説明。今回の問題の責任を取り、2月18日付で会長を辞任したと報告し、「社会的にも書道愛好者、会に対しても信頼を失墜させて大変申しわけなかった」と謝罪したとのこと。

 それぞれ事情は異なるが、これらを文化芸術などに微塵の興味もなく、利害関係の全くない第三者の立場に自分を置いてこれらの事象を眺めてみると、いずれも滑稽な様相を呈していると思えてならない。
 芸術作品にそもそも優劣をつけられるのかという問題はさておき、結果的に音楽演奏やバレエ、美術、映画、文学等々、その分野を問わず各種コンクールの優勝者や受賞者がその後のキャリアの行く末やギャランティに大きなアドバンテージを獲得することは確かだ。
 だからこそ、誰もがその結果に血眼になるのだろうが、今回の日展や全日展のスキャンダルは、それらがいかに空疎なものだったかを白日の下に晒すこととなった。

 日展問題の背後には、審査員への付け届けや「事前指導」なるものへの金銭による謝礼が慣習化し、既得権益となっていたという問題もあり、笑うに笑えない話なのだが、彼らはこの行為によって自らの芸術の価値をその程度のはした金に換算してしまったということだ。本来、金銭的価値には容易に換算しえないところの芸術的価値を審査というシステムに組み込むことで強固なヒエラルキーを構築し、自動的換金のシステムを作り上げたその涙ぐましい努力には驚嘆するしかないが、そうまでして守りたかった彼らの権威や社会的地位とは何なのだろう。
 それより何より、そうした組織の古い体質や慣習に嫌気がさして離れていった若手作家も多いと聞く。芸術的活力の枯渇した組織ばかりが残り、将来ある掛け替えのない若い才能が失われたとすれば、それこそ取り返しのつかない損失であると言うしかない。

 これに比べて「全日展」の問題は少しばかり微笑ましくはあると言ったら顰蹙ものだろうか。
 組織の長による授賞作品のまさに「捏造」なのだが、根底にあるのは、組織の存続を第一義とする小市民的俗物性であり、そこには芸術家の創造性も矜持も皆無だ。誰も利益を得たものがいないうえに明らかな被害者もいないという風変わりなこの事件がもたらした、信頼性の失墜という代償はあまりに大きい。

 さて、最も大きな話題となったのが作曲家・佐村河内氏の事件であるが、彼のまとった物語性があまりに悲劇的で美しく感動的であっただけに、その仮面が引き剥がされた時の失望の度合いが大きかったということかも知れない。
 当事者間の泥仕合には何の興味もないが、ただ、彼の存在に力づけられ、生きる勇気を得ていた無垢で善良な人々がいたわけで、その感情を裏切った罪は深いと言わざるを得ない。
 そんなことを考えていたら、ちょうど2日前の金曜日に佐村河内氏の記者会見の様子がテレビに映し出されていた。最初は誰だか分らなかったのだが、それが髪を切り、髭をそってサングラスを外した彼自身だったので驚いてしまった。
 彼の物語性はその風貌にもあったということをあからさまに見せつけられたようで、何とも考え込んでしまった。
 作品が作品そのものの芸術的価値で評価されるのではなく、あまりに多くの見せかけの物語や神秘性によって粉飾せられていたということなのか。彼の音楽を聴き、CDを購入して感動した人々は、音楽そのものに感動したのではなく、彼の装った人生や宿命に過剰な感情移入をしていたということなのか。
 たしかに、太宰治が品行方正な健康優良児であったり、夏目漱石が鉄のような丈夫な胃袋を持ち、ヘミングウェイが色白の神経質な青年のままで、ローリング・ストーンズが真面目そのものの銀行員のような風貌だったとしたら、それらの作品はまた違った読み方、聴き方がされたかも知れないのだけれど…。
 今回のゴーストライター問題が発覚し、その仮面が剥がされてから、自分は最初から彼のことを怪しいとにらんでいたという人や、曲そのものが大した作品ではないという人が続々と登場して、それはそれでいつものことだとは思うけれど、そうして全てをご破算にするのではなく、作品そのものを純粋に音楽性に絞って批評した報道がないのは残念なことだ。

虫めづる人々

2013-03-22 | アート
 16日(土)、東京芸術劇場展示ギャラリーでの障害者美術展「ときめき想造展」に顔を出した後、雑司ヶ谷にある「としまアートステーションZ」(豊島区立千登世橋教育文化センター地階)で開催されている「ひびのこづえ 虫をつくるワークショップ展覧会:みんなの虫あつまれ!」展に足を運んだ。(3月24日:日曜まで開催)
 本展は、「としまアートステーション構想」事業のアートプロジェクトとして、2012年7月から毎月開催されてきた「虫をつくるワークショップ」での制作作品が一堂に会するものだ。

 このワークショップは、コスチューム・アーティスト:ひびのこづえ氏が、としまアートステーション「Z」の空間を、参加者がのんびり時間を過ごしながら、創作活動を行い、制作や作品を通し、周りの人とコミュニケーションをとることのできる時間や場所にしたいとの思いから実現したもの。
 ひびの氏のアドバイスのもと、ひびの氏自身が舞台衣装等の作品制作で使用した生地を使い、参加者一人ひとりが想像する「虫」のブローチをつくってきた。
参加者それぞれがイメージしたものを自分の力で作り上げるというもので、安全ピンをつけ、ブローチとして胸に飾って撮影を終えたら完成となる。
 ワークショップには、子どもからお年寄りまでさまざまな人々が参加し、つくられた虫は600匹以上。今回はその中から集まった虫たち約270匹を展示、さらに参加者それぞれが虫のブローチを胸につけた写真も会場の壁一面に展示されている。

 ワークショップ参加者からは、「いろんな人と同じ場所でつくることが楽しかった」「皆それぞれ個性的な虫を作っていて刺激的だった」との声が上がっており、他の人が作り上げた「虫」を見に来る人も多く、新たなコミュニケーションの場ともなっている。
 としまアートステーション構想事務局のスタッフは、「制作者一人ひとりの個性豊かな虫が展示されています。作品を通じての出会いがあるかもしれません。是非、楽しんでいただければ。」と来場を呼びかけている。(以上、展覧会の報道資料から)

 実に面白い。展示を見ながらいろいろなことを感じたのだが、「虫をつくる」ということで集まった見知らぬ人々が、同じ場所、同じ時間を共有しながらそれぞれの作業を進め、お互いの作品を見て観察し、感想を言い合ったり、世間話をしたりするなかで緩やかに結びつくさまが何ともいえず良いではないか。
 大上段に振りかぶった「地域コミュニティ」や「絆」の創出などではなく、アートを介して自然に会話が生まれ、コミュニケーションが育まれていく。既成の制度化された地縁としてのコミュニティとは異なる場所から新たに生まれるソーシャル・キャピタルのような予感がそこにはある、そんな気がする。

 それにしてもなぜ「虫」なのだろうか。
 ご多聞にもれず、私もまたその昔「昆虫少年」だったことがある。近所の林や田畑を経巡って採集した蝶やセミ、カブトムシなどを、防腐処理を施して虫ピンでとどめ置く、そんなある種倒錯した至福の根源は何によるものなのか。
 宇宙全体をわが物とする、という言いぐさはいかにも大げさだけれど、ひと箱の昆虫標本にはその時々の自分自身がまるごと凝縮されている、そんな感慨は誰にも共通のものなのではないだろうか。
 「虫をつくる」ことには、そんな共通項を無意識に掘り起こす作用がはたらいていたのかも知れない。その過程で人と人が出会い、会話を重ねることには思いのほか深い意味が隠されているのだろう。
 堤中納言物語に登場する「虫めづる姫君」は蝶ではなく毛虫などの恐ろしげな虫を愛し、服装や動作もことごとく伝統習俗に反逆する異端の姫君だったけれど、物事の本質や真理の大切さを誰よりも感じることのできる姫君だった。
 そんな「虫めづる姫君」たちの集まった「虫をつくるワークショップ」は、意外にも想定外の部分で現代社会の本質的な課題やアートの秘密に肉迫しようとしていたのに違いない。

 さて、そうして壁一面に貼り出された、ワークショップ参加者たちの胸に虫のブローチを飾ったたくさんの写真を眺めるとき、これはまるでよく出来た昆虫標本そのものではないかとも思えて、不思議な夢を見たあとのような気がするのだった。

障害者美術展を観る

2013-03-18 | アート
 3月16日(土)午後2時半、東京芸術劇場5階展示ギャラリーでこの日まで開催されていた豊島区障害者美術展「ときめき想造展」の表彰式に出席した。
 豊島区在住・在勤・在学または区内施設に通所・入所する障害を持った人たちの展覧会で今回が6回目となる。主催:豊島区・豊島区社会福祉協議会、共催:財団法人日本チャリティ協会。
 61点の応募作品のほか、歴代最優秀賞受賞者の作品12点、障害者アート教室の作品16点が展示され壮観である。
 今回、最優秀作品賞を受賞したのは久保貴寛さんの「高原の街並み」で、遠く低い山並みの上を雲が流れ、その手前にヨーロッパ風の建物が立ち並んで街並みを作っている。画面の3分の2ほどは菜の花畑が占め、その真ん中を街につながる道が続いていて、2匹のウサギが寄り添うように歩いている。街の上には気球が浮かび、そんな街並みを雲と一緒にのんびりと眺めている、そんな絵である。
 表彰式終了後、ご挨拶した久保さんとお母様からは、ご自身の作品81点を収めた素敵な画集をいただいた。画集に収載された作品を見ながら、久保さん独特の世界が広がっているのを感じて感嘆する。
 私は絵画に関してまったくの素人なので的確なことを言えないのだが、展示された作品からは、見る側の感性であったり、感受性であったり、人間性そのものが逆照射されるのを感じる。なかなか怖い作品たちなのだ。

 さて、今回の展覧会では、特別企画として、NHK大河ドラマ「平清盛」の題字で一躍日本中に知られることとなったダウン症の書家・金澤翔子さんの作品展が同じギャラリーで同時開催されていた。
 金澤翔子さんとは書の師でもあるお母様とご一緒に12日(火)、作品展の初日にお会いすることが出来た。その小柄な身体のどこからあの力強い作品が生まれるのかと訝しく思えるほどだが、日常の翔子さんはどこまでも無垢で愛らしい。
 一方、その書の修行は相当に厳しいようで、必ず涙を流すほどだというが、その涙を乗り越えるとまさに神が降りてきたとしか思えない瞬間があるのだそうで、そこからあの作品群が生まれたのだ。
 絵画以上に書にはまったく造詣のない私だが、その作品のパワーは十分に感じることができた。多くの人がこれらの作品を前にして元気付けられ、生きるための一歩に向けて背中を押してくれるような励ましを感じたに違いないのだ。
 得がたい貴重な瞬間なのだった。

尊厳と我慢

2012-11-24 | アート
 「たった一人の中庭」は、ヨーロッパ各地にいまも点在する移民キャンプの問題を扱った作品だが、先日の日曜、その公演(=展示)のことを思い出しながら何気なく見ていたテレビの「日曜美術館」で、東京藝術大学美術館で公開中の「尊厳の芸術展~THE ART OF GAMAN」を特集していた。
 すでに数年前、アメリカ・スミソニアン博物館で開催された同展のことは日本でも大きな話題になっていたようだが、私は初めてその展覧会のことを知ったのだった。

 それは、太平洋戦争のさなか、12万人を超える日系アメリカ人たちが人権を剥奪され、アメリカ全土11か所の強制収容所で不自由な生活を強いられていたなかで、彼らが、拾い集めたゴミや木切れ、木の実や貝殻などから工夫して作り上げた日用品が展示された異色の展覧会なのだ。
 いつ果てるとも知れない収容生活の不安と苦悩の中で作られた手づくりの杖やブローチなどのアクセサリー、表札、置物、ガラスの破片で石を削って彫り上げた硯などは、信じ難いほどの精巧なデザイン性と美しさに溢れている。

 収容所内には、カリフォルニア大学バークレー校の教授だった男性の呼びかけでアートセンターが創設されたところもあったというが、生きることへの意志に満ちたそれらの作品は、極限状況下の人間にとっての芸術の意味、人を人たらしめ、生かすものは何なのかということを現代社会の私たちに強烈に問いかけてくる。
 ある作品の作者の遺族が語った言葉は、まさに彼らの心の声を代弁していると思えた。

 「何もかも奪うがいい! だが、私たちの知識も技術も、想像力も奪うことはできないぞ!」
 鋭く、重い言葉である。
 何もかも失ったなかで、芸術の意味が浮き彫りにされるなどと、言うことは簡単だけれど、果たしてその言葉の本当の重みを、私たちは受け止められるのだろうか。


人は成熟するにつれて若くなる

2012-07-01 | アート
 今からちょうど80年前の昭和7年、画家の熊谷守一は東京・豊島区千早町に居を定めた。その旧居跡が、現在、豊島区立熊谷守一美術館となっている場所である。
 80年前の豊島区はどんな様子だったのだろうか。
 昭和46年6月に日本経済新聞に掲載された熊谷守一の「私の履歴書」には、「(そのころ)まわりはまだ草っぱらと畑だけでした。十町以上も先のずうっと目白通りまでが、すっかり見渡せました。途中は、ケヤキの木に囲まれた百姓家が数軒見えるだけです。」と書かれている。

 それからわずか9年遡った大正12年、東京は関東大震災によって壊滅的な被害を受けていた。昭和初年以降、当時はのどかな郊外の農村地帯だった現在の豊島区地域には、比較的地盤の固い土地柄に惹かれて工場や学校が移転し、さらにはその周辺に人々が住み着いて次第に都市化の波が押し寄せてくる。
 長崎村と呼ばれた地域には美術学校に通う学生目当てのアトリエ付きの下宿が生まれ、そこに学生ばかりでなく若い貧しい芸術家や物書きの卵、キネマ俳優などが移り住み、やがていつしか「長崎アトリエ村」と呼ばれる様相を呈するようになる。
 熊谷守一はそうした若い芸術家たちの守護神的存在でもあった。

 その豊島区も(東京全体がそうなのだが)昭和20年3月から4月にかけての東京大空襲で再び焼け野原となる。
 当時の様子は、洋画家の鶴田吾郎が描いた「池袋への道」からも窺うことができる。
 池袋から一駅離れた今の要町あたりから池袋を見た光景なのだが、一面焼け野原で瓦礫ばかりとなった道を復員兵姿の男が重い荷を担いでとぼとぼと歩いて行く。野っぱらの向こうに小さく白い土蔵が見えるのだが、それが江戸川乱歩の幻影城と呼ばれた土蔵なのである。

 建築家の隈研吾氏によると「建築の歴史をよく検討してみれば、悲劇から新しいムーブメントが起きている」そうなのだが、たしかに関東大震災と東京大空襲という四半世紀の間に立て続けに起こった災厄が街の様相も文化も大きく変えてしまったことは間違いない。そうした観点からの文化の検証はなされてしかるべきだろう。
 
 さて、「私の履歴書」の連載時、守一は91歳だったが、朝は6時頃に起床、軽い朝食をすませると庭に出て植木をいじったり、ゴミを燃したりしたあとは、奥様の仕事が終わるのを待って二人で囲碁を楽しんだという。もっともその腕前は、噂を聞いて取材に来た囲碁雑誌の記者が呆れて帰って行ったというほどだから自分たちが楽しければよいというくらいのものだったのだろう。
昼過ぎから夕方までは昼寝をし、夜になってから絵を描いたり、書をかいたりと仕事をしたようだ。いま何が望みか、との問いには「いのち」と答え、「これからもどんどん生き続けて、自分の好きなことをやっていくつもり」と書いている。
 ちょっと羨ましい、思ってしまう。

 熊谷守一とほぼ同世代のドイツの詩人・作家ヘルマン・ヘッセは、「人は成熟するにつれて若くなる」と言っている。その真意は、たとえ老年になっていろいろな力や能力が失われたとしても、人は少年・少女時代の生活感情を心の底にずっと持ち続けているし、すべてのはかないものや過ぎ去ったもののうちの何ひとつ失うことなく、むしろより豊かにそれらを反芻し、味わうことができる、ということだと思われる。

 守一は、97歳で没する最晩年まで創作を続け、「自分は誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせる。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせる」と言っているのだが、これもまた、石ころとの対話をとおして、自身の様々な感情や思い出と語り合い、それらを味わい、観察することの豊かさや素晴らしさを意味しているように思われる。
 人が歳を重ねて肉体的に衰え、かつてのような体力や瑞々しい肌つやを失うことは当然のことなのだが、それ以上に人は精神の輝きを得ることが出来るのではないか。
 余計な欲得勘定や虚飾を剥ぎ取っていく中で、より純粋で単純なものが見えてくる。
 熊谷守一の晩年における驚くほど素朴で、しかし絶妙のデザイン性に裏打ちされた作品群はそうした成熟の中から生まれたのである。


にんじんとカボチャ

2011-07-19 | アート
 三浦哲郎著「肉体について」(講談社刊)所収の「文学的自叙伝」の中に、名作「にんじん」の作者として有名なルナアルの日記の一節が引用されている。
 「ルナアル日記」は、三浦哲郎にとって死んだ姉たちの形見のような本であり、岸田国士の訳で白水社から昭和12年12月28日に発行されたものだ。習作時代の三浦は、その本を、文学を志して大学に入り直そうと受験勉強にいそしんでいる時期に愛読したという。若かりし日の彼は次のような一節に線を引いていた。

 「才能といふやつは量の問題だ。才能といふのは一頁書くことではない。三百頁書くことだ。小説といつたところで普通の頭脳をもつた人間に考えつけないほどのものでもなく、どんなに文章が美しいにしても駆け出しの人間には書けないといふほどではない。残された問題は、ただペンを執りあげ、原稿に罫を引き、根気よくそれを塗りつぶして行くといふ行為だけだ。力のある連中は躊はない。早速、机に向ひ、汗を流す。そして、たうとうやり通す。インキ壺をからにし、紙を使い果す。このことだけが、才能のある人間が、いつまでたつてもやり出さない怠けものと違ふところなのだ。文学の世界は悉く牛ばかりだ。天才は最も頑丈な牛、疲れを知らぬもののやうに毎日十八時間うんうん働く牛だ。光栄はひつきりなしの努力だ」

 怠け者の私はただ首をすくめるしかないのだが、たしかに本当の才能や力というものはこうしたものなのだろう。
 継続や持続はそれ自体が才能であり、努力は天才である。そんなまっとうなことを考えてみたくなる。

 16日、NHKのBS放送で「世界を私が待っている 前衛芸術家草間彌生の疾走」という番組をやっていた。
 水玉模様のかぼちゃの彫刻がそのシンボル的な作品といってもよいかも知れないが、いまや現役の女性アーティストとしては世界で最も高値がつくといわれる草間彌生の芸術家としての半生と、世界巡回展に向けて100点の新作を創り上げるその過程を描いたものだ。
 82歳になる彼女が、入院先の病院から毎日車椅子に押されてアトリエに姿を現わし、ひたすら大きなキャンバスに向かって絵筆を運ぶ姿は、鬼気迫るというありきたりな言葉では語ることができない。むしろ、自殺願望から逃れ、生きることと描くこととが限りなくイコールになった芸術家の至福の瞬間を見るようだった。
 そのことは、ある美大の講堂を借りて、描き上げた100点の作品を一堂に並べたとき、その自作の一枚一枚に「ステキ。うわあ、ほんとにステキ」「ねえ、これ、いいじゃない」と感嘆の声をあげる姿からも感じられる。
 「1000枚でも2000枚でも死ぬまで描き続ける」と断言する彼女は、100枚の連作を仕上げたあとも休むことなく、当然のようにアトリエでキャンバスに立ち向かう。

 一方で、その草間は、ギャラリストやエージェントをはじめとするチームの人々とともに、草間作品をいかに効率よく、いかに高価に売りつけるかということに戦略的に関わろうとする側面を失っていない。
 彼女にとって、ピカソやウォーホルと肩を並べ、彼らを上回る世界的評価を得るかということは、当然のように描くことと同義の欲望なのだ。
 村上隆が「芸術起業論」を書く何十年も前から、草間は、現代アーティストとして売れる存在であることに自覚的に挑戦し続けてきたのである。

 そんな多様な側面を包含しつつ、表現に向かって作家自身を突き動かすものが、とにかく絵筆をとって描き続ける膂力にあることは言うまでもない。
 そしてその力は、毎日毎日の愚直とも言うべき小さな努力の着実な積み重ねによってつくり上げられたものなのだ。
 そのことをしっかりと胸に刻みつけよう。

凝視と解体

2010-12-31 | アート
 今年観たいくつかの展覧会について記録しておこう。
 まず、忘れがたいのが、王子・飛鳥山にある紙の博物館で11月28日まで開催されていた企画展「日本近代洋画の美―紙業界コレクション―」である。
 紙の博物館は「洋紙発祥の地」と呼ばれるこの王子で創立60周年を迎えたとのことだ。この展覧会はそれを記念し、博物館維持会員会社である製紙関連企業が保有する作品を展示するものである。
 全部で20数点というごく小さな規模の展覧会ではあるのだが、岸田劉生、黒田清輝、小出楢重、佐伯祐三、中川一政、中村彝、林武、藤島武二、三岸節子、安井曽太郎など、近代日本洋画を代表する錚々たる顔ぶれの作家たちの作品が並べられ、壮観である。
 作品の持つ力強さにも強く惹きつけられるが、こうした作家たちの作品を購入することで、紙業界の企業がその創作活動を支えてきたことということにも興味をそそられる。
 豊島区長崎町一帯に昭和の初めから終戦期にかけてアトリエ村が形成され、そこに集まった芸術家たちの交流がやがて池袋モンパルナスと呼ばれるようになったのは知る人ぞ知る周知のことだ。さらに紙の博物館のある王子から田端周辺はかつてモンマルトルとも呼称された。
 そのためか、本展覧会におけるコレクションの作家たちの活動場所もそうした所縁を深く感じさせる。

 そのなかでも私が深く惹かれたのが、上野山清貢の作品「鮭」である。
 ちょうど中川一政、中村彝、岸田劉生の作品の間に挟まれた格好で展示されていたのだが、その存在感は他を圧倒するばかりに異彩を放っている。
 上野山清貢はアトリエ村のゴーギャンとも怪人とも呼ばれた人だが、私が仕事の関係で知り合ったMさんのお祖父さんでもある。
 ギャラリー活動をしているMさんにお祖父さんの作品を観たよというメールを送ったら、早速紙の博物館に行って学芸員に話を聞いてきたと私のオフィスを訪ねて報告してくれた。

 さて、12月19日には、この日がちょうど最終日だった「麻生三郎展」を観に東京国立近代美術館に行った。
 麻生三郎が亡くなってちょうど10年なのだそうだが、その人となりは、その際の新聞報道、「太平洋戦争中に松本竣介、井上長三郎らと新人画会を結成。戦後は1964年まで、自由美術家協会に参加。暗色の重厚な画面に、根源的な人間像を描き出す画風で評価された」におおよそ言い表されているが、ただ、「その枠の中に麻生を押し込めてしまっては、私たちは何か大事なものを見逃すことになりはしまいか」と、同館の学芸員、大谷省吾氏が問題提起している。
 たしかに、70年代から90年代にかけても旺盛な創作活動を行ったその画業というものがそうした新聞記事からは読み取れないのだが、その今日性について、私たちはもっと深く感得すべきなのだ。

 会場では、パネルで麻生自身の言葉がいくつか紹介されていたが、その中の一つ「凝視と解体の力が同じくらい迫ってくるというそのことがレアリスムだとわたしは考える。もしもこの二つの質がちがった、方向の逆なものが、一つの平面のなかで生きていないのなら、その絵はもぬけのからの絵画になろう」がとりわけ印象深い。

 その日、同館内の常設展示も観て回ったのだが、そこに並べられた靉光、松本竣介、長谷川利行らの素晴らしい作品群を観ると、彼らを育んだ豊島区・長崎アトリエ村が本当に奇跡の場所なのだと改めて感じさせられる。
 その常設会場を回っているとき、知人のKさんとばったり出くわした。Kさんは区議会議員の傍ら長崎アトリエ村や池袋モンパルナスの作家たちを調査・研究する市民活動にも取り組んでいる人で、私も仕事の関係でお世話になっている。
 やはり今日が麻生三郎展の最終日ということで足を運んだとのこと。
 長谷川利行の最近発見されたという作品の前で二人無言のままそのマチエールに見入るというのも貴重な時間と思えた。

 12月26日、Bunkamuraザ・ミュージアムで「モネとジヴェルニーの画家たち」展を観た。
 ジヴェルニーは、クロード・モネが1883年、42歳の頃から住みついたパリから80キロほど北西に位置するセーヌ河沿いの小村である。モネが描いた睡蓮や積わら、ポプラ並木などの作品で世界に広く知られるようになり、1915年頃までには、19カ国を超す300人以上もの芸術家がここを訪れ、さながら芸術家のコロニーの観を呈していたとのことだ。
 その中でとりわけ興味深かったのがモネ最晩年の睡蓮である。それを描いた頃のモネはすでに視力に障害が生じていた時期のものと思われるが、その作品は私たちが通常モネの絵として思い描く睡蓮とはまったく様相を異にし、色彩も線描さえもが細分化され、抽象絵画のような美しさを表している。
 これに関連する文章が前田英樹著「絵画の二十世紀―マチスからジャコメッティまで」のなかにある。
 「モネは、眼を写真機のように独立した器官、あるいは機械と考え、制作において実際そんなふうに眼を使い切ろうとした。たぶん彼を襲った強い視覚障害は、狂おしいようなこの意志と無関係ではなかろう。行動する身体からもぎ離された眼で見ようとする彼の意志が、眼を破壊してどこかへ進んでいった」
 モネの睡蓮は、麻生三郎の言う「凝視と解体」の一つの到達点を示しているように思える。
 それはジヴェルニーに集まった凡百の印象派の画家たちとはまるで違ったものを凝視していたのである。

複製芸術とロボット

2010-09-08 | アート
 「マン・レイ展 知られざる創作の秘密」(国立新美術館)では、作品の美的要素よりも、アイデアや概念の表現を重視する作家の姿勢を垣間見ることができる。
 マン・レイと言えば写真家というイメージが強いが、もともとは画家であり、自分の絵画作品を「記録」するために写真技術を覚えたのだという。
 マン・レイは晩年、自作の複製や再生産、量産を繰り返した。
 それは「限定エディション」などというマーケティング的考え方とは対照的な立場で、「複製」という、ともすれば否定されがちな「作品の在り方」を積極的な方向に転換し、価値づけるものだ。
 作品それぞれの物質的価値は低下する。だが、希少性を自ら否定することで、浮かび上がってくるものがある。彼は大量の複製品によって、自分のアイデアが世界中に広まり受け入れられることを願ったのだ。
 展覧会の監修者である京都造形芸術大学教授:福のり子氏によれば、「ものとしての作品よりも、コンセプトやアイデアを大事にする態度は、20世紀の美術界に大きな影響を与えた」ということだが、それはたしかに後の芸術家の姿勢や作品の在り様を先駆けするものである。

 さて、「複製芸術」の最たるものは何かと言えば、それは音楽ではないかと思う。
 なかでもポピュラー音楽はCDやラジオ、テレビ、インターネットをはじめとする様々なメディアを通じて世界中に広まっていく。
 その音楽シーンに極めて大きな影響をもたらしたのがザ・ビートルズであるということにさほど異論はないと思うけれど、そのメンバーの一人、ジョン・レノン関連の展示を行っていたジョン・レノン・ミュージアム(さいたま副都心)が今月末をもって閉館になるということで先日、初めて足を運んだ。

 印象的だったのは、レノンのパートナーだったオノ・ヨーコのアーティストとしての業績が思っていた以上にしっかりと紹介されているということだった。
 ジョン・レノンはかつて彼女のことを「世界で最も有名な無名アーティスト。誰もが彼女の名前を知っているが誰も彼女のしていることを知らない。」と語っていたということだが、改めて彼女のコンセプチュアル・アート、パフォーマンス・アート、様々な実験映画等の仕事を振り返ってみると、そのコンセプトやアイデアの革新性、面白さは今もその鮮度を失ってはいない。
 昨今の若いアーティストによる美術や先端的な舞台芸術のコンセプトが彼女のアイデアに何らかの影響を受け、恩恵を蒙っていることは確かだろうと思えるのだ。
 もっとも前衛的で無名なアーティストの才能が、もっともポピュラーな音楽の才能と出会うことで生まれたものは、いまもはかりしれない魅力を放っている。

 さて、ジョン・レノンが射殺された30年前のその年、音楽の世界で異彩を放ったのがYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)である。
 その大きな特質、インパクトはシンセサイザーを活用した音楽演奏にある。
 シンセサイザーを駆使することで、特別な演奏技術を持っていなくても作曲されたスコアの再現が可能になること、これは音楽の歴史上特筆されることなのではないか。ちょうど、カメラ技術の登場が絵画の世界に大きな異変を起こしたように・・・。
 YMOの彼らはもちろん優れた演奏家たちなのだが、シンセサイザーの活用は、アイデアやコンセプトをより重視した音楽表現をこの世界にもたらし、その宇宙大の広がりと伝播を容易にしたと言えるのだ。
 このことは、あたかもマン・レイの芸術作品への態度と考え方をよりポップな形で実現させたものとして興味深い。

 最近、「ロボット演劇」なるものが話題を呼んでいる。
 文字どおりロボットが舞台上で演じるのだが、このロボット俳優の出現がシンセサイザーの登場並みに舞台芸術の世界に革命を起こすものかどうかは未知数だろう。
 ロボット俳優の登場が演劇の複製芸術化への一歩となるかどうかは分からない。
 そもそも演劇こそは「複製」という概念からもっとも遠い芸術形式であると思われるからである。

 ただ、やたらズボンのポケットに手を突っ込みたがったり、タバコを手にしなければ演技ができないという俳優、涙を流すのに何時間も前から気持ちを作らなければできないと訴える女優、この台詞は感情にそぐわないと食ってかかる役者連中にに日頃から手を焼いている演出家や劇作家にとっては朗報なのではないか。
 創り手のアイデアやコンセプトを重視し、表現する手段として、ロボット俳優の出現は一つの波紋を投じるニュースなのである。

 

美術と演劇

2010-08-23 | アート
 すでに1週間以上も前のことになるけれど、国立新美術館に展覧会を観に行った。
 お目当ては「マン・レイ展~知られざる創作の秘密」だったのだが、ちょうどその日はオルセー美術館の所蔵作品による「ポスト印象派展」の最終日近くということで、平日にも関わらずそちらの展示室には長蛇の列が出来ていた。聞けば1時間半待ちだという。それではやっとの思いで入館したとしてもとてもじっくり作品を観ることなど叶わないだろう。
 そんな有り様をみて思うのは、世の美術愛好家の保守性でもミーハーぶりでもない。ここは素直に「美術」という芸術ジャンルの一般社会への浸透ぶりに改めて驚嘆したと言っておきたい。
 もちろんその度合いは人それぞれであって、オークションで作品を手に入れるほどの愛好家から、作品を投資目的と考える人、単に印象派一辺倒の人、世界中の美術館巡りを楽しむ人、現代美術に造詣の深い人、自ら絵筆をとって公募展に応募する人まで、それこそ千差万別だろう。
 けれど、これを演劇・舞台芸術と比較した場合、人々の受容ぶりにはその深さと広がりにおいて圧倒的な差があると認めざるを得ない。

 いみじくも今月初旬に行われた「フェスティバル・トーキョー2009」の記者発表の冒頭、実行委員長の市村作知雄氏が、「舞台芸術は美術に大きく遅れをとっている」といった趣旨の発言をしていたが、それはより前衛的な作品の創作環境において、さらにはそれらを受け容れる土壌の豊かさにおいて大きな格差があるということでもあるだろう。

 さて、14日付の日経新聞では、瀬戸内海の7つの島々を舞台にした「瀬戸内国際芸術祭2010」が、開会1カ月を待たずに10万人を超える来場客が訪れていると報じている。
 フランスの美術家、クリスチャン・ボルタンスキーの「行くこと自体が難しい。しかし、とても美しい。アートは人々をそんな場所へも導くだろう」という発言が紹介されている。
 そう、美しいということはたしかに大きな要素であるのに違いない。

 同記事の中では、豊島の以前近隣住民が集まった水場近くに鉄の彫刻を置いた青木野枝の「3年後、住民の同意が得られなければ撤去する」という言葉も紹介されている。
 その「場」と「そこに住む人々」への関わり方の繊細さにおいて、その覚悟において、「演劇」が学ぶべきことは多いのではないだろうか。

マネとモダン・パリ展

2010-07-08 | アート
 丸の内に新しくできた三菱一号館美術館で開催されている「マネとモダン・パリ」展を観に行った。
 三菱一号館は、1894年、日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルの設計により建築された洋風事務所建築である。老朽化のため1968年に解体されたのだが、40年余りを経て原設計に基づき復元され、美術館としてよみがえったのだ。
 
 平日の午前中というのに入り口には多くの観客が立ち並び、入館まで25分待ちだという。わが日本はなんという「文化大国」かと誇らしく思う一方、大半が中高年の女性というその光景に何となく屈折した思いも湧いてくる。
 以前、友人の陶芸家RIKIちゃんが新国立美術館にルーシー・リーの展覧会を観に行って、「こりゃ美術館のアウトレットか」「中を歩いている人の7割は女のひとだったな。美術館は今やおばさんの一大リラクゼーション施設か。何となくおじさんは肩身が狭かった」と書いていたのを読んで思わず笑ってしまったことを思い出す。

 今回の展示作品のなかではやはり「死せる闘牛士(死せる男)」がひときわ印象的な実在感を放っている。「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」も美しいし、「花瓶に挿したシャクヤク」や「4個のリンゴ」のような静物画も素晴らしい。
 絵画に関して私はきわめてノーマルで保守的な美術ファンでしかない。
 
 そんな美術館につめかけた沢山の観衆を眺めながら、そこに展示されているマネの作品の多くが、発表当時はまったく相手にもされないか、あるいは嘲笑の対象だったことを思い浮かべると、実に複雑な感慨に捉われる。
 この人たちも、そしてただの愛好家に過ぎないこの私も、その目に映っているのは世俗的に確立した「評価」や「成功」、金銭に換算される「価値」なのであって、作品そのものの「価値」ではないのではないか。
 そもそも作品の「本当の価値」など誰にも分かりはしないし、そんなものが本当にあるかどうかも分かりはしないのである。
 では、私たちは何を見ているのか。

 岡本太郎がこんなことを言っている。(「ピカソ講義」)
 「ぼくはそういう意味で非常に腹立てたことがあった。戦後しばらくしてからのことだったが、新橋演舞場で三好十郎の『炎の人』という、ゴッホを主人公にした芝居をやったんです。見に行ったら、幕があく前にナレーションがあった。こんなんだった。『私はほとんど憎む。ゴッホが生きていたときにゴッホを認めなかった人たちを』って。それを聞いてカーッとなったね。なんだ、いまゴッホは世界的に有名であり、権威になっている。それに乗っかってドラマ化してる、テメエは何一つしたわけじゃない。お前さんがゴッホが生きて苦しんでいたあの時代にフランスにいたとしたら絶対認めっこなかったじゃないか。しかもいま日本に岡本太郎というゴッホほど悲劇的な人間がいるのに、全然認めやしないじゃないか(笑)」
 最後のオチも含めていかにも岡本太郎らしい。

 先日、ある文化フォーラムに参加した人たちのアンケートを読む機会があったのだが、その中に面白い意見があった。
 もう70歳に手が届こうという女性の方なのだが、ある高名な演劇評論家の講演を聞いた後の感想としてこんなことが書いてあったのだ。
 「そもそも私は演劇などにまったく興味がないので、今日の話は理解できなかった。演劇は感動を与えないし、感動を求めるなら音楽を聞きたい。歌舞伎など見ても面白くないし、衣装はきれいだが、それならどこかに展示された着物を見た方がよっぽどよい」

 決して安くはない受講料を払って聞いた講演の感想として実に面白いと思ったのだがいかがだろう。

 人が何かを観て、感じ、評価する。それはまったくその人、個人のものだ。
 何に感動し、何に関心を持たないか、そのための自由こそ守られなければならないのだろう。
 自分が役者だからといって、万人が演劇を好きだなどと夢にも思ってはならないと肝に銘じよう。
 

進化するモリカズ

2010-03-04 | アート
 今日、豊島区千早町にある熊谷守一美術館で「池袋モンパルナス」の名付け親といわれる詩人・画家:小熊秀雄の展覧会がオープンした。
 オープン前の早朝、特別に入館させてもらい、展示室に独りきりというこのうえない状況で作品と向き合う幸運を得た。1階、2階が熊谷守一の常設展示、3階ギャラリーが小熊作品の特別展示となっている。

 今から30数年前、97歳でこの地に没した熊谷守一だが、実は私の一番の自慢が生前の守一さんと直接お会いしているというものだ。
 おそらくは最晩年期だったろう、仙人と呼ばれた風貌そのままに真っ白な髭に顔を埋めたご当人とやはり美しい白髪の奥様が縁側で日向ぼっこをしていたのを思い出す。
 私は上京したての何も分からない小僧っ子で、ろくに挨拶もできず口をもごもごさせながら仕事で何かの集金に伺ったのだった。このお爺さんが何をしている人なのか無知な私は想像すらできなかったし、文化勲章をメンドクサイとばかりに断ったすごい人なんてことも当然ながら知らなかった。
 ただ、いつも伺うと仲良くご夫婦で縁側に座って庭の鬱蒼とした木々や草花を眺めていた。

 そんなことを思い出したので、小熊の絵ももちろんよいのだが、今日は守一先生の作品とじっくり対面し、お話をしてきた、つもりだ。
 何度も観ている絵なのだけれど、改めてそれを年代順に見直すと、その特徴ともいうべき、とことんムダを削ぎ落としたシンプルで純粋な画風は守一氏が65歳を過ぎた頃から顕れているのが分かる。
 自画像を比べても、50歳代後半の頃はまだいわゆる本格的なデッサンに基づく写実的な絵画なのだ。その頃は気難しい人柄だったそうで、その気風が絵にも滲み出ている。
 本当にモリカズらしい作品となるのが80歳になってからではないかと思うのだが、その「進化」ぶりにはまさに瞠目させられる。
 私などまだまだひよっ子だ、というのは当然にしても、その60歳までの期間にモリカズは描こうとして描けない時間、悩み抜いた時間、とことん対象物を眺めつくし、観察するという時間を幾重にも積み重ねているのだ。
 その基盤があってこその老年期からの脱皮であることを認識しなければならないだろう。

 描こうとしないこと、表現しないこと、ムダを削ぎ落とすこと、欲望しないこと、期待しないこと、演じないこと、ただそこに居ること・・・。

 その難しさ!

芸術家と長寿 その2

2009-12-31 | アート
 名だたる芸術家のなかでも天才中の天才と称されるパブロ・ピカソは生涯に6万点とも8万点ともいわれる作品を残したと言われる。
 これは創作に費やした期間を仮に10歳前後から死ぬまでの80年間と想定して、1日あたり2~3点の作品を毎日毎日創り続けた数に匹敵する膨大な量である。
 常人を超える精力の持ち主なればこそとも言えるけれど、ピカソはそうした集中力やエネルギーを持続するために、時代ごとに表現様式を全く別のものに変えたり、絵画にとどまらず彫刻、版画、陶器、舞台衣装、舞台美術など、興味の赴くままに取り組む表現分野を変えるなど、様々な工夫をし、それをある意味で《技=術》化していたと言えるだろう。

 マリ=ロール・ベルナダック、ポール・デュ・ブーシェ著「ピカソ 天才とその世紀」によれば、ピカソは、無駄な動きを一切せずに、3、4時間あまりも立ったまま続けて描くことができたそうだ。(以下引用)
 「そんなに長い間立っていて疲れないのかと、私は彼に聞いてみたことがある。彼は首を振った。
 『いや、描いている間、私はイスラム教徒がモスクに入る前に履物を脱ぐように、戸口に肉体を置いてきているのだ。このような状態では、肉体は純粋に植物的にしか存在していない。だから、われわれ画家はたいていかなり長く生きるのだ。』」とピカソは言っている。

 熊谷守一は戦前期、豊島区にあった長崎アトリエ村の芸術家達の守護神とも目された人だが、97歳で亡くなるまでの晩年の15年ほどは自宅の庭から一歩も出ることなく「仙人」と称された。
 この仙人は日がな一日、庭に寝ころがって蟻んこの動きを眺めて飽きることがなかった。さらには小さな石ころを飽かず見つめては面白がっていたという。

 先のピカソが言った「このような状態では、肉体は純粋に植物的にしか存在していない」という境地と相通ずるものがあるのではないだろうか。
 そうしたなかで生み出された熊谷守一の作品は、無駄なものを極限まで削ぎ落とした簡潔さと絶妙のバランス感覚による誰にも真似のできない高度なデザイン性を感じさせるものだ。
 これは自分自身を無化し、対象物と同化することではじめて得られる画境といえるだろう。これもまた、自分の肉体を植物や無機物に転化するという《技=術》なのである。

 さて、私自身が役者として舞台上で誰か別の人物を演じるとき、古典的な言い方をするならば、私はその人物の人生を生きている、ということになる。
 その間、私は自身の時間を止めることで、よりいつまでも若くいられるのだろうか、それとも、二人分の人生を生きることで倍も早く老け込んでしまうことになるのだろうか。

 これは深い謎である。

芸術家と長寿

2009-12-31 | アート
 葛飾北斎、横山大観、パブロ・ピカソ、グランマ・モーゼス、小倉遊亀、片岡球子、中川一政、熊谷守一、森田茂・・・。
 ここで質問。これらの人々に共通するものは何か・・・。

 そう、その誰もが、90歳あるいは100歳を超えてなお現役として作品を創り続けた芸術家たちなのである。
 《芸術家》というと何となく20代、30代で夭折した早熟の天才というイメージがつきまとうのだけれど、意外なことに実に多くの芸術家が長寿で、それも最晩年に至るまで創作活動にいそしんだという事実には驚かされる。その秘密は何なのだろう。
 絵筆や彫刻のノミを手に、あるいは粘土をこねながら、常に観察を行い、記憶し、様々に色や形を組み合わせ新たな様式を生み出すという仕事が頑健な身体や活発な脳の保持に役立っているということはいえるかも知れない。
 それ以上に、彼らは、作品を創るという行為を《日常化》するなかでそれをより持続するための《技=術》を習慣化することができていたのだろうと思う。

 まず触れておきたいのが、アンナ=メアリ=ロバートソン=モーゼスこと、グランマ=モーゼス(モーゼスおばあちゃん)である。
 彼女が本格的に絵を始めたのは何と75歳の時だったという。1940年に80歳で初めての個展を開くや、画家としての彼女の存在はアメリカだけではなく、世界に知られることになり、その後101歳で亡くなるまで作品を描き続けた。
 75歳まで絵を始めることのなかった彼女は、それまでの人生の大半を忙しい農民の妻として過ごした。その生活がのちの画家としての彼女の資質を育んだことは間違いないだろう。
 彼女は、1860年ニューヨーク州の小さな農村・グリニッチに生まれた。12歳から近くの農家に奉公に出て15年間働き、27歳で結婚して10人の子供を出産、そのうち5人を亡くし、67歳で夫と死別する。その後、病弱な娘アンナを助けるためにヴァーモント州ベニントンへ。そしてリューマチで手をおかしくしてから絵筆を取ったのだ。
 彼女は身の回りのもの何にでも絵を描いていたそうだが、このことは、彼女にとっての表現行為がそれまでの労働とひと続きのものであるということを示しているように思える。
 
 グランマ=モーゼスの人生から私たちが汲み取りうる最も「素朴」で単純な教訓は、人間はいくつになってもあきらめてはいけないということだろうが、それ以上に重要なのは、《表現》に至る観察する眼や好奇心をいかに持続して習慣化するかということであるはずだ。彼女はそのことを長い労働を通して身につけたのである。

 冒頭に掲げた90歳超の長寿者のなかには列せられなかったものの、丸木スマもまたグランマ=モーゼスに似た表現者の一人である。
 丸木スマ(1875-1956)は、70歳をこえてから絵を描きはじめ、81歳で亡くなるまでの間に700点以上もの作品を残した。
 気骨のある働き者だったというが、《原爆の図》で知られる長男の丸木位里と俊夫妻にすすめられて初めて絵筆をとった。
 元気よく育った木々や草花、可愛がっていた犬や猫、とりたての野菜、山里を行き交う鳥や虫たちなど、日々の暮らしで親しんだ生命あるものの姿をいきいきととらえた天衣無縫で色彩豊かな作風は、今でも多くの人に親しまれている。
 彼女の作品もまた、彼女自身の生活の積み重ねや習慣化された《技=術》のなかから生まれたものに違いない。

 芸術家一人ひとりにそうした創作活動にまつわる生活習慣の挿話があるはずで、そうした話には思わず耳を傾けたくなってしまう。

マンガの国

2009-08-03 | アート
 先月、7月21日付毎日新聞の夕刊に東京大学大学院の渡辺裕教授が<「国営マンガ喫茶」は無駄づかいか 「芸術」の概念にとらわれぬ議論を>という文章を寄せている。
 これは国の補正予算に組み込まれた例の「国立メディア芸術総合センター」がろくな議論もないまま「無駄づかい」の大合唱におしつぶされてしまっている様相に疑念を感じての問題提起である。
 無駄づかいを唱える人々の意識には、アニメやコミックへの根強い「差別」意識がひそんでいるのではないかというのだ。
 高尚な絵画とマンガ、クラシック音楽に対するロックやJ-Pop、歌謡曲などのポピュラー音楽を比較するとき、その前者には芸術的価値があり、後者は単なる娯楽であり価値が無いとする価値観はどのように醸成されてきたのだろうか。

 そもそも「芸術」という概念自体、近代になって西洋で生まれたものであり、「クラシック」に価値を認める考え方も、19世紀になって当時後進国であったドイツが「音楽の国」としてのアイデンティティを確立する過程とのかかわりで歴史的に形成されたとものであるらしい。
 それらは、西洋中心主義的なイデオロギー確立の過程とのかかわりを抜きに語ることはできず、永久不滅の芸術的価値などという観念自体、特定のイデオロギーの産物に過ぎないのである。

 100年後には、アニメやコミックを礼賛する人々が、昔は「現代芸術」などという奇妙な概念があって、わけのわからないアートがもてはやされていたなあなどと言っているかも知れない。
 その頃には、私の妄想だが、クラシック専用の音楽ホールなど、使い勝手の悪い集会施設として持て余され、パブリックアートはすでに廃棄されてアニメキャラクターが街の景観を彩る時代になっているかも知れない。
 また、その頃には地域のお祭も様変わりして、地元ゆかりの大名行列などにとってかわってアニメキャラクターのコスプレショーが幅を利かせているかも知れない。

 渡辺教授は、そうした中で何が重要なのか、世界の状況に照らしてどのようなものを選択し、これからどのような設計図のもとに文化を構築してゆくのか、よくよく考えてみようと言っているのである。

 さて、同日付の雑誌「エコノミスト」では、<「世界に誇る日本文化」の厳しい台所事情>として、市場縮小と地盤低下の進むマンガ、アニメ産業の状況を特集している。
 世界に誇る文化ともてはやされる一方、制作の海外への外注が進み、国内の制作現場が待遇面でも極めて厳しい状況にあることは以前も触れたが、この記事で認識を新たにしたのは、今の子どもたちがマンガを読まなくなっているという現実についてであった。
 今や「週刊少年マガジン」のコアな読者層は30代半ばの人たちであり、さらに読者年齢を引き上げる役目を果たしてきた団塊の世代のマンガ離れも、市場の縮小に拍車をかけているという。彼らは駅でマンガ雑誌を買う習慣があったが、定年退職に伴い通勤をやめると同時にマンガを読まなくなった。
 すなわち、マンガが売れなくなったのは景気後退に伴う一時的現象などではなく、構造的現象だというのだ。

 今あちらこちらでマンガやアニメによる街おこしが盛んになっている。
 それは団塊の世代の人々が地域がえりをして街づくりに取り組みはじめたこととも何らかの関係があるのかも知れない。
 それはそれで結構なことだと思うけれど、そうしたアニメによる街おこしや街づくりのなかで何を目標にするのか、よくよく考え議論することが必要だろうと思う。
 私の個人的な意見としては、パブリックな空間にアニメキャラが溢れ返るような街並みは決して好ましいものではない。
 マンガやアニメを真の文化に育て上げるうえで何が本当に必要なのか、大切なのはそのことに思いを寄せることではないだろうか。